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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

感情込めて演奏することがよいかどうかの話

 普段見るTLに音楽仲間が多いせいか、たまに音楽関係のメソッドだったり心構えみたいなものがひゅっと入ってきます。

 今日はその中に「感情を込めて演奏するかどうか」みたいな話が入ってきたので、ちょうどいいのでそこら辺の観念をまとめておこうと思います。

 

 そもそもなんで演奏をしているのか。

 どうしてこんなことを書いてるのかというと、音楽関係のメソッドとか心構えみたいなことを書いてるのは結構な割合プロだったり、プロの人の伝聞だったりするからです。だからちゃんとここ分けておいた方がいい。

 

 この話では「アマチュアが」「余暇活動として」音楽をするのだ、ということに終始します。自分はアマチュアで余暇活動として音楽を嗜んでいるので、それ以上の話はできません。

 というわけで「なんで」演奏をしているのか。これは気持ちよくなるためです。ファジーな言葉を使いましたが、言い換えれば快楽、エクスタシーに属するものだったり、共同の愉しみだったり、とにかく日々のストレスを和らげ、明日への活力とし、自分を支えるものであるためにそう言うふうにしているのです。

 

 という前提を置いたうえで、じゃあ音楽には感情を込めて演奏することが良いかどうか、という話をしましょう。

 そんなの一般論にすべきじゃないよ、というのが自分の見解です。そんなことはどうでもいい、だから「なんで演奏をしているのか」を最大限濃く達成することができる手段を取りなよ、ということを主張したいと思うのです。

 

 なんでか。自分はちょいちょい音楽をはじめたり止めたりしてました。今主に奏者として活動している楽器、コントラバスは大学二年生の後半から始めたものです。それ以前もちょいちょい楽器は嗜んでましたが、コントラバスほど長く続いた楽器はありません。

 吹奏楽のジャンルで活動しているわけですが、そのあいだずっと言われていたことは「音程が悪い」ということです。これは持ち前の面の顔の厚さでその言葉を無視し、コントラバスをはじめてから十年以上たった今もなお無視し続けています。最近ではインベスターZというよいマンガがありまして「ぜんぜんわからない。俺たちは雰囲気でコントラバスを弾いている」と言えば大抵の場は流すことができます。効果には個人差があります。

 

 それでも昔は音程が悪いと言われて悩んだりもしたものですが、今では悩むことにあんまり意味はないなと思っています。なぜならそれを言ってくる人との経験の差を埋めるほどの時間を確保することは無理だと思うからです。

 音楽はよくよく才能という言葉で語られやすいですが、自分の経験で言えばどう見積もっても「どれだけ音楽に触れたか」でしか実力、感覚についての説明ができません。やっただけ伸びる、やらずに伸びることはない。何年かかけて自分のピッチのズレ数セントが違和感として認識できるようになる、そういうジャンルに置いて、自分より何年も多く音楽やってる人の感覚に追いつき、追い越すことは困難だと判断しました。

 じゃないと、最初に置いた「なんで演奏をしているのか」という目的に対し、必要な練習コストはあまりに大きくなりすぎます。それなら別の方法でMPを回復した方がマシというものです。

 

 さて、合奏に混じりたての頃の自分ですが、非常に楽しく合奏に参加しておりました。合奏というのはまず楽器を自分の身体の延長として扱うようになり、さらにその範囲を一緒に演奏する他者にまで拡張していく行為だと思ってます。これはめちゃくちゃ気持ちがいいものです。よくわからないですか? 『少女ファイト』『ボールルームへようこそ』『アオアシ』『スラムダンク』あたりを読むといいと思います。スラムダンクは読んでないけど。

 この段階ではおそらく自分はめちゃくちゃ感情を込めて演奏していたと思います。そしてそれがベストであったと認識しています。何に対してベストであったか、というと当然、自分が気持ち良くなるためにです。

 

 で、それから年数が立ち、経験が増してくると新しいことが起こりまして、自分の感覚が拡がっていくようになります。自分の音程のずれがわかるようになり、テンポのゆれがわかるようになり、合奏の良しあしがわかるようになり、とにかく「認識」が経験によって拡張されていくわけです。

 こうなると、単純に気持ちよくなるためには感情をただ込めるだけでは単純に「満足がいかなく」なっていきます。自分が納得いくためには高次の自己コントロールが必要になり、つまり練習と、冷静と情熱とを併せ持って演奏に取り組む必要が出ます。もっと言えば周りの人間関係とか、練習環境とか、そういう過去には気にしてなかったこともどんどん気になるようになります。

 そこがコントロールできないと「なんで演奏をしているのか」を満たせなくなる。

 

 つまり、ことは単純に「感情を込めることがよいのかどうか」というお話ではない。目的である「わたしが気持ち良くなるため」またはプロであれば「生活していくため」に必要であれば選択し、不要であれば選択されないのが「感情を込める」もしくはその他すべての演奏に付随することだと思うわけです。

 人によっては感情を込めることで最大の幸福を得るだろうし、人によっては最大の冷静さの先に求めるものがあるかもしれない。段階や認識やTPOで変化していくことであって、一般論にはできないと、思うわけです。

 

 ちなみに今の自分では、十分に練習し身体の動きが十分に身についた先に陶酔があるみたいです。自分の練習不足や自分が認識できる音程の悪さや周りとの足並みのズレに自覚的になれて、冷静、情熱どちらでもケースバイケースで盛り上がることができる。

 これはまたその後も変わっていくでしょう。それが習熟だったり、また別の要素だったりすると思うんですけど、自分はそもそも目的である「気持ち良くなるため」には最大限の努力をしたいと思うのです。