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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

十二年趣味で楽器をやったが、音程の話はしない方がマネジメントにいいんじゃないかと考えた話

大学時代にコントラバスをはじめてもう十二年になりました。(まじかよ十二年て)

アマチュアで、現在も週末やコンサート前にしか触らないんですが、まぁとにかく続けたはつづけたで、触り始めたときよりかは多少なりとも弾けるようになったと思うんですよね。形態は吹奏楽です。

 

んで十年目くらいにして思ったのが、音程の話はしないほうがいいんじゃないかなってことなんです。

 

音の処理は人それぞれのようなので、とりあえず自分の話をしておくと、まず相対音感です。で、楽譜のオタマジャクシの位置と指の動きを連動させることで演奏を成立させてます。難しいフレーズは作業記憶を併用させてます。指が覚えるってやつ。

なので、初見で楽譜を見ながらの演奏はそこそこの密度まで対応できますが、♭や♯をよく落とします。あと、オクターブの移調に対応できません。もっというとドイツ語音階と楽譜と脳を対応させてないのでそこの反応も悪いです。

 

で、音程の話とは何か、と言いますと、「音程が悪い」「音程を合わせる」という話です。これは現場でしないほうがいいんじゃないか、というふうに思うようになりました。

 

もちろん、上記のフレーズにはたくさんのニュアンスが含まれているので、言葉狩りをせよ、というわけではないです。ですが集団のマネジメント上、音程についての話をするのは、吹奏楽くらいの規模の集団の現場ではあんまりよくないんじゃないか、と思うわけです。

 

なしてや。

 

自分と音程について考えたとき、「自分で音程がずれてると思ったとき」と、「自分はずれてると思っていなかったけれど相手はずれてると思ったとき」と、「自分も相手も特にずれてるとは思っていないとき」があると思うんですけど、この「自分はずれてると思っていなかったけれど相手はずれてるとおもったとき」というのは、ぜったいに消すことができないのではないかと思うのです。1Hzとずらさずにクリティカルヒットできないし。

 

消すことはできないけど、減らすことはできると思うんです。で、その減らすためには何をしたらいいのか? というと、これは完全に「練習する」つまり「試行回数を増やす」ことでしか埋めることができないと思うわけなのです。自分がそうだった。自分の耳は使うことでしか鍛えられなかった。使わないで鍛えられたかどうかを試してないので、反証のしようがないんですが。で、それが十二年アマチュアでやってもまだまだ残ってるんですよ。プロとアマの差に練習量が引き合いに出されることがありますが、その練習量を確保することは自分の生活上、無理なわけです。チューナー相手に練習を繰り返すことで、ヒット率はあがっていくけど、それは急に天啓があったとかじゃなくて楽器のための可処分時間がどのくらい確保できたか、と相関が高かった。

 

つまり「音程が悪い」というのは「練習回数が足りないよ」というのに換言されると思うんですが、これも合奏で言うのはやめたほうがいいと思うんですよね。なぜなら、それで練習回数が増える可能性がある一方、練習回数を確保できないなら出ていきなよというニュアンスを持たれる可能性もあるからです。発言者にそういうつもりがなくても、そういう委縮効果を現実として発生させる可能性があるのが、集団に対する発言です。これはマネジメント上よろしくない。

 

自分の経験なんですが、自分の母は、子どもの頃に僕に音楽をやらせたがりました。理由は恐らく、幼少期にしか音楽的な素養は獲得できないから、という意識があったからだと思います。そういう風なことを言っていた記憶がある。

それが真実かどうかは不明(というか、どうでもいいと思うの)ですが、日本の主要なメディアにおいて、音楽を「才能」「特殊能力」の分野に置いていることは、絶対音感という言葉の積極的な誤用をみても、明らかなんじゃないかと思うんです。

つまり、後発で音楽をはじめたひとほど、才能がないというコンプレックスを抱きやすい。委縮しやすい。「恥」の世界に、音楽はあるんじゃないでしょうか。

 

と、いう環境下で「音程が悪いよ」と埋めようのないことを言われると、恥を避けるための行動をすることになるわけです。なぜなら自分は音程が悪いというのがどういうことかわからない。かといってその環境を覆す才能もない。でも、集団の中にいて演奏しないわけにもいかない。そのためには「埋もれようとする」んじゃあないでしょうか。

 

埋もれようとするためには、ほかの音の出かたを見てからそっと参加していくということをするわけです。周りを見て行動するのは集団心理下ではよくあることです。集団心理はすげーです。集団心理下では人は間違った答えに同意することもします。

そうすると、結果としての集団の音が汚れる。そうなると指導者は音程が悪い、綺麗な音が出てない、と言う。それは事実だけども、事実に対するコンプレックスがもとでそういう行動になってるから、事実を述べても直ったりはしない。

 

音程が悪い、では直しようがないなと思うのが現在の自分の意識です。

 

じゃあどうすんだよ、という話になる。現行のカードで最善手を出すには。

 

無視して弾くしかない。

 

たとえば自分の出音はほかの人と平均してピッチが数ヘルツ揃っていなくて、出したことによって耳の良い人に「あーずれてんなー」と感じさせる可能性がある。

この環境下で思いっきり出すことによって耳の良い三割の人に「あーずれてんなー」と思われる。ではこの環境でそろっと出すと、こんどは音型が揃わないことによって耳の良い三割以上の人に「あーずれてんなー」を感じさせるということになるわけです。これなら前者のほうがよい。だってどんぴしゃのヘルツに飛び込ませる練習量は確保できないんだもの。

 

で、音楽経験が長い人ほど、音程が悪い=そろっと入っていくということだと理解している。

でも、一方で、音楽経験が長い人ほど「音程が悪い」が実はテクニカルタームで、初心者に対するマウンティングになっていることにも無頓着だったりする。まぁ自分も個人的にも合奏の場で全体に向けたことばとしてもたくさんたくさん言われました。そのたびにわかんねえなって思った。面の皮が厚くなければ生き残っていなかっただろう。

 

ということで、音程の話はしないほうがいいんじゃない? って思うようになったわけです。それは現実的に手持ちのカードで最善の結果を出すために、コンプレックスをひっぱりがちな「音程」についての言葉を選ぶよりも、どの人が聞いても誤解やコンプレックスを産まない言葉のほうがいいんじゃないんかな、マネジメント上。と思ったのでした。

 

演奏で指導をしたことはないので、そこら辺については実体と感覚がずれてるとは思うんですけど、説明の機会やマネジメントの機会は多く持って多少の自信もあるので、そんなことを思ったと書いておいたのでした。