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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

ゲーム音楽を演奏する/聴く2022 劇伴を演って画をつくる

ぼんやりとゲーム音楽を楽器で演奏すること、それを聴くことについて考えていたのでまとめておくことにします。

 

結論ではいかにして情報量を増し、満足感を高めるのかということが大事なのだということを書きます。

 

自分にとってのゲーム音楽演奏は2006年から本格的に始まり、2010年から2015年にかけてピークを迎え、現在に至ります。

 

2014年にすでにこういうことを書いてました。

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今当時の記事を振り返っても全く当時と同じ感想になるのですが、今日つらつらと考えていたことは「聴く人にとってはどうあったら満足度が高いのかな」ということでした。

 

マチュアの音楽は自己満足の追及でいいと思うのですが、他者満足もまた自己満足の一部だと思いますので、最大多数の最大幸福を考えていくということは無駄ではないと思います。

 

奏者にとってゲーム音楽演奏のフロンティア時代は終わった、さらに聴者にとってもフロンティア時代が終わった場合「ゲーム音楽を生演奏する」というジャンルはどうあるとハッピーであるのか、ということについて。

 

ということで話題を「劇伴(げきばん)」まで大きくします。ゲーム音楽(アニメでも演奏オフ系でもなんでもいいのですが)の演奏会がそれ以前の演奏会と異なる最大の点はそれが全曲劇伴で構成されているということだと考えています。

 

劇伴であるということは、演奏の結果に目指すイメージの完成形=答えがすでに存在しているということです。

 

演奏を聴くということがどういう結果をもたらすのかは人によってさまざまだとは思うのですが、演奏会に来てわざわざ能動的に音楽を聴く場合は、聴くということをきっかけに何らかの回路を経て満足を得ているはずです。この回路をきちんと考えたい。ゲーマー的に言うとぶっぱの運ゲーはやめたい。

 

もう15年以上前だけど強く頭に残っている友人の言葉に「いい絵にはいい音楽がついてくる」というのがありまして……いや逆だったかもしれない……印象だけが強く残っている……ともかく、聴覚とイメージ(画像/映像)がリンクしているのだということを意識するようになりました。この言葉を聞いたタイミングはムソルグスキー展覧会の絵吹奏楽編曲版を演奏する機会を持てたときでした。

 

音楽にはそれらが持つストーリーがあることが殆どであって、演奏することでストーリーを表現するわけですから、いい音楽を演奏することができればいい映像、いい絵、いい物語を感じることができるわけです。ハーメルンのバイオリン弾きでもソウルキャッチャーズでもそうだったでしょ。

劇伴ではない=音楽がオリジナルであるという場合は、各人が感じとるよい映像は同じでなくてもよいわけで、聴いたことによって感じる画は究極、なんだっていい。大抵はオリジナルの音楽であってもどういう情景を見せようとしているかの着想の解説なんかがあるので、演奏する側も聴く側もそれを手掛かりにそれぞれの映像を作るわけです。

 

じゃあそれをやるために演奏会に行ってるのかっていうと、当然そんなことはない。いやそういうことが大好きな人もいるんだと思うんだけど全員が全員そうではない。演奏会の会場が近所だからとか、友人知人家族が出演してるからとか、あとはそう、たとえば「ゲーム音楽の生演奏なんて珍しいから」みたいな感じで行くんじゃないでしょうか。

なんらかの動機はあって演奏会には行くんだけども、演奏会に行った現地ではその動機とは独立して演奏を解釈・イメージ化するプロセスが個々にあって、それが良いものになると満足度が高い。

 

劇伴に戻ります。劇伴の場合は結実してほしい映像=良いイメージがもうあるわけですから、できるだけそこに導く、もしくはたどり着くことができると満足度が高いわけで、そのための一番の手段は「知ってること」だと思います。つまり知らない曲であれば当然満足度は下がる。ていうか良い演奏ができたとしてもそれが答えに近いかどうか測る手段がない。

それを何で埋めていたかっていうと、フロンティア時代はそのフロンティアっぽさだったということがあるんじゃないでしょうか。

 

仮にそれが「そうだね!」ということになると、じゃあもとに戻らんじゃんもうフロンティアじゃないんだから、というオチになってしまうので「それはそうなんだけど、バフが切れたんだからベースのレベリングで頑張ろうぜ」というのがゲーマー的な攻略ではないでしょうか。

つまり「自分や相手の知らんタイトルの場合どうすると満足するのか」を戦略的に考える。

 

奏者の場合はそのタイトルに触れればいい。お客さんの場合もそうですけど、プログラムを全部開示しない場合もあるので難しい。劇伴のメドレーだとどこの何を採用するのかも知りようがないからもっと難しい。

 

だから「楽曲解説」とかの導線を大事にするのだと思うのです。

演奏会のフォーマットって、ゲーム音楽オケ以外でもだいたい似通ってて

・会場に入るとパンフレットがある ←ここに楽曲解説が書いてある

・演奏前にMCがある ←ここで楽曲解説してくれる

・演奏する ←直前の解説の答え合わせをここでする

ということでだいたい導線が完成されてたりするわけです。

 

が、実はここに変化がありまして、コロナ禍に入ってから演奏会は一大オンライン配信時代を迎えたわけですが、ここで結構な割合、パンフレットにアクセスできなかったり、感染症対策で紙モノ配るの辞めちゃったり、配信映像で画面は占有してるからpdfパンフは同時に観れなかったり、三点釣りの音源だからMCがよく聞こえなかったりしてしまう。こいつが情報の導線として結構致命的だと思うんです。

 

音楽に限った話ではないですが、彼我の情報の差を意識することって大事で、勝負の場では情報量の差がそのまま戦力の差になるし、逆に相手に自分と同じ満足度を得てもらおうと思ったら、自分と相手の情報の差を減らすことはとても大事です。新人に仕事を教える時にどうコーチするかは常に相手が知らないことを意識する必要があるのと一緒ですね。

もし演奏会における楽曲についての「情報」の彼我の差を意識することが(これまでのバフの恩恵によって)なかったのなら、それはちゃんと意識したほうがいいと思うのです。

 

「知らなかったけどいい曲だった」「原作をやってみたくなった」とかはゲーム音楽演奏会ではよく聞かれる嬉しい感想で、いい画を見せることができた結果なのかなと思いますが、これが「演奏のみ」で達成できる、または聴き手としてもノー予習でたどり着くのは結構難しいのではないかと思うのです。

 

基礎体力ではないところで別のバフをかけるという手もなくはないと思います。楽団そのもののバリューをあげるとか、演奏タイトル以外のところを面白くしておくとか。それでも結果的に満足があれば、それは演奏の評価に繋がったりもすると思うので。

とはいえ、劇伴をやってるとすれば基になってるタイトルがあるわけですから、それは事前でも当日でも、ありとあらゆる方法でその情報量を増す、今までの方法を分解分析してこれからも同じ情報量を達成できるようにする、そういうことを意識しても良いんじゃないかなぁ、などと思ったのでした。