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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

「えんとつ町のプペル」と西野氏のあれこれを見ながら、本来これって理想的な形だったんじゃなかったけと思った話

この記事について、巷でいろいろと話題になっている「えんとつ町のプペル」(以下プペル)と西野氏のあれこれについては、自分は是でも非でもない、ということだけ先に述べておきます。

 

なお、この記事を書いている時点ではまだえんとつ町のプペルは視聴しておりません。

 

2021年1月、ネットであれこれ話題になっているプペルまわりの記事を見ながら、ふっと「あれ、これって自分が考えていた、ネット以降のクリエイターとそれを支える人の理想的な関係に似ているような気がする……」とふと思いました。

 

この関係というのは何かというと、クリエイターとそのクリエイターを支持する人が直接繋がって、そこで中間マージンの発生することなく作品に対する対価の支払いがあれば、個々のクリエイターはネット以前の時代より少ない支持者数でも生活を維持することが出来る、という関係です。

 

従来、ものの複製にはそれ相応のコストがかかったので、クリエイターがその利益を最大化するためには、受け手の数を増やす必要があり、そのためには複製を届けることを専門に行う人がクリエイターとは別に必要になる、受け手の数を増やすには「流行」に乗るか、もしくは流行を作るしかない、という図式だったと思うのですが、現代ではデジタルコピーはほぼ無料で可能、その流通もネットワークでほぼ無料で可能、ということになれば中間業者は必要がなくなり、受け手の数を増やさなくても、一定の支持者がいれば生活が成り立つようになり、作品の多様性が拡がり、小規模の支持母体をもつクリエイターが多数成立する、と考えていたのです。

 

たとえば、書籍の印税なんかは10%程度と聞きますが、1000円の書籍が一万冊売れると収入は100万円で、専業作家が仮に500万の収入を得ようとすると一年に五冊を書かなくてはなりません。(ざっくりですよざっくり)

でも中間業者を挟まずすべての売り上げが手元に入るとすると、十分の一の売り上げで同じ収入になる。(経費なんかは割愛していますよ)

 

だから、理屈では、西野氏のようなクリエイターは、その支持層との間でコミュニティを作り、その中で支持者から作品や表現の対価を受け取るわけで、そこだけ見れば理想的な関係だと思うわけです。直接繋がっているわけですので。

 

が、実際にはそこに第三者の目が入っていったわけです。それに至った理由というか、西野氏の振る舞いや作品(パフォーマンスを含みます)だったり、またその支持者たちの行動だったり、そういうものに批判や好悪はあると思いますが、それはここでは除外して考えて、単にコミュニティは外に向かって開かれ、外から見られてしまった。

 

興味深かったのは、外に向かって開かれたときには「外向けのお作法」が求められる状態になってしまったということです。これは「支持者がクリエイターを外向けにアピールする」「クリエイターの作品の規模が一般流通レベルまで大きくなる」などの要因で起こるのだと思います。

 

もしプペルがそのコミュニティの中だけで完結していれば、プペルやその作者である西野氏が支持層に対してどんな振る舞いでいたとしても、それが支持層に支持されるものであれば大きな問題はなかったのだと思います。

 

例えば大学生がサークルの人間関係の中でブイブイ言わせていたとしても、多少イタい発言をしたとしても、その人間関係の中で支持されていればなんの問題もない。けれども、それがひとたび外に出るとその大学生は、外向けの作法を逸しているということでイタい人に堕ちてしまう。眉を顰めるように見られてしまう。そういうような状態がプペルを取り巻くもろもろに生じているのではないでしょうか。

 

結局のところ「プペル」は一般流通に乗り、劇場で簡単に観られるようになったわけなので、そういう作法を求められること自体は致し方ないかと思いますが、そうなると結局、クリエイターとして「自分の支持層だけに受け入れられるような振る舞い」だけでは支持に限界があるということで、作品やクリエイターの振る舞いは旧態のものから離れるのが難しくなってしまうのではないでしょうか。

 

クリエイターの振る舞い自体が商品になるというのはなかなか面白いことだと思うのですが、こういった現象が起こるというのは良くも悪くも興味深いなと思います。