paper-view

ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

「えんとつ町のプペル」と西野氏のあれこれを見ながら、本来これって理想的な形だったんじゃなかったけと思った話

この記事について、巷でいろいろと話題になっている「えんとつ町のプペル」(以下プペル)と西野氏のあれこれについては、自分は是でも非でもない、ということだけ先に述べておきます。

 

なお、この記事を書いている時点ではまだえんとつ町のプペルは視聴しておりません。

 

2021年1月、ネットであれこれ話題になっているプペルまわりの記事を見ながら、ふっと「あれ、これって自分が考えていた、ネット以降のクリエイターとそれを支える人の理想的な関係に似ているような気がする……」とふと思いました。

 

この関係というのは何かというと、クリエイターとそのクリエイターを支持する人が直接繋がって、そこで中間マージンの発生することなく作品に対する対価の支払いがあれば、個々のクリエイターはネット以前の時代より少ない支持者数でも生活を維持することが出来る、という関係です。

 

従来、ものの複製にはそれ相応のコストがかかったので、クリエイターがその利益を最大化するためには、受け手の数を増やす必要があり、そのためには複製を届けることを専門に行う人がクリエイターとは別に必要になる、受け手の数を増やすには「流行」に乗るか、もしくは流行を作るしかない、という図式だったと思うのですが、現代ではデジタルコピーはほぼ無料で可能、その流通もネットワークでほぼ無料で可能、ということになれば中間業者は必要がなくなり、受け手の数を増やさなくても、一定の支持者がいれば生活が成り立つようになり、作品の多様性が拡がり、小規模の支持母体をもつクリエイターが多数成立する、と考えていたのです。

 

たとえば、書籍の印税なんかは10%程度と聞きますが、1000円の書籍が一万冊売れると収入は100万円で、専業作家が仮に500万の収入を得ようとすると一年に五冊を書かなくてはなりません。(ざっくりですよざっくり)

でも中間業者を挟まずすべての売り上げが手元に入るとすると、十分の一の売り上げで同じ収入になる。(経費なんかは割愛していますよ)

 

だから、理屈では、西野氏のようなクリエイターは、その支持層との間でコミュニティを作り、その中で支持者から作品や表現の対価を受け取るわけで、そこだけ見れば理想的な関係だと思うわけです。直接繋がっているわけですので。

 

が、実際にはそこに第三者の目が入っていったわけです。それに至った理由というか、西野氏の振る舞いや作品(パフォーマンスを含みます)だったり、またその支持者たちの行動だったり、そういうものに批判や好悪はあると思いますが、それはここでは除外して考えて、単にコミュニティは外に向かって開かれ、外から見られてしまった。

 

興味深かったのは、外に向かって開かれたときには「外向けのお作法」が求められる状態になってしまったということです。これは「支持者がクリエイターを外向けにアピールする」「クリエイターの作品の規模が一般流通レベルまで大きくなる」などの要因で起こるのだと思います。

 

もしプペルがそのコミュニティの中だけで完結していれば、プペルやその作者である西野氏が支持層に対してどんな振る舞いでいたとしても、それが支持層に支持されるものであれば大きな問題はなかったのだと思います。

 

例えば大学生がサークルの人間関係の中でブイブイ言わせていたとしても、多少イタい発言をしたとしても、その人間関係の中で支持されていればなんの問題もない。けれども、それがひとたび外に出るとその大学生は、外向けの作法を逸しているということでイタい人に堕ちてしまう。眉を顰めるように見られてしまう。そういうような状態がプペルを取り巻くもろもろに生じているのではないでしょうか。

 

結局のところ「プペル」は一般流通に乗り、劇場で簡単に観られるようになったわけなので、そういう作法を求められること自体は致し方ないかと思いますが、そうなると結局、クリエイターとして「自分の支持層だけに受け入れられるような振る舞い」だけでは支持に限界があるということで、作品やクリエイターの振る舞いは旧態のものから離れるのが難しくなってしまうのではないでしょうか。

 

クリエイターの振る舞い自体が商品になるというのはなかなか面白いことだと思うのですが、こういった現象が起こるというのは良くも悪くも興味深いなと思います。

シロナガス島への帰還/Tokyo Dark 感想

「シロナガス島への帰還」と「Tokyo Dark」をプレイしました。

store.steampowered.com

store.steampowered.com

 

「シロナガス島への帰還」はややホラー表現が強めのノベルゲームです。クローズドサークルでミステリー風味ではありますが、謎解きは難しくないので、頭を使うというよりもノベルゲームという感覚です。とはいえきちんとセーブしないとかなり手前まで戻されることになるのできちんとセーブしましょう。

 

キャラクターの立ちが非常に素晴らしくて、突拍子もない設定ではあるんですがすぐに好感を持てました。状況の特殊性がキャラを受け入れることを補助してくれるのかも。全体で6時間くらいだと思いますが、クリアした際の読後感が良く、ゼロ年代の古き良きノベルゲームがお好きな方はきっと気に入ると思います。

 

クリア後にはextraモードがあるのですが、これがホラーと嗜好の面で作者さんの趣味がバリバリという感じです。キャラクターに好感を持てた後なのでしっかり楽しめますが、気合の入り方はextraモードのほうが上ですね。

 

 

 

「Tokyo Dark」は横スクロールのポイント&クリックアドベンチャーゲームで、サイコホラーです。主人公の女刑事が特殊な事件を追う……というものですが、どっきりさせるというものではなく画像や演出でじわりと怖がらせていくタイプのものです。能面がたくさん出るので苦手な人はやめておきましょう。

 

こちらはあまり考えないで進めると主人公が何でも銃と暴力で解決する人になってしまい、また海外で作られたシナリオのせいか全体的に感情の動きが日本のそれより激しい印象です。その分キャラクターへの感情移入は弱めで、謎を追いたいという気持ちも強く持てず。ひとまず最後までプレイしていくつかのエンディングをみたけれども、このくらいでいいかな……という気持ちになってしまいました。

 

暫くアドベンチャーが続いたので、次は横スクロールアクションとかがやりたい気分ですね。

2020年を振り返る

2020年はなかなか特異な年だったので、書いておこうと思います。

 

コロナウィルスについては現在もまだまだ油断できない状況で、ゴールデンウィーク前後に、コロナウィルスについて今の気持ちで話しておこうか、と「ぴよんち」で語っていたよりも状況がそう好転していないということは当時は想像していませんでした。

 

一方、人類はこれまで様々な感染症をその知恵で乗り越えてきたわけですから、今回もなんとかなるだろう、という感覚で過ごしています。医学の発達した現代に生きていることに感謝です。

 

生活はいくつかの変化がありました。

まず、長い間その作品群に触れ、二次創作の対象にもしていたアイドルマスターシリーズへの興味が急速に落ち着いてしまいました。3月頃、担当アイドルだった荒木比奈の新規SSRを引いたところで一つの区切りが来てしまったようで、それ以来大きなイベントごとが無ければログインもしない日々が続いています。

その中でシャイニーカラーズだけはログインを続けている状況ですが、アイドルマスターシリーズだけではなく、いわゆる「物語」を読むことについての体力が落ちてきているようで、シャイニーカラーズは物語が重厚なので、それゆえの厳しさを感じています。これもどこかでログインを辞めてしまうかもしれませんね。

今でも各種ニュースは面白いと思いながら観ているのですが、一歩引いたところに下がったところから見ている自覚があります。思えば「ラブライブ!」の時も同様の流れを経たので、自分の何かの周期がそのくらいで回るようになっているのかもしれないです。

 

同じく、夏ころで長い間精力的に取り組むことが出来ていた文字での創作への意欲が急速に静まりました。これもまた定期的に訪れるようで、数年周期でいくらでも書けるとき、書けない時が巡ってくるようです。オリジナル作品でも書きたいなと思う題材はいくつかあるので、また熱が戻ってきたら取り組みたいなと思っています。

 

5月頃に買ったリングフィットアドベンチャーが細々と続いていて、おかげで昨年から今年春頃までに増えた体重がだいぶ戻りました。このリングフィットアドベンチャー、きちんと続けていると本当にしっかり筋肉が付くので、日常生活で疲れにくくなった、と思う一方、持久力をつけるようなトレーニングには乏しいゲームなので、ちょっと走り込んだりするとすぐに息切れします。今後の課題ですね。あと代謝が上がったので前よりすっごくお腹すきます。

 

8月にRTA in Japanを観てから、またゲーム実況をやりたいなという気持ちが高まり、ゲーム実況を再開したと合わせて、新旧のゲームの買い物が増えました。これについてはプレイできる時間よりも買っているソフトの方が多いのですが、少しずつ少しずつ遊んでいきたいと思っています。

 

物語を読む体力が落ちたように思ったので、新規で小説や漫画のシリーズを購入することを大きく減らし、代わりに統計や簿記の知識を吸収してみています。これらも現在の生活ではしっかりと取り組む時間を取ること自体が難しいので、いつかきちんと資格を取って知識の証明をできるように、と少しずつ進めていきたいところです。

 

2022年以降開催予定の、自身が委員長を務めることになるGAMEバンド「Q Concert」の準備が、2020年、2021年と進むことになるのですが、コロナでの当初想定スケジュールのズレ、他者との直接のコミュニケーションの機会を得ることの困難と、早くも大変な状況に陥ってしまいました。2021年はほぼほぼこのための準備に費やされるような気がしますが、この状況下でどんな風に進めて行こうか、頭を使わなくてはならないと思います。

 

2020年はこれまでの自分に比べれば随分と活動はささやかになり、人とのかかわりも随分減ってしまいましたが、これからはきっとこういう生活が前提になるのだろうと思うので、その中での自分らしい過ごし方を突き詰めていくのが2021年の目標になろうかと思います。あちこちにアンテナを伸ばすことはやめていないので、コンサートの準備を進めつつ、新たな知見を得られるよう頑張りたいと思います。

 

2020年も大変お世話になりました。2021年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

ATSUGIのtwitter騒動を考える~きみはバルマムッサを焼くことができるか~

タクティクスオウガのネタバレがありますので注意してください。

 

この下に書くことは、100%筆者が自分の欲求を満たしたくて書きます。そういうネタを見つけたので、それを形にして満足を得ようというものです。そのために自分が納得いくように綴るわけですが、それがほかの人にとって納得いくかどうかを保証はできないと事前に宣言しておきます。

 

ということでタクティクスオウガの話をしましょう。

 

タクティクスオウガの物語上の重要なポイントでバルマムッサという町があるわけですが、ここで起こることを端的に言うと

・主人公の属する陣営=ウォルスタ人は現状を打破するために、バルマムッサに捕らえられているウォルスタ人の住民を虐殺し、その虐殺を相手陣営の仕業に仕立てることでウォルスタ人陣営の士気昂揚と、相手陣営の穏健派をウォルスタ人側に招き入れることを画策した

・この虐殺を実施しなかった場合、ウォルスタ陣営がより困難な状況に追いやられる=さらなる死者を出すことは明白な状況である

・主人公たちはこの作戦に参加するか否かを選択することができ、それが物語の未来を左右していく

 

以上のようなことが起こるわけです。自分はこの後のルートの一つしか実際に遊んではいないのですが、どのルートを通っても示唆に富む物語が展開されますので、こんな記事読んでないでゲームしてください。

 

ではここに登場する人たちを整理していきましょう。

・バルマムッサ焼くつもりの人=何らかの意思と目的を持って行動する人

・バルマムッサで焼かれる人=焼く人の目的のために望まず犠牲にされる人

・主人公たち=目的のための行動に意思の変容をするか迫られてる人

 

なかなかハードでヘビーな状況です。

ではATSUGIの2020年twitter関連で起こったことを(わからない人は自分で調べておいてください)これの図式に当てはめていくと誰が誰なんだということになるわけですが、バルマムッサで焼かれる人に位置するのが各イラスト、もしくはATSUGI社企画そのものということにしておきます。

じゃあ今回怒っていた人たちはどこだろうかというと、これは上記の三者のどれでもなくて、バルマムッサ焼くつもりの人が目論んだ士気昂揚、この「士気」の担い手であって、どこまでも客体なんだと思います。一般ウォルスタ人です。

理由はバルマムッサ焼くつもりの人みたいな、何らかの意思と目的に相当するところが全然見えないからです。

 

この一般ウォルスタ人がどういう行動をしているかというと、それぞれ置かれた文脈はあると思いますしどうなりたいという気持ちもあるかと思いますが、でも実際に何かを企図したりはしなくて、ただ世相に乗っかっていく。(作品中では「モブだから」そうならざるを得ないわけですが)

一方でエネルギーは(その置かれた立場によって)あるわけです。怒りたい、正義でいたいというエネルギー。だからバルマムッサ焼く人はそのエネルギーを上手に利用しようと思うわけですね。

 

で、今回の騒動、バルマムッサ焼く人らしき姿は見えませんでした。たとえば過去の似たような騒動だったら、弁護士さんだったり学者さんだったり、その活動をすることでなんらか(相互に)利を得られる人がはっきりしていたんですが、あまりそういうのは見えなかったように思います。今回のことでタイツ履く女性に何か利があったのかっていうと、あんまりそういうのも見えてこない。

 

怒りたい、正義でいたいというエネルギーがあって、そのエネルギーのためにうまく燃やしに行ける場所を探している。そのために何をするかというと、ロジック的に負けない相手を探しに行くのが合理的な行動になります。

女性が現在も抑圧された性であるとするなら、その状況を批判するための表象を探すことになるわけですが、これは絶妙な位置でなくてはならない。つまり一般から見てこれは女性の性が消費されているということに一定の説得力があって、でもゾーニングされているような「今更そんなこと問題にする?」みたいなところでは戦いづらい。ボッティチェリヴィーナスの誕生でも、18歳以下はアクセスしてはいけないサイトのアダルトビデオでもダメ。だから、ちょうどいいところでゾーニングされていないオープンなインターネットに出てくる、一般からして歴史的美術とまでは評価できないくらいのちょうどいいイラストにその相手を求めるわけです。

 

 

一般ウォルスタ人の立場というのは難しくて、一般ウォルスタ人がもし和睦して少数民族としての迫害から逃れると、それはいいことだけれども同時に一般ウォルスタ人としてのアイデンティティも失ってしまう。特に同士のコミュニティの中で「怒る」ということを自分のよりどころにしていた人は、なかなかそのアイデンティティを捨てられないと思います。

となると、ただ自分のアイデンティティのことだけを優先に考えれば、ことの解決なんかむしろしてはいけなくて、ずっと抑圧されていないと「抑圧されているのだ」と怒ることができない。

 

バルマムッサ焼くくらいの目的意識で、ウォルスタ人を鼓舞しウォルスタ人を前に進めようという人が居ないから、ウォルスタ人はずっと現状のウォルスタ人であり続けるし、そこで地位を持っちゃってる人はそれを求め続けてしまうわけです。

 

それは何も今回で言う「フェミ」だけではなくて、それを非難する人も自分なりのロジックで安全圏を確保して非難ができるわけだし、この記事も自分にとっての安全圏を確保してこれを綴っているわけです。

 

もし、今回の騒動に何らかの目的があって参加し、火をつけ始めた人が居たとしたなら、その先の動きはなくてはならないし、それはATSUGIが何かをやめたり謝ったりで終わるような行動ではないはずです。

 

それが特にはっきりしないようであれば、それぞれの怒りが立脚するロジックもまとまらないし、ただその場その場で正しさを最大化するためだけのことが繰り返されていくわけで、となると、政治的なこととか、抑圧された側の陣営図も変動するようなことはなくて。

 

なんでもなくなっちゃうんですよね。ロンウェーもレオナールもいないから、ただただウォルスタ人が足踏みだけをする。

いくつかの言説を視ていても、特段的を射ているなぁと思うようなことがなくって、これは単に自分がすでに確立した地位(「フェミ」である、とか反「フェミ」である、とか)に依拠して正しさを言うだけの回だなぁ、と思ったので、こんなことを書きました。

まだ、もう少し大変なことになるとしても、バルマムッサ焼くくらいの目的意識の人が居る方が、何かと建設的なんじゃないでしょうか。

 

タクティクスオウガ調べてたら素敵な記事があったのでリンクさせてもらおう。

民族・宗教の対立をタクティクスオウガのワンシーンで眺める - XWIN II Weblog

なぜ本間カナメ(33)はその言葉を発し(なければならなかっ)たのか? ~『3人でゲーム作るまんが』の感想~

話題になっていたらしいてつなつ氏の「3人でゲーム作るまんが」を読みました。

 

note.com

 

面白く読みまして、いろいろな感想があるようですが、自分は

 

「本間カナメというキャラが針の穴を通していくような漫画」だと思いました。

 

これからその話を書こうと思うんですが、本題に行く前にちょっとだらだら書いてから入ろうと思います。

久しぶりに文章書くし。

 

物を見聞きして何か考えるとき、とりあえずはバイアスに気を付けるようにしています。「自分がどういうものの見方をしているか」ということに自覚的であろうということで、それを自覚していないとキャラや物語に対して見落としが多くなったりすると思うからです。

とはいえバイアスを全部除去するのは不可能だし、除去しすぎると自分の感想としての個性を逸するので、感想の時は自覚的ではあれど消すようなことはしません。

 

ということで、初見の感想なんですが、どのキャラも特別に好感を持つことはなかったし、逆にどのキャラも嫌悪感はなかったです。

ただ「絶妙な言葉が使われているな」という感覚だけがありました。

で、この「絶妙な言葉が使われているな」という自分の感覚を検証するために読みこみを進めていくわけですが、そうすると今度は「絶妙な言葉が使われているという自分の感覚を補強する読み方」をはじめてしまうわけです。

 

それ自体もやっぱりバイアスなので、つまりここから先はそういう最初の感想を元に何度か読んでいった結果、という文章になっています。

誰かの言語化や新しい視点の助けになればいいけど、まぁ、とにかくやってみましょう。

 

 

さて、作品本編ですが、このエントリーのタイトルの通り「本間カナメ(33)」のセリフに注目していきます。

が、本編のセリフに入る前に、ガイドラインをいくつか引こうと思います。

 

まず、カナメというキャラクターはどういう立ち位置に居るか、というと、少なくとも自分は、この作品中では「一言間違うと会社がコケると自覚している人」だと思って見ています。

インディーゲームを自宅を事務所(と思われる)会社で作っていて、SNSを通じて人件費が安く済む美大生から発掘してこなきゃならないくらいの零細企業です。

作中ではほんの少ししか経済的なことについて言及されませんが、おそらくそこまで外した見方でもないと思っています。

 

更に本間カナメと、同じゲーム制作者で音楽担当「脇坂ミノリ」の関係について見てみましょう。

これはこの漫画の前作にあたる「2人でゲーム作るまんが」がヒントになります。

 

note.com

 

この時は二人だけなんですね。

まず名前に注目です。

「本」間「カナメ」さんと「脇」坂「ミノリ」さんで、関係はカナメが中心で、状況的にはミノリは脇、添え物です。「カナメ」は名前の通り「カナメ」ですが「カナメ」は、ミノリが作った音楽に触れたことで音楽をミノリに任せること、それまで副業だったゲーム作りを本業に、会社化することを決意します。

カナメは「要」ではあるけれど「実り」はミノリが担当しているんです。

 

次に表情に注目です。

カナメは基本的にほとんど表情が動かないんだけれども、テンションが上がった時はわずかに表情を動かします。一番それまでにない豊かな顔を見せているのが、過去回想、ミノリの作った曲を聴いているシーンですね。(P14)

カナメは基本的に、モノづくりにテンションが上がった時にはちゃんと顔を動かします。

同時に作品作りの要であり、脇で感情担当のミノリとは対極的に理性の権化みたいな役割を与えられていて、だから本当に作品のためなら自分の感情をほとんど見せずに発言をしています。特に9ページから始まる取材を受けるページではきちんと「余所行きの顔」をしていて、10ページ4コマ目、取材者からの理解のない言葉に一瞬マジでげんなりした直後に即、自分を落としてまでミノリの音楽を持ち上げて取材者に判らせるという道化まで演じることが出来ています。

カナメは審美眼を持っている=カナメの作る音楽よりもミノリの音楽の方がゲームの完成度を高められることができるとわかる人物です。

 

と、ここまで資料として読み込んでおいて、カナメは超・理性の役割を与えられているという前提で「3人でゲーム作るまんが」の方に戻ります。

新キャラの神崎チヒロさん。お名前に注目すると彼女は「神」が役割です。たぶん神絵師ですね。いわゆるゴッド

その神、チヒロにカナメは「ぜんぜんダメ」という発言をしましたが、実はこのときのカナメは思ったよりテンション高めの目をしています。見上げているとはいえ、平常のカナメは上まぶたが横まっすぐで描かれるので、平常ではないと思われます。

・本当はダメだと思っていないけれど、必要があってそう言わなくてはならない

・本当は相手を傷つけるようなことは言いたくないけれど、必要があってそう言わなくてはならない

の、ブレンドされたような顔でしょうか。とりあえず

SNSで声をかける動機になった才能とこれから作るゲームのアイデアがクロスしたもの=カナメの初稿を見てテンションが上がったが、カナメが思う期待度までは届いてなかったので発破をかけなくてはならなかった」

くらいの感覚で読みました。

 

で、その次、今度はミノリが作った曲を聴いてホメるシーンなんですが、こっちは全然カナメのテンションは上がっていないです。つまりカナメは「すばらしいです」を本心から言ってません。いえ、もちろんミノリが作る曲のクオリティが低いということではなく「カナメがすでに知っている、ミノリが作れるクオリティの予想範囲の中の曲」であることは間違いなくて、天才とか令和の下村陽子とかいうほどまで過剰に褒めたたえるのは最初から最後まで「その後にチヒロに聴かせるため」に道化を演じているのだと思います。

ミノリの曲はカナメにとって「チヒロが聴けば、カナメの狙いを補強になる曲」であることは間違いないからです。

 

その次が一番カナメのキャラが出るシーンなんですけれども、カナメは「やれるか、やれないなら日当は出すので辞めてくれ」と言います。

ものすごく大変な二択のように見えるんですけど、理性的な人物が二択を迫るときっていうのはちゃんと目的があります。カナメは理性的なので、煽って描かせようとはおそらく思っていません。マジでどちらかを今選んでほしいと思っています。

なぜかって言うと、それ以外の第三の選択肢を選ばれるのが一番困るからです。つまり、カナメの要求=見栄えがするだけではない(≒カナメでも描けるくらいの)絵、にも答えないし、かといっていなくなって他に依頼できるようになるわけでもない、ミノリが提案しかけたのを「わざわざ」かぶせて潰した折衷案を取られるのが、カナメは一番困ります。(その「第三の選択肢」こと、見栄えがするだけの絵で稼ぐ美大生同期まで、モブの形でしっかり登場してくれました)

何故なら会社がコケるからです。この会社は零細です。

ちなみにこういう話法をダブルバインドと言います。あんまりやると嫌われますし、知ってる人なら第三の選択肢を持ち出して簡単に意図をつぶしに来ます。

もし「絶対に描かせる」ならカナメはそういう方法を最初から選びます。チヒロに選択肢を与えているだけ、カナメはフェアに見えました。

 

ので、かなり厳しいことを言っているように見えますが、最初から最後まで窮地に立たされてるのはカナメの側です。最初に絵を描ける人を入れるとカナメがギャンブルを選んだので、カナメがドライビングするのは必要なことなのですが。

 

 

ということで、チヒロはカナメの期待に応えた絵を完成させました。これが届いたときのカナメはめっちゃテンション上がってますね。ミノリの興奮に隠されちゃうけど。

 

カナメはとにもかくにも「嘘はつかない」「ただし、ワーディングによって効果を最大にしようとする」キャラで、だからチヒロの才能を引き出すためには「(期待した通りの方向性だし、このままうまく方向付けできれば最高だが現状では)全然だめなのでもう一度よく考えてください」とか「(ミノリの曲としては通常通りのクオリティだし、今や新鮮な驚きはないが、この場でチヒロに発破をかけるにはこの上なく)すばらしいですっ」みたいな言葉の使い方をするのだと思います。

それが、自分が針の穴を通すみたいだ、と感じた理由です。

 

そしてその言葉が選ばれるのは、ゲームを作るためっていうよりも「会社をコケさせないため」で、ものすごく理性的なんです。

 

 

と、いうふうに自分は読んだのですが、ついでに、と余計なところまで考えていっちゃいました。「神」崎「チヒロ」のチヒロというのは、千尋でしょうか。尋は「たずねる」でもあり「広」のように長さや深さの尺度でもあるわけですが、おそらくこの神は、まだ3人で作っているこのゲーム会社にとって神、つまりお話の転換点を作るような役割を与えられていると思うんですね。

 

神デザイナー/グラフィッカーが入ったこの会社が軌道に乗ると、この流れだとカナメは将来的にゲームの製作から降りちゃうんですよね。

カナメは審美眼と理性があって、自分のエゴより作品と会社を前に出せちゃうので、自分より才能がある人間を入れたら、その分野から退場しちゃうんです。ミノリみたいな「実り」も持っていないし。

ゲームを作ることを始めた人が、合理的思考の行きつく先に最終的にゲーム作りから降りることを迫られる、その時カナメはどういう選択をするのか、ということが、気になってしまったのでした。

続きも期待です。

スペシャルアクターズ 感想(二回目)

昨年の公開時に観たスペシャルアクターズがamazonでレンタル視聴可能になってたので、二度目を観ました。

 

special-actors.jp

 

スペシャル・アクターズ

スペシャル・アクターズ

  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: Prime Video
 

 

二回目を見て思うのは、監督の作品という目線で見たときには「カメラを止めるな!」より周りにお勧めできるなぁ、ということでした。

カメラを止めるな!」は作品の性質上、カメラの動きが激しく、画面酔いに弱い人はとことん辛い映画です。あまり酔わない自分ですらちょっと酔いました。

それに対して、スペシャルアクターズはカメラは安定しているし、脚本も「とりあえずワンカットを見てもらう!」という前提ではないので細かく笑いどころがあり、バランスが良いです。

 

二回目になると随所の仕掛けというか「これを押さえていなくてはならなかったポイント」みたいなものを意識してみることができるので、また違った楽しみがあります。また一緒に観る人が初見だとそれはそれでわくわく。

本当にお勧めの映画なんですが、劇場公開時は面白いのにカメ止めほど話題にもならず、公開期間もごく短く終わってしまったので、今だからこそ見てほしい。大笑いしたいとき、元気が欲しいときに楽しめる映画です。

 

エンディングテーマの文化祭のような屈託のなさが本当に好きなんですが、それに加えて、本編序盤、お話が始まるときのブラス曲がゴキゲンで、わくわくしました。エンディングテーマだけitunesで買ったけど、他の曲もちょっと興味が出てきた……

 

ということで、お勧めの映画です。