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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

コンサートでコントラバスの音が聴こえていないことはあまり問題ではないと思う話(転)

吹奏楽の演奏会に出ていると有難いことに「コントラバスの音、良かったよ!」と言われることがあります。

これは本当にありがたいことです。まずこれは先に置いておきますね。重ねて言います。コントラバスの音を褒められるのは本当に嬉しく思っています。いいですか。嬉しく思っていますよ。

 

ではここからの話します。

コントラバスの音、良かったと言われたとき大体半分以上の割合で「ほんまかいな」と思っています。

これは自分の技術について自信がないとか、謙遜しているとか、言ってくれた方が嘘をついているとかそういうことではなくて、実際それが聴こえているのかどうかっていうと奏者である自分には聴こえていないことの方が多いからです。

 

そもそも、弦楽器は管楽器に比べて楽器一本あたりの音量が絶対的に小さいです。吹奏楽コントラバスが入ることは珍しくはないのですが、楽譜で同じ音を演奏している他の楽器にはほとんど音量で負けます。

更に、吹奏楽の「バランス」では40人程度の団体でコントラバスはせいぜい1人、2人だと多いな(他増やしたほうがよくない?)みたいな話になります。バランスの差を覆せない。6人くらいコントラバスがステージに乗ってる吹奏楽団とかないと思うんですよね。練習場でも邪魔過ぎる。

ともかく、結果として、コントラバスは低音の響き増強やピチカートの限定的な音色で重宝はされるんですが、活躍の機会はまぁそんなに多くない楽器なんです。(別にディスってるわけではないんですよ本当に)

 

そんな環境なので、演奏会なんかに出ていても自分の音がちゃんと聴こえるぞいってことは殆どないんです。これは自分の技術的なこともあるのであくまで主観で話をしてますよと注意を入れておきますが本当に聴こえてないです。

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じゃあお前何もわかってないんかいっていうと「あ、いま自分の出してる音間違ってたな」ってのはすごくよくわかります。理由は楽器の反応が重くなるからです。周りで鳴っている音の周波数と相性の良くない音は楽器からの反応として返ってくるので、音はほとんど聞こえてないですが「今自分間違ったな」ってのは判ります。弦を押さえ弓を持ってる腕の側でわかる。

 

そんなわけで当事者である自分からして自分の楽器の音が聴こえていないので、「ここは本当にいなくてもいいのでは?」とか思っているわけなんです。それでもコントラバス要るよ、コントラバスよかったよって言ってもらえちゃったりする。正直に言うと

 

ちょっと暗示的な要素があるのでは?

 

と思っていたりします。

でもそれでいいんじゃないか、というかそれこそが重要なんじゃないか、と思っています。コントラバスを演奏し始めて10年以上たったわけですが、その間ずっと「ヴィジュアル担当(楽器が見えていることが一番大きな役割)」と言い続けていました。

 

それ自体は皮肉みたいなものなんですが、でもたとえば。視覚を隠してテイスティングすると、何食ってるんだかわからなくなることはバラエティ番組なんかでよくある話だと思います。透明なミルクティーに違和感があったり、とにもかくにも視覚を持っている人にとって認識の最大の装置が視覚であるからには、味だって音だって皮膚感覚だって、とにかく視覚の影響を受けているはずなんです。

 

ってことはコントラバスだって耳で聞いているもの以上に目でみているものが聴くという行為にとって重要なんじゃないかと思うんです。「演奏会を現場で聴く」という行為はかなりの量、視覚の分野に頼っている。もしも聴覚だけで済むのであれば弦楽器における「弓順を揃える」とかは一番最初に無視すべきことだと思うんですよ。(音型を揃えるって話はありますけれども)

だから、コントラバスを聴いているときも結構な割合、視覚的なことに頼っていると思うし、それが普通なんだと思うんです。意識してやってることじゃないけど、コントラバスを目で聴いている。

 

それでいいんじゃないかと思うんですね。聴いて何をしているのかというと「満足」をするためにお客さんは来ているんだと思うわけで、その得点を最大にするためならどんなことだってやろうと思う。

たとえばチタンのネックレスつけるとすごく運動能力が上がるらしいって聞くと「ほんまかいな」って考える人もいると思うんです。でも大事なのは「本人マジでそれでタイム縮んだらしい」とか「それで本人めっちゃやる気出てるらしい」っていう「効用」のほうであって、科学的なことは二番目である。

だからコントラバスの音が実質的に聴こえているのかどうか、というのは、中心ではなくて「聴こえた感じになる」ふるまいを演奏会でするのが大事だと思っているのです。そのためには音にならないようなフレーズをしたり顔で演奏したり、実は練習不足なんだけど隣の人ととにかく弓順だけでも揃えようとする。

そうすると「いい感じのコントラバスの音が聴こえた感じになる」のなら、それはもう目指すしかないことだと思うのです。

 

この話を書こうかなって思ったのは、コントラバスオカルトみたいなものが否定されうるのを何度か見るからです。たとえば、楽器倒す方向はどっちでもいいよとか寝かしてもいいとか、楽器の前が客席側を向いてても聴こえにあまりいい影響はないよとか。

いや、いいと思うんですよね。それはそうなんだと思う。(理由も調べたときに同じものが出てきたり出てこなかったりする)でもこのお作法を無視したとき、たぶん聴きに来た人の満足度は下がると思うんです。楽器を置くときに倒す方向は決まっているらしい、ということを知っている人が演奏会見てて、その知識に反するものを観たとする。

そのあと「いや、楽器倒す方向って別にどっちでもいいんだよね」とか奏者から言われたら「なるほどなー、そうなんだなー」とは思ってもらえると思う。

 

でも一方で「コントラバスの音、よく聞こえたよ!」って言ってもらえなくなると思うんですよね。理由は目で聴くの邪魔しちゃってるから。

 

コントラバスを例にとってはいるんですけど、こういう楽器についての色々ってプロの方が言うものとか、科学的に正しいこととか沢山あるんですけども「どういう満足を得たか」というのを評価指標にするしかないので、特に人に評価される芸術である限り、守破離の「破」をするには相当の説得力がないといけないんじゃないかな、と思うわけです。

 

なので、コントラバスの音が聴こえていないことはあまり問題だと思っていなくて、聴こえてるよって言ってもらっても本人には実感がないので「ほんまかいな」と思っているのですが、コントラバスが良く聞こえたよ、と言ってもらえることは(冒頭で繰り返した通り!)嬉しくありがたいことですので、その「効果」を最大にすることは重要視したいし、物理・科学的に正しくても、オカルトのほうが「効果」が高いならそっちを選びたいなー、と思っているのでした。

令和も雰囲気で、コントラバス