paper-view

ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

Twitterがテレビになる日

自分が両親と暮らしていたとき、いつでも家族の集まる部屋はテレビがついていて、情報ソースの大部分はテレビ・新聞だった。自分はインターネットが隆盛したころからテレビや新聞から距離を置くことができるようになった。

 

2021年、2020年とTwitterの使用感が変わっている気がしてメモをしていました。

paperview.hateblo.jp

paperview.hateblo.jp

 

先日ふっと、あれ、自分とかの世代にとってのTwitter(または、SNS)って、自分の親世代とかのテレビ(またはマスメディア)みたいになってないか? と思い至りました。

特に理由がなくても垂れ流しているし、冷静・相対的であるように見えてそのエコーチェンバー・フィルターバブルの影響を多かれ少なかれ受けているし。他の新規サービスが出てもそちらを主軸にできないでいるし。なにより、取り上げられた場合、たぶん実生活で困るわけではないだろうけれど、精神的にはすごく「困る」のだろうと思うのです。

 

単一方向メディアであるテレビと双方向であるTwitterを比較するというのはねじれてしまっているような気がするのですが、テレビと距離を置く、という行為がインターネットの隆盛によって自然に自分の身に起こった年代としては、前代の支配的メディアだったテレビとの経験を持ってTwitterを見るのが良いような気がしてきました。

 

この2年でもTwitterのアクティブなユーザー数はかなり増えているというのをどこかで目にしました。大体はコロナ禍が影響しているようなのですが。しかし、自分の可処分時間は増えるわけでもないし、Twitterのインターフェースも大きくは変わらないので、利用者数の環境変化には大きく影響を受けている。

 

Twitterタイムラインの表示アルゴリズムが変化しているとは思うのですが「Twitterくん」と呼ぶことから始まる「過去のTwitterに戻してほしい」という願いは、ひょっとしてアルゴリズムよりも利用者数の増が原因で起こっていることが多いのではないか、という疑念を持ちました。そうだとすれば、自由な登録を防げない以上、この性質の変動を元に戻すこともできない。

 

HTML、CGI掲示板、ブログ、mixiもそれぞれ新しい情報や繋がりを作ってくれたけれども、Twitterほどには長くトップの座に居なかったし、ユーザー数が膨大になることもなかった。Twitterがテレビほど膨大なユーザー数を獲得したとき、そこで本当に双方向での情報のやりとりなんて成立するのか。テレビで流れていることに独り言でコメントするようなよくある自分の親世代の光景と、特に変わらないかもしれない、ということを自覚できているだろうか。などと考えました。

 

最近ではDiscordなども利用するようにはしているのですが、特に自分と一回り以上年齢が違う利用者になるともはやTwitterもあまり(発信用媒体として)使用していないような印象を抱くことがあります。となると「いままで発信についてTwitterに頼っていたこと」はできるだけ他の手段も持っていたほうがいいのかもしれません。

 

他の媒体を検討せずに、同じ媒体だけで満足し続けるようになっては、いつか自分も旧世代として歩みを止めてしまうかもしれない、と思ったので、ここに記録をしておきます。

社会心理学講義――<閉ざされた社会>と<開かれた社会>(筑摩新書)小酒井敏晶

www.amazon.co.jp

 

読了しました。

 

読みながら考えていたのは、この本の内容は以前に大学教育で専門の基礎的知識として学んだ自分としては全く驚くようなことは書かれていないのだけれども、はじめて読む人にとってはどのくらいショッキングなことなのだろうか、ということでした。

 

ミルグラム実験等も、学び始めた当時は自分にとっては鮮烈だった気がするのです。

ミルグラム実験 - Wikipedia

 

いつの間にか、自分の物の考え方が社会心理学を自然に受け入れるようなものになってはいるけれども、学んだことがない人にとっては特異な、奇妙なもの、受け入れるには少し準備がいるようなものである。

 

社会心理学を少しでも知っていることで、世の中で起こるショッキングなことは、共感はともかく、理解、そこに至るようになった流れみたいなものを辿ることができるようになるというか。少なくとも「そんなことが起きるなんて、信じられない」という否定はしなくなったように思います。瞬時に「どうしてそれが起こったのか、起こることが自然になったのか」をいくつかのツールから考えるようになった。

 

でも、それは別に望まれてはいない。望まれていないということもまた、いくつかのツールから理解することができる。結果、自分がただ単独に生きるのには便利だけど、自分が他者と関りながら生きていくときには乖離がある。誰かが何か理不尽なことを「納得できない」と思っている、その「納得できない」をもう心の底からは共有できないようになった。誰かの「納得できない」の回路の中身を分析してしまような妙な癖がついた。

 

さて、この本についてはそういうわけで、全体的には素養のおかげで自然に読むことができました。現役の大学生・院生として学んだ時からはだいぶ時間が経っているわけで、改めて現在の自分から、こういう知識をどう活かしていこうか、この素養とどう付き合っていこうかと考えるいい機会となりました。

ゲーム音楽を演奏する/聴く2022 劇伴を演って画をつくる

ぼんやりとゲーム音楽を楽器で演奏すること、それを聴くことについて考えていたのでまとめておくことにします。

 

結論ではいかにして情報量を増し、満足感を高めるのかということが大事なのだということを書きます。

 

自分にとってのゲーム音楽演奏は2006年から本格的に始まり、2010年から2015年にかけてピークを迎え、現在に至ります。

 

2014年にすでにこういうことを書いてました。

paperview.hateblo.jp

 

今当時の記事を振り返っても全く当時と同じ感想になるのですが、今日つらつらと考えていたことは「聴く人にとってはどうあったら満足度が高いのかな」ということでした。

 

マチュアの音楽は自己満足の追及でいいと思うのですが、他者満足もまた自己満足の一部だと思いますので、最大多数の最大幸福を考えていくということは無駄ではないと思います。

 

奏者にとってゲーム音楽演奏のフロンティア時代は終わった、さらに聴者にとってもフロンティア時代が終わった場合「ゲーム音楽を生演奏する」というジャンルはどうあるとハッピーであるのか、ということについて。

 

ということで話題を「劇伴(げきばん)」まで大きくします。ゲーム音楽(アニメでも演奏オフ系でもなんでもいいのですが)の演奏会がそれ以前の演奏会と異なる最大の点はそれが全曲劇伴で構成されているということだと考えています。

 

劇伴であるということは、演奏の結果に目指すイメージの完成形=答えがすでに存在しているということです。

 

演奏を聴くということがどういう結果をもたらすのかは人によってさまざまだとは思うのですが、演奏会に来てわざわざ能動的に音楽を聴く場合は、聴くということをきっかけに何らかの回路を経て満足を得ているはずです。この回路をきちんと考えたい。ゲーマー的に言うとぶっぱの運ゲーはやめたい。

 

もう15年以上前だけど強く頭に残っている友人の言葉に「いい絵にはいい音楽がついてくる」というのがありまして……いや逆だったかもしれない……印象だけが強く残っている……ともかく、聴覚とイメージ(画像/映像)がリンクしているのだということを意識するようになりました。この言葉を聞いたタイミングはムソルグスキー展覧会の絵吹奏楽編曲版を演奏する機会を持てたときでした。

 

音楽にはそれらが持つストーリーがあることが殆どであって、演奏することでストーリーを表現するわけですから、いい音楽を演奏することができればいい映像、いい絵、いい物語を感じることができるわけです。ハーメルンのバイオリン弾きでもソウルキャッチャーズでもそうだったでしょ。

劇伴ではない=音楽がオリジナルであるという場合は、各人が感じとるよい映像は同じでなくてもよいわけで、聴いたことによって感じる画は究極、なんだっていい。大抵はオリジナルの音楽であってもどういう情景を見せようとしているかの着想の解説なんかがあるので、演奏する側も聴く側もそれを手掛かりにそれぞれの映像を作るわけです。

 

じゃあそれをやるために演奏会に行ってるのかっていうと、当然そんなことはない。いやそういうことが大好きな人もいるんだと思うんだけど全員が全員そうではない。演奏会の会場が近所だからとか、友人知人家族が出演してるからとか、あとはそう、たとえば「ゲーム音楽の生演奏なんて珍しいから」みたいな感じで行くんじゃないでしょうか。

なんらかの動機はあって演奏会には行くんだけども、演奏会に行った現地ではその動機とは独立して演奏を解釈・イメージ化するプロセスが個々にあって、それが良いものになると満足度が高い。

 

劇伴に戻ります。劇伴の場合は結実してほしい映像=良いイメージがもうあるわけですから、できるだけそこに導く、もしくはたどり着くことができると満足度が高いわけで、そのための一番の手段は「知ってること」だと思います。つまり知らない曲であれば当然満足度は下がる。ていうか良い演奏ができたとしてもそれが答えに近いかどうか測る手段がない。

それを何で埋めていたかっていうと、フロンティア時代はそのフロンティアっぽさだったということがあるんじゃないでしょうか。

 

仮にそれが「そうだね!」ということになると、じゃあもとに戻らんじゃんもうフロンティアじゃないんだから、というオチになってしまうので「それはそうなんだけど、バフが切れたんだからベースのレベリングで頑張ろうぜ」というのがゲーマー的な攻略ではないでしょうか。

つまり「自分や相手の知らんタイトルの場合どうすると満足するのか」を戦略的に考える。

 

奏者の場合はそのタイトルに触れればいい。お客さんの場合もそうですけど、プログラムを全部開示しない場合もあるので難しい。劇伴のメドレーだとどこの何を採用するのかも知りようがないからもっと難しい。

 

だから「楽曲解説」とかの導線を大事にするのだと思うのです。

演奏会のフォーマットって、ゲーム音楽オケ以外でもだいたい似通ってて

・会場に入るとパンフレットがある ←ここに楽曲解説が書いてある

・演奏前にMCがある ←ここで楽曲解説してくれる

・演奏する ←直前の解説の答え合わせをここでする

ということでだいたい導線が完成されてたりするわけです。

 

が、実はここに変化がありまして、コロナ禍に入ってから演奏会は一大オンライン配信時代を迎えたわけですが、ここで結構な割合、パンフレットにアクセスできなかったり、感染症対策で紙モノ配るの辞めちゃったり、配信映像で画面は占有してるからpdfパンフは同時に観れなかったり、三点釣りの音源だからMCがよく聞こえなかったりしてしまう。こいつが情報の導線として結構致命的だと思うんです。

 

音楽に限った話ではないですが、彼我の情報の差を意識することって大事で、勝負の場では情報量の差がそのまま戦力の差になるし、逆に相手に自分と同じ満足度を得てもらおうと思ったら、自分と相手の情報の差を減らすことはとても大事です。新人に仕事を教える時にどうコーチするかは常に相手が知らないことを意識する必要があるのと一緒ですね。

もし演奏会における楽曲についての「情報」の彼我の差を意識することが(これまでのバフの恩恵によって)なかったのなら、それはちゃんと意識したほうがいいと思うのです。

 

「知らなかったけどいい曲だった」「原作をやってみたくなった」とかはゲーム音楽演奏会ではよく聞かれる嬉しい感想で、いい画を見せることができた結果なのかなと思いますが、これが「演奏のみ」で達成できる、または聴き手としてもノー予習でたどり着くのは結構難しいのではないかと思うのです。

 

基礎体力ではないところで別のバフをかけるという手もなくはないと思います。楽団そのもののバリューをあげるとか、演奏タイトル以外のところを面白くしておくとか。それでも結果的に満足があれば、それは演奏の評価に繋がったりもすると思うので。

とはいえ、劇伴をやってるとすれば基になってるタイトルがあるわけですから、それは事前でも当日でも、ありとあらゆる方法でその情報量を増す、今までの方法を分解分析してこれからも同じ情報量を達成できるようにする、そういうことを意識しても良いんじゃないかなぁ、などと思ったのでした。

同じゲームの解き方が違った

母に「スバラシティ」というパズルゲームを勧めてみた。

インディーゲームの紹介本で面白そうだったので遊んでいたもので、switch版なら値段は500円程度だし、スマートフォンなら無料版がある。母はファミコン時代にテトリスほか任天堂のパズルゲームを楽しんでいたし、ソリティアや二角取りを延々やるようなこともあったので楽しんでくれるだろうと思った。

思った通り母は楽しんでくれたのだけれど、ここで気づきがあった。母のスコアの伸びが自分と比べて明らかに鈍い。

「スバラシティ」のルールは簡単で、5×5のマスにある隣り合った同じ色のパネルを合体させハイスコアを目指すゲームだ。加えていくつかのルールがあり、ハイスコアを目指すにはある程度戦略、パネルの合体させる方向や順序を工夫していく必要がある。

そんなに難しいものではないので、自分自身では一定回数のプレイで最高ランクに到達することができた。が、どうやら母はそこまでたどり着かなかったらしい。

 

ここでふと思ったのは「作業」をする場合に「戦略」は練らない場合があるということだった。

Aという目的を達成するためにはBという作業を行う。Aという目的はCという前提を達成するために行われる。

この場合Bという実作業はAという目的のために必要な改善をすることができる。2Dプラットフォームであれば、A=ゴールへの到達、B最適なキャラクターの操作で、ロックマン等ではこれらをトライアンドエラーによって最適へと改善していく。ゲームではこのように設定している場合、C=前提が変わることは考えにくい。

しかしAの目的がプレイそれ自体であった場合、Bは最適へと改善されなくても達成される。つまり暇つぶしそのものが最終目標である場合だ。それによって充実感が得られるのであれば必ずしもBが改善されなくても問題はない。ゲームなら。

 

自分の体験から離れて一般論に移動していく。「仕事」「教育」などでも「B=作業」を行うことはたびたびある。でもこの時「A=目的」がどのくらい共有できているだろうか。現状のB=作業でA=目的が達成される場合、Bは改善される必要はひとまずないし、Aは意識されなくても構わないという場合はありそうだ。

つまり、社員が成果を上げてくれるならば、目的や理念は共有されなくても事業は達成できるし、公教育で生徒の成績が上がれば何のためにそれを学ぶかということは共有されなくても社会的にも成果は出る。

ひょっとすると個人によっては「B=作業」を処理するためにA=目的は一切意識しないのかもしれないし、C=前提なんてもっと気にしないという処理をしているのかもしれない。というよりは、人によってそれを気にするレベルには差があるのだろう。自分もいちいち排泄の目的も前提も気にしないで排泄という作業をする。

でも「みんなで同じことをする」という場合にはこの差異は考えておいた方がいい気がする。「B=作業」だけを見てしまえば「A=目的」のためにより良い作業方法を気にするということをしなくなってしまう。現場を改善するためにアイデアを出すと怒り出す人、というのはこういうところから来るのかもしれない。もっと言えばC=前提が崩れた場合にはもはや「B=作業」をしない、ということもあり得ると思うのだけど、もし意識しなければリターンがなくてもいくらでも作業をしてしまうということもあり得る。A=教育を実施する、とB=カリキュラムを実行する、だけが視点にあるとC=問題解決能力を得る/社会全体の能力を底上げする が薄れ、即物的な知識だけを教育カリキュラムに求めるようなこともありうる。

 

どのくらいの視点から物を評価するのか、の共有は重要だと再認識した体験だった。

言葉とその機能について(シン・ウルトラマンの感想)

「シン・ウルトラマン」を観ました。

shin-ultraman.jp

 

ウルトラマンについて、シリーズの素養が全然ないのでそちらの方面での感想は置いておくとしまして、シン・ゴジラからシン・ウルトラマンと続く「言葉の美しさ」について綴ってみたいなと思います。

 

シン・ゴジラ、シン・ウルトラマンともに、政府の事務官による機能的な言葉のやりとりが展開されるんですが、これが非常に美しくて、両作品とも楽しく聴いていました。いわゆる「耳が幸せ」という状態です。

 

幸せに感じる理由は「目的を達成するための言葉選び」が隙なく選択されているからです。

 

ある程度以上大きな組織・集団で行動をするとき、その内部を統制するためにどうしても課題となることに「目的」と「手段」に対する個々の観念の違いがあります。一般的な言い換えを試すとすれば「人を殺してはいけない」ということについて。目的は殺人の発生数を減らすことが選択されたとして、それに対しての手段、個々人が「自分が殺人を犯さない理由」には幅があります。

この時「目的」ではなく「手段」に対して感情的に同調するような方法を取って自身をコントロールしようとすると、では目的が変動して戦場に戦士として参加し、積極的に殺人を犯さなくてはならない状況になった場合には選択した「手段」もしくは手段を肯定するための感情に縛られてしまい、状況に対してエラーが起こります。

 

とはいえ「目的」というのは手段やそれを支持する感情に対して上位の概念なので、全体で一律に共有することは困難だったり、手段の前に忘れ去られてしまったり、そういうエラーが起こりやすくなる。でも、状況が目まぐるしく変わり、それに対する即応が求められるような状況では「目的」が共有されたメンバーが全体を担っていないとその下位にある手段が破綻を起こします。

 

どちらも人類が超危機的状況にある中で組織の機能美を描くシン・ゴジラとシン・ウルトラマンでは、この状況に対して「目的」(=国防、存続、巨大不明生物/禍威獣の排除)に対応する、「目的」のために己の領域でベストを尽くす人々の戦いなので、ここで発される言葉は非常に研ぎ澄まされていて、聞いていて気持ちが良いのです。

 

それらは顔が登場しない諸外国勢力、外星人でも徹底されていて、全編にわたって個々人の私的な領域以外では一切「感情が手段や目的より前に出てしまう」というようなことがなかった。だからこそ私的な領域で出てくる個々の登場人物の私的な言葉に人間味が強く感じられる、と感じたのです。

 

言葉以外の映像も、楽しく観られる箇所がたくさんあったのですが、ひとまず言葉について持った感想でした。

ベアルファレス(2000年・ゲーム)感想

ベアルファレス」というアクションRPGゲームをクリアしました。

 

www.jp.playstation.com

 

プレイステーション2が発売される少し前のゲームで、ソニーから発売されています。

遊んだきっかけは、自分が「プレイステーション1時代のTVCM」が大好きで、それを収録した媒体であるプレイステーションの会員サービス会報ROMをオークションや中古ショップなどで買い漁っていまして、そのROMの中に収録されていたティザームービーで興味を持った、というものです。

 

遊んだ媒体はゲームアーカイブスPSvitaにて。

実際に遊んでみると、PS1時代のゲームとしてはかなりレスポンスがよく気持ちいいです。ロード時間も気になるほどの長さではなく、ゲームとしての作りの丁寧さを感じます。

 

お話は「メイドインアビス」っぽくもあり「風の谷のナウシカ」っぽくもあり。基本、突如発見されたダンジョンとそこに挑戦するための集落しか描かれないので、世界を旅するような広がりがあるものではないですが、その代わりにこの局所に対する設定の深さはすさまじいので、お腹いっぱいになれます。

 

アクションRPGのシステムとしてはPS1としては驚くくらいにステージ上の「タイル」を厳密に守った作りになっています。タクティクスオウガファイナルファンタジータクティクスのような画面でアクションRPGをやっている、と言えば良いでしょうか。聖剣伝説のようにフリーな動きはできません。その代わりに、各アクションはその厳密なタイルを活かしたものになっており、アクションとパズル要素がちょうどよく配置されているので、単調に陥ることもありません。

 

ゲーム難度としては中程度かやや難しめ。レベルの概念がありますが、一方で時間制限を厳しく要求されるようなマップもあり、プレーヤースキルは必要とされます。ゲーム初心者に対してはなかなかシビア。ラスボスはレベルを上げて物理で殴るが通用しましたが、それまでの本編を正攻法で戦っていてもラストでわけがわからん密度で襲われ、スキルで勝てたという印象が残っています。

 

主人公以外に2名のキャラを同行させダンジョンに挑戦し、キャラクターとの関係をはぐくみ、キャラクターとのエンディングがあるのですが、メインシナリオも含めこのキャラクターたちとの関係に用意されたテキストの量がどうやらすさまじいです。プレイは通しでゲーム内タイマー10時間程度ですが、仮に全てのイベントテキストを観ようとすれば、この無数の組み合わせに挑戦していくことになるわけで、ものすごいボリュームです。

 

ドット絵もモブも含めてかなり細かく動くので、今の時代にsteamなどでインディーゲームとして販売されても十分戦えるのではないかと思います。当時の売り上げ本数は1万本程度のようで、隠れた名作と言って差し支えないのではないかと。

 

自分はサラエンドでしたが、もっと条件の厳しそうな他のエンディングも気になるところです。