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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

2023/9/24の雑記 映画「アリスとテレスのまぼろし工場」の感想

岡田磨里監督・脚本のアニメ映画「アリスとテレスのまぼろし工場」を観ました。

 

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以下、ネタバレありで感想を綴ります。

さすがに「脚本が上手い」というのが一番大きな感想でした。テーマと、挑戦した題材がこれまでよりもさらに重いものだったので、どうやったってエグみのものすごい話になることは明らかだというところなのですが、映像的演出も相まって全体として整えているのにはさすがの手腕といったところです。

一方でテーマがとにかくエグいので、これを「さよ朝」みたいな感動を呼び起こして魅せるというのはちょっと難しすぎるのではないでしょうか。

 

先にライトなところの感想を。

ヒロインキャラクター睦実の性格の捉え方は非常に難しいところだなと思いました。これが難しく思えるのはこの「少年少女たち」をどう見るのが正解なのか、という問題のためです。
自分の場合には気にせず観る、つまり誰にも感情移入せず「に済んでみることができた」のですっと受け入れることができました。彼女を「めんま」だったり「成瀬順」だったり「マキア」だったりと同列の「ヒロイン」として受け入れようとするとドツボにハマりそうな気がします。

じゃあ主人公である正宗ならいいのか? というとそれも違うんですね。彼らの行動や悩みは明かされる世界設定によって理由がつくんですが、彼にフォーカスしてもそれはそれでうまくいかなくなる。

どうすりゃいいのか。たぶん観客は単に「この世界の住人の一人」になるのが一番良いような気がします。客観から誰かに肩入れしない。
物語上のこのガイドはとてもうまくいってるなという感想を持っています。五実を閉じ込めている「佐上」に対して、作中で一貫して「こいつが悪役だ」と断言していい情報をくれないからです。佐上の演技も悪と道化の間にあり「たぶん妥当なことは言っている」「しかし信用はできない」みたいなところにあり、そのままで宙ぶらりんな主人公たちを見せてくるので、ずっと「どうやって観ようか」と思うまま、そのまま世界の崩壊へと話が続くようになってるんですね。

 

もう少し深読みします。

毎度「家族」だったり「青春」みたいなものを描く岡田磨里脚本ですが、今回もそれはえぐかったです。
正宗と睦実のキスシーンは構造的に、当人たちを差し置いて観客だけが「親の性交渉を目撃してしまった子供」を見せさせられていると感じました。キスシーンは苛烈で、およそ中学生がするようなキスではありません。しかし主人公たちは一応「中学生」として描かれています。ただし精神はとっくに成人で、証左として乗用車も運転することが許されています。

睦実は五実に対して親子としての振る舞いをしていなくて、正宗を取り合う同性としての振る舞いと宣言をする。睦実と正宗は五実を自分たちの子とは見ていない。同時に五実も彼らを自分の親と観ていない。五実は正宗に対して友人または恋人を取られたかのような怒りを表明するのですが、逆に五実は軟禁により見た目よりも精神年齢が未発達なので、他者と自己の分離が甘い。よって自分の領域を奪われていることに怒っています。
正宗たちは「肉体時間が止まり精神時間だけが成長」しており五実は「肉体は成長するが精神は未熟なまま」という対比の中でそれが描かれています。

この複雑な親子構造を自覚と理解をしながら見せられているのは観客だけです。ひでえことしやがると思いました。

対比の構造は映像でも出ていて、正宗たちの生きる世界は冬、現実の世界は夏。視覚的に相反するものを観せる映像は非常に面白かったですね。

 

最後に大量の情報を提示したのが「世界が終わると明かされた時」=「人々が演技を止めるとき」のあれこれでした。「自分確認票」というアイテムがあの世界の全員を通して使用されていますが、提出を一貫して拒否している正宗ですら、全員があの世界で自分たちを維持するための「演技」をしているんですよね。一番変化が顕著なのが正宗の祖父で、彼は終盤でちょっとだけ描かれたように実際にはそこまで精神的に老いていない。だけれど、前半はわざわざ「介護される老人」の立場を続けています。

「世界が終わる」となったときに「肉体の時間は進まないけれど、精神は成長している」「でも、世界が終わるとわかり、全員がなにかに向かって進みだす」ということが起こりました。
この時の反応が「全員が受け入れる」でもなくて「全員が拒否する」でもなくて、正宗たちのグループの中でも反応が異なるところが面白いです。かつ、全員ががむしゃらに自分が思う前へ行くための行動をしていて、誰もネガティブなことをやらない。
実際にはそんなことは起こらず、相当なパニックが生じるだろうけれども、ここは物語的でよかったのではないかと思います。これによって映画の主人公は誰か一人でなく、この舞台そのものであったのだ、ということの集大成になっていると思います。

彼らの「演技」は、世界が正常だったときの延長線上にあるわけですが、正常だった世界は時間が動いている中での「自分自身の振る舞い」であるので、つまり平時にいかに演技をしていたか、日常がいかに演技に満ちているかということも同時に示唆されていて、ここも時間の流れの有無と、演技と本音とが重なり合っていて面白いです。

 

面白いですが、一方でこの描き方は「映画で何を観たのか」があいまいになりやすいということでもあります。これまでの映画のように誰か一人にフォーカスが強く当たり、それを肯定しやすい雰囲気にはなっていないので、印象がぼやけやすい。

 

全体としては、テーマは難しくて面白いし、かなりしっかりと料理されているけれど、エンタメ映画に向かない、という感想となりました。ポップな見た目なのに、とても哲学的なお話です。