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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

同じゲームの解き方が違った

母に「スバラシティ」というパズルゲームを勧めてみた。

インディーゲームの紹介本で面白そうだったので遊んでいたもので、switch版なら値段は500円程度だし、スマートフォンなら無料版がある。母はファミコン時代にテトリスほか任天堂のパズルゲームを楽しんでいたし、ソリティアや二角取りを延々やるようなこともあったので楽しんでくれるだろうと思った。

思った通り母は楽しんでくれたのだけれど、ここで気づきがあった。母のスコアの伸びが自分と比べて明らかに鈍い。

「スバラシティ」のルールは簡単で、5×5のマスにある隣り合った同じ色のパネルを合体させハイスコアを目指すゲームだ。加えていくつかのルールがあり、ハイスコアを目指すにはある程度戦略、パネルの合体させる方向や順序を工夫していく必要がある。

そんなに難しいものではないので、自分自身では一定回数のプレイで最高ランクに到達することができた。が、どうやら母はそこまでたどり着かなかったらしい。

 

ここでふと思ったのは「作業」をする場合に「戦略」は練らない場合があるということだった。

Aという目的を達成するためにはBという作業を行う。Aという目的はCという前提を達成するために行われる。

この場合Bという実作業はAという目的のために必要な改善をすることができる。2Dプラットフォームであれば、A=ゴールへの到達、B最適なキャラクターの操作で、ロックマン等ではこれらをトライアンドエラーによって最適へと改善していく。ゲームではこのように設定している場合、C=前提が変わることは考えにくい。

しかしAの目的がプレイそれ自体であった場合、Bは最適へと改善されなくても達成される。つまり暇つぶしそのものが最終目標である場合だ。それによって充実感が得られるのであれば必ずしもBが改善されなくても問題はない。ゲームなら。

 

自分の体験から離れて一般論に移動していく。「仕事」「教育」などでも「B=作業」を行うことはたびたびある。でもこの時「A=目的」がどのくらい共有できているだろうか。現状のB=作業でA=目的が達成される場合、Bは改善される必要はひとまずないし、Aは意識されなくても構わないという場合はありそうだ。

つまり、社員が成果を上げてくれるならば、目的や理念は共有されなくても事業は達成できるし、公教育で生徒の成績が上がれば何のためにそれを学ぶかということは共有されなくても社会的にも成果は出る。

ひょっとすると個人によっては「B=作業」を処理するためにA=目的は一切意識しないのかもしれないし、C=前提なんてもっと気にしないという処理をしているのかもしれない。というよりは、人によってそれを気にするレベルには差があるのだろう。自分もいちいち排泄の目的も前提も気にしないで排泄という作業をする。

でも「みんなで同じことをする」という場合にはこの差異は考えておいた方がいい気がする。「B=作業」だけを見てしまえば「A=目的」のためにより良い作業方法を気にするということをしなくなってしまう。現場を改善するためにアイデアを出すと怒り出す人、というのはこういうところから来るのかもしれない。もっと言えばC=前提が崩れた場合にはもはや「B=作業」をしない、ということもあり得ると思うのだけど、もし意識しなければリターンがなくてもいくらでも作業をしてしまうということもあり得る。A=教育を実施する、とB=カリキュラムを実行する、だけが視点にあるとC=問題解決能力を得る/社会全体の能力を底上げする が薄れ、即物的な知識だけを教育カリキュラムに求めるようなこともありうる。

 

どのくらいの視点から物を評価するのか、の共有は重要だと再認識した体験だった。