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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

両手しかないのでその範囲しか包めない

仕事上でも趣味上でも人に説明をする機会が多いので、自分と相手の間のギャップだったり、相手がどういうロジックでその考えにたどり着いているか、ということをその人の言葉から予測することが日常的になっています。

 

特に気にすることの一つに「なぜ」そのワードが選ばれているのか、「なぜ」そのロジックが使われているのか、という部分があり、説明的会話の中ではこの「なぜ」には基本、必要がなければ反しないようにしています。

それがその人にとってプライド、面子であることが多いからです。

 

言葉について気にすることが多い自分は新型コロナウィルスの影響が始まってから二年ほど、目にする言葉の推移を気にしてきました。

おおむね病んでいます。今日読んだニンテンドードリームの読者ページですらちょっと長い文字量でコロナ禍でのイライラの相談が乗ってました。ゲーム専門のエンタメ誌ですよ。

 

通常状態より仮にコロナ禍のほうが10%病んでいたとして、90%の人は元気なわけですから、気にならないと思うかもしれませんが、前年より10%交通事故が増えたら大事件ですし、普段より通勤経路の交通機関が10%混んでたら「なんか起きた?」と感じるはず。「全体がちょっと」って、少量でもかなり影響があるものです。

 

でもこういう時に「自分が変わった」とはなかなか思わないんですよね。

冒頭での話に戻します。説明するときには、相手の理解を前に進めるか、理解はそのままでもいいのでこちらの望む行動に誘導するかを試みるわけですが、基本的に皆「自分は正常だ」と思っています。

 

これは人間が自我を保つために必要なんだと思います。問題は自分が少しずつおかしくなっていたとしても、自我を保つために「自分は正常だ」と思っていることです。

 

それでも、自分以外の周りが通常の状態であれば、その周りの水準に合わせて戻ってくればいいわけですから、自然に本当に正常な状態に戻りやすい。

 

が、コロナ禍で全体が少しずつ病んでいたとして、しかしそれぞれは「自分は正常だ」と思っていて、実際には全体がちょっとずつ沈んでいたら、気づかずにずぶずぶっと沈み続けることになります。

 

と、いうことで、世の中だいぶ沈んでいるな、と思っています。これはきっと後年になって人文社会科学的に研究がなされると思うのですが、情報ネットワーク、とくにSNSはこの事態で特にこの事態に寄与してしまったなと感じています。

自分もまた異常事態にあると以前に自覚したので、必死で上の方に向かって泳ぎながら日々を過ごしています。

 

多くの友人知人に(有難いことです)恵まれているのですが、目に見える範囲でもどんどん沈んでいるなと思うことが多くなっています。

直接肩を叩いて、沈んでるよ上目指そうと引っ張って行きたいところです。でも、自分自身はすでに自分の家族だけで両手はいっぱいだし、本当に下方への勢いが強すぎる。

 

でもこうして書くことはできるので、ひとまず書くことにしました。ふわっとした作文は久しぶりです。

 

まだコロナウィルスの影響は続くだろうし、それがもたらした社会への爪痕もまだまだ続くだろうし、いくつかは取り返しのつかない傷になるのだろうけれども、両手は塞がっていても声を出すことはできるので、声くらいは張っていこうと思います。

もしかしたら沈んでいるかも、とほんの少しでも思ったら、上に向かって泳いでください。たぶん、だいぶ沈んでいるし、その沈みはほかの人に影響してます。

 

「君はまだ歌えるか?」

声の限りは。