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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

「起用」と「起用した人物」に関する2021年での考えのメモ

これは後日に振り返って、当時どんなことを自分自身が考えていたかを思い出すための現状のメモです。


この記事では現時点で渦中となっている人物について書きますが、その人が行ったとされる過去の行為についての評価はしませんし、支持もしません。


そのほか関連するかもしれないと考えたことを一緒に書きますが、それによってなにかを非難する考えは一切ありません。


という前置きを置いておきます。


2020東京オリンピックの開会式で音楽をつとめることになったCorneliusの小山田氏が過去の雑誌で受けたインタビューの内容について謝罪する件がありました。


news.yahoo.co.jp


当該の記事原文は25年前のもの引用だったので、読んだときにはまず25年分の補正を頭の中で行うことにしました。

オリンピックの開・閉会式のクリエーティブチームの座組は、ちょっと読めばすぐわかるようにNHKEテレでよく観る人たちでした。

news.yahoo.co.jp

自分自身にこの25年の補正をかけたときに、慣れしたしんだEテレというバイアスがあるかもしれません。


好きな漫画「G戦場ヘヴンズドア」の中では、漫画家、編集の人がそれぞれに人格について話すシーンがあり、簡単に言えば漫画は人格からできていて、編集としても人格が優れた人とは仕事をしたいし、そうでない人とは仕事をしたくないということを言っていたと思います。(記憶で書いているので細かいニュアンスを考慮していません)


それは現実でもそうだろうし、どんなに優れたものを作る人でも人格が破綻した人と何回も仕事をしたいとは、普段仕事をしていても思いません。同じクオリティの仕事なら人格が優れた人と仕事をしたいし、多少クオリティが下がっても人格面で比較すれば安定感のある人を選びます。


話を戻すと、小山田氏の「現在」は、人格が問題ないんだろうと考えました。「現在」の人格が問題ないのであれば、自分にとっては25年前にあったインモラルな出来事は、ああそういう時代があったのね、それでも仕事をしたいと現場が思える人なんだろうと、印象を調整することができました。


開閉会式がよいものになるのに、起用するのはその実際の制作を行うチームが安心してよい仕事ができるチームであるべきで、それに25年前の出来事が影響しないのであれば、それは問題ない起用と見れるだろうと思いました。


一方で受け手からすると、25年の時間の補正ができない人は多いのだろうと感じました。


以前「宇崎ちゃんは遊びたい」の献血ポスターが話題になった時ふっと「このキャラクターは巨乳として描かれているが、現代の他キャラと比してそう珍しくないな」と感じたのです。

キャラクターの表現にはたまに似たような批判が沸き上がることがあるのですが、自分の中では「怒っている人は久しぶりにイラストのデフォルメ表現を観たのかもしれないな」と考えるようになりました。

キャラクターの身体のパーツ表現がどう大小するかは、株価のようにトレンドで動くものだと感じていたからです。1980年台と、2000年台と、2020年台とではそれぞれトレンドが違う。トレンドの中でも等身が低くパーツ先端が肥大化が大きいデフォルメと、投信が高めで肥大化が小さいデフォルメがある。

「宇崎ちゃん」のデフォルメはその当時でそこまで珍しい表現ではないが、過去と比べて、トレンドが変化していくグラデーションをすっ飛ばしてみると肥大化が極度に強い印象を受けやすいかもしれない。


上記のようなことを考えたときに、例えば普段デフォルメを意識していなかった人が急にデフォルメを目に入れて驚いたときの「感情」を、補正することはなかなか難しいだろうなと思ったんです。


ということで、小山田氏の話に戻れば、複数のニュースで「25年前を今評価する」をどう扱うかというものが観られたけれども、それは現場で仕事をするチームからすればやはり「25年前で25年前」であって「今、25年前」を感じた人たちとのギャップは埋まらないだろうな、と思ったのでした。


この記事は「起用」についてが主題なので、その「起用」について話を戻していくと、オリンピックはロゴでも2015年頃に似たような、製作者の過去に関する話題が起こって、一度採用されたものが覆るという出来事がありました。この時は少なくとも、その任は解かれたわけです。


仕事をするのに問題がないと起用者が感じているクリエイターと、起用者と、特に受け手のある仕事では受け手との3者の関係性があるのですが、現状では2020東京オリンピックの開閉会式では任が解かれるということは今のところなくて、これは2015年から2021年で社会の中で変わったことになるかもしれないなと感じました。


思えば政界でも、何か問題とされるようなことが起こって、それが受け手である国民からして気分を害するようなものであっても、法で結論が出ない、または問題ないとされていれば辞任しないような傾向になってきたと感じるようになりました。

なぜこういうことが起こるのかと考えると「仕事をする」=「効果、効用を生む」のに対して、受け手の感情面の重要度が下がってきたからと考えています。もしくは、インターネット時代で大衆の感情の爆発、炎上が起こりやすい状態では、それを毎回考慮していたのではコストがかかりすぎるとも考えられそうです。


クレーム処理は、それがどういう種のクレームかによる面はあれど、突っぱねたほうが全体の利益が高くなることもたびたびあります。社会の経験として、起用に関して生じた問題は「突っぱねたほうがいい結果になる」という方向に進んでいるのかもしれないと思いました。