paper-view

ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

オチもなんもないけど家事とか男女役割の話

 データとったわけじゃないんで、自分の観測した視点からのお話で、つまりヨタ話ですよ。 なんてことなさそうな家庭のお話から社会的な命題引っ張り出しちゃうのは癖のようなものです。

 

 ツイッターを見ているとたまに、配偶者と家事や育児にかんする話とかが流れてきます。本人が言っているというよりもリツイートされているものが流れてくることが多い。中身は配偶者との家事分担が不十分で満足していないというものもあれば、どのように配偶者に家事をしてもらったかとか、どのように手伝ってもらって満足だったか、というものもあります。

 

 でもこの手のお話、今まで見たものの九割九分が「妻」が主体として家事育児を担当し「夫」を評価するっていうお話なんです。

 ここから色んな話に発展させることができると思うんですよ。「現在に至っても、家事育児の主体は女性側に偏っている現実」とか「視覚化されない男性の家事育児」とか。

 でも気になってることが一点ありまして。「夫」が主体として家事育児を担当し「妻」を評価する、という文章は、ひょっとしてそもそも、受け入れられない、拡散されないのではないだろうか? ということです。

 

 例えば、自分の家なんかは(自分が認識している限り)夫である自分が家事の主体です。理由は簡単で、自分のほうが帰宅時間と行動開始時間が早いからです。比較してスケジューリングが容易な自分がプライマリーで家事を回している。じゃあその状況下にある自分が仮に「妻」の家事っぷりに対して評価するようなツイートをするというのは受け入れられるのか。

 

 いや受け入れるよ、男女平等というお答えもあるんじゃないかと思うんですよね。そりゃこれだけクッション置いたからね。

 じゃ、そういう話をtwitterでぴゅーっと流したとして、それは一般に対してどういう受け取り方をされるのか。

 

 ちょっとズルい逆算ですけど、ツイッターをしていて自分のところまでRTで回ってくる誰かのツイートってのは、誰かのフィルターを通して少なくとも一回以上の選別がされおわったものなわけで、それが「妻が夫を評価する」お話だってことは、さまざまな発話があったけれど、RTのフィルターを通った結果それが残ったという可能性を考えるわけで。

 ってことは、やっぱり夫側が妻の家事っぷりを評価する記事みたいなのって、受け入れられない、もしくはストーリーとして存在しない、発話されないのかもしれないなぁ、と思うわけです。

音楽と物語の話

アイドルマスターシンデレラガールズ4thLIVEのライブビューイングに行ってきたのでそれの話をするんですけど、ライブそのもののこれがすごかったねっていう話はあんまりしないかもしれない。

 

二十年くらい前に「ウリナリ!」っていうウッチャンナンチャンの番組で、ポケットビスケッツというユニットがCDデビューして、そのときにやってたのがオリコンに入らなかったら即解散、というような番組内企画で。

そういう企画に合わせてCDを売り出して、敵役としてブラックビスケッツっていうユニットをだして、それらも同じようにプロモーションしていったりして……

と、いうのはなんだか、AKB48そのほかの握手券のなんたらとそんなに変わらないことだよなぁ、考えてみれば。という記憶があるんですけども。

 

結局のところそれで消費者たる我々が参加したのはなんだったのかっていうのは、つまりそこでポケットビスケッツブラックビスケッツ、AKB48っていう物語に参加したのだと。

音楽というか、創作物を買うというのは基本的にはその物語を買っているわけで。CDが売れなくなった、という話を聞きますが、それって結局、買うべき物語が音楽に付随しなくなったってことだと思うんですよね。

過去は、単純にCDを買うことそのものが物語だった。ミリオンセラーだったり有名歌手のものを買って、その体験を周りの人と共有するということが物語だった。

現在はそれだけではだめになってしまったが、売り手からすると「CDが売れなくなった」という事実だけが見えた。

 

とはいえ、CDが売れなくなったと言われ始めてから時代も過ぎておりますので、売ることを考える人はもちろんどんな物語を買い手に与えるか? というのは日々頭を悩ませているところなのだと思います。

 

そんなわけで、先日はライブビューイングを通してシンデレラガールズという物語に参加してきたわけです。この物語が大きい大きい。大きくて広い。アニメから入って二年くらいこの物語を見ている気がしますが、ぜんぜん全容が掴めない。面白いですね。

 

ライブビューイングはSSAの1日目を観ていて、そのときに出たアイドルはアニメに出ていたメンバーは殆どいなかったので、また新しい物語の広がりを感じたのでした。今日二日目の発表で何か新しいことがおこるかな、とわくわくしています。

一方で、もうエンターテイメントというのは情報量がとにかく増えすぎていて、これから先は全ての物語が一カ所でかみ合うような情報の爆発を常に意識しないといけないくらい、ものづくりのレベルが上がっているのだなと思いました。

 

なんにせよ、元気とやる気が出た。またがんばっていきましょう。

仕事とモチベーションの話

過去に受けた研修で仕事のモチベーションをどう保つかって話を聞いたことがあるんですけど、フルタイム雇用なのにモチベーションで仕事するのっておかしくないかね、という話を(何度目かわからんけど)したいと思ってます。

 

なんでかっていうと、ちょうど電通社員の方の過労死に寄せて世間の超過勤務、ひいては働き方に関する関心が高まっているからです。

 

長い間働き方については考えているんですが、色んな言説を見ていると「個人が働くことについてどう考えるべきか」「個人が働くことについてどうあると合理的か」「法人が人を働かせることが合理的か」それぞれがねじれてるなという感覚を得ます。

 

自分が雇用側に回った場合を考えると、一定人数以上の雇用をする場合には、できるだけ超過勤務をさせるほうがマネジメントとして合理的だなという感覚です。理由は今でも一般的な働き方は終身雇用であり、終身雇用を標榜していないと一定以上のレベルの人を集めがたく、社会保険のシステムを考えれば人の入れ替えは面倒。そのようなシステム下では業務の最も激化するところに併せた人数で雇用すると、こんどは閑散期に人件費が割高になってしまいます。

 

なんで過去に終身雇用とか年功序列賃金だったのかって言ったら、経済成長が見込まれていて、そのくらいの条件を提示しての人材獲得競争があったんだろうな、と思うところなのですが、それが維持できなくても、制度だけが社会的に残っていると、結果的に支払える人件費は限りがあるわけなので、同じ人を長時間働かせるっていう考え方になるわけです。

 

一方で、働く側はどうかっていうと、単位時間あたりで報酬が決められている環境下では、時間あたりの稼働率を可能な限り下げるのが理想的な働き方と言えます。かつ超過勤務すればその分の割増報酬が出るわけで、そういう意味では超過勤務した方が合理的です。

 

そこら辺がねじれにねじれると、超過勤務することをモラルとして定着させることが人を使うのに最も安価で合理的になるわけで、巨大企業であればなおさら、扱う人が増えていくので、合理的な考え方になるわけです。

 

で、結局のところまだまだ年功序列賃金と終身雇用という幻想はそれぞれの労働者の頭の中にあるわけです。これがもっとも現れているのが、雇用されてする仕事に対して「モチベーション」という言葉を使うことが横行しているところだと思います。

 

そもそも雇用されているというのは「条件を決めて労働し、それにたいして賃金という対価を得る」ということなので、そこにモチベーションが入り込む隙はないと思うのです。もしあるとしたら「雇用されている事」自体がモチベーションを維持する最大の要因で、雇用されている以上モチベーションは不変であるべきだと思うのです。

モチベーションという考え方ができるということは、すなわち雇用されているという条件が動きっこない、という前提がどこかにあるからと考えられるのではないでしょうか。

もし自由に雇用と解雇ができるなら、とにかく仕事をすることができる人を雇いたいわけで、モチベーションが上がらないから仕事をしない、という人は不要なはずです。モチベーションを理由に仕事をしていないあいだは、無駄な賃金を払っていることになってしまう。

 

いまのような経済状況下では、雇われる側は、自分がいくらの賃金で何時間働く約束をしているかを意識して、それが不当だと思ったら職を変えることが必要だし「不当だと思ったら辞められてしまう」と雇用者の側に面倒な思いをさせないと、超過勤務も不当に低い賃金も変わりません。変える理由が雇用者の側にはありません。モラルを求めるなんてのは一番現実味の低い夢物語のような理由です。

 

一方で、自分にとって不都合な条件下でもその雇用状況下に居続けるのは雇われる側にとっては非常に合理的な選択であることも同時に言えます。不安定な雇用情勢、職を変え続けることが不利益になるような労働市場では、ゲーム理論でみんな自分が得をする選択をして、みんなで損をとっていくのは当然に起こりうる話です。

 

なので、雇われる側は、自分たちのグループ、労働者という集団では、労働力を提供しないこと、業務の維持を脅かすことによって雇用側から好条件を引き出すことが必要であるということを意識しつつ、一方で個人としてはその場に居続けることが合理的でその選択をしているのだということを意識しないといけない。

 

でも、それができていない。単純に自分が雇用され続けるという前提の下で、雇用者に対して労働条件を向上せよ、という意識だけを持ってしまっている。

そういう意識を持ってしまっていると「モチベーション」という言葉が出てくるのではないでしょうか。

 

仕事はモチベーションではなくて、それに使っている時間と得られた賃金が合理的かどうかで判断されるべきだと思うし、それを学校で教えて意識をつけることが大事だなと思うんですけど、ほかならぬ教師が一番、時間と単価の関係を考えると心を病みやすい労働環境にあるというのは皮肉な話です。

 

だもんで、教育で直らないと思うので、この関係については法整備でどうにかするしかないと思っています。つまるところ、超過勤務や労働災害を出すことについて強いペナルティを出すことで対策をすると。

ただ、それが整備されるのにはまだ数年以上かかると思います。

 

じゃ、個人ができる対策はなにか? というと、まずはモチベーションという考えをやめる、すなわち自分が働いている時間と単価の関係を常に考えることから始まるんじゃないかと思います。

 

それって時間と単価のギャップを感じて辛そうだなぁ、と思うかもしれないですが、おっきな会社ほど自分の直上の人は雇用に関する権利を持ってなければ事務も担当してない確率が高いと思うので、不当な業務量になったときに転退職をほのめかすのがいいと思います。やりすぎるとオオカミ少年扱いを受けるかもしれませんけど、冒頭に述べたように、人を解雇して雇い入れしなおすのは、かなりコストがかかります。しかもイレギュラーな時期に起こると、その一名のためだけに社会保険関係の手続きで書類づくりをしなきゃなりませんので、クソ面倒です。

なので、簡単に解雇はされませんし、できません。雇用側の縛りも結構大きんです。

 

というわけで、件の事件で労働に対する言説が加熱しておりますが、まずもって雇用する側にモラルを求めても仕方ないし、最適化された末の現状が今だと考えられるので、まずは自分の労働条件と得ている賃金の関係が妥当かを考えることからはじめる、モチベーションを理由に仕事のアクセル量を変動できる自分を疑うことから始めるといいのではないかな、と思っているのです。

小説の話 20160926

活字を読みたいときと、マンガを読みたいときと、ゲームをしたいときとがそれぞれ波のようにやってきて、ここしばらくは活字を読みたいときでした。

 

 ・何様ですか?

何様ですか? (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)

何様ですか? (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)

 

 3人の高校生の視点を移りながら、そのうちの1人が企む計画についての進行を見ていく物語です。自分の思うミステリー、とはちょっと違うような気がしました。

 いい感じに後味がとても悪いのだけれど、ものすごく盛り上がるか? というとオチはさらっとしていて、オチ周りで描かれていることの情報から予想される「その後」の暗さが秀逸だと思います。

 アオリ文に釣られて……といったところで買ったんだけど、どうもアオリ文で買うと失敗することが多い気がするなぁ。

 

・僕が愛したすべての君へ/君を愛したひとりの僕へ

 

 

 二冊のどちらから読んでも大丈夫なようになっているので、もし読む場合はお好きな順番で。自分は僕が→君を の順。

 並行世界の存在が実証され、並行世界を行き来することができるようになった世界のお話。この世界設定はとても秀逸で「シュタインズゲート」「魔法少女まどかマギカ」みたいな、いくらでも物語を作って行けそうな可能性を秘めてます。

 どちらも最後はしっかり読みたいと思って一気に読んでしまったので、物語的な誘引力はとても高いです。

 

・弾丸スタントヒーローズ

弾丸スタントヒーローズ (集英社文庫)

弾丸スタントヒーローズ (集英社文庫)

 

  今年お薦めしたい小説いまのところナンバーワン。そもそも自分はこの作家さんが好きなのですけれども。

 スタントウーマンを描いた作品で、大学生の女性がとある理由からスタントウーマンとなり、撮影現場で働くお話。けどドラマがとってもしっかりしています。一冊できちっとお話がぴったりしまっているところが素晴らしい。

 ヒーローショー、映画のスタントあたりで、普段はスポットが当たらない業界についての新鮮な知見あり、仕事をする人たちの強さ、プライドあり。こういうの書けるようになりたいよなぁ、と思った一冊でした。

 移動中の電車の中で読んでたけど終わりそうだったのでホームで立ち止まってしっかり読んでしまいました。

サービス業とサービス精神の話

近鉄のお話で、クレーマーに屈する必要はない、というお話をTLでちょいちょい見かけますが、通常、組織がする対応というのは、単純にその合理性が大きい、または大きいと見積もられるからそうするのであって、逆にそれ以外の理由はあんまりないと思います。

 

なので、過大なストレスを抱えた社員をかばう、という考えよりも、目の前の事象に謝罪をして、社員の行為について「不適切」ってことにしてしまったほうが「利益が大きい」と判断されたことになるわけです。

そうすると「社員を護るべきだよ」ということを主張して実行していただくのは、それ相応のロジックを組まなくてはならない。

それがないと「社員を守るべきだよ」という言葉は単純に「社員の行為は不適切だ」ということと同程度のクレーム、かつ社に向く可能性が少ないので、ほっといていい、不適切だと文句を言われるクレームよりも対応優先度は低くなります。

 

はてさて、なんでそんなことになってんでしょうね。

 

サービス業を、サービス精神を発揮するお仕事だと勘違いしている人は結構います。この話前にも何度か書いてるかもしれません。でもそのくらいみんな勘違いしてると思うんですよね。

サービス業は「無形財を販売する業」です。ここでいう無形財は、単純にモノではないということです。

サービス業の業種は、えてしてサービス精神を発揮してくれることが多いです。ここら辺は「CS(顧客満足度)」の競争の結果です。

CSを獲得するためにどの程度「サービス精神」を発揮するかは、さまざまな業種の取捨選択により決定されます。なぜなら「サービス精神を発揮する」も一つの労働、人的感情的コストを払ってするものだからです。

言いかたを変えましょう。バイトを選ぶとします。その日の気分に応じて仏頂面でもいい喫茶店の店員と、どんな体調や精神状態でもお客さんにニコニコすることを強いられる喫茶店の店員、どちらも時給は950円です。

こういわれると、割安感と割高感が生まれるはずです。

 

よって、サービス精神を発揮するということは労働の一種だと分類していいと思います。

というか言葉があります。「感情労働」といいます。

 

サービス精神を発揮しようが発揮しまいが成果が変わらないお仕事の場合、労働量が少ない方が楽ですから、サービス精神を発揮しないほうが合理的です。

これは競争相手がいない業界、専門性の高い業界には顕著に言えます。鉄道なんか顕著です。「あの私鉄、サービス悪いからJRで行こうぜ」とはなりません。ならない、ということは、その社員にはサービス精神を発揮する合理的理由がない、と言うことです。

 

でもサービス精神は発揮して当然というくらいの意識がまかり通ってしまってます。これはもうなんでかはちょっと判りません。ちょっと上くらいの世代の人たちがサービスされすぎて、自分はサービスされて当然だくらいに思ってしまった、もしくはそれを供給することで利を得てきた業界が多かったのかもしれない。ともかくとして「サービス業はサービスを提供してしかるべきなのだ」と考えてる人は結構います。

こうすると次に何が起こるかというと、働く側の人達は、よくわからないけど、サービス精神は発揮しなきゃいけないんだ、と思うのではないでしょうか。なぜなら、働く人はまた、消費者でもあります。消費するときはいつも、提供者から最高のサービスを受け続けてきたので、サービスは発揮しなきゃいけないもんだと思ってるかもしれない。

で、消費する側はサービスを受けて当然だと思ってしまっているので、サービス精神がみられないと過剰に反発したりします。「お客様は神様だ」に代表される客側のクレームです。

クレームが発生するとクレームを処理しなくちゃなりません。面倒ですよね。クレームを放置するよりもクレームを処理した方がいい時はクレームを処理する選択が選ばれます。

 

この「過剰な反発」が多い間は、それが道理かどうかは別として、サービス精神を発揮したり、サービス精神を発揮していないことに対するクレームに積極的に処理する方が合理的になります。

なぜなら、労働者の側もまたサービス精神は発揮されて当然だという文化の中にいるため、感情労働はほぼ対価ゼロで提供されるからです。対価ゼロなら使ったほうがいいです。(実質的にその人材を失う、損なう可能性は高くなりますが、無視されちゃってるよね、ということです)

 

というわけで、そもそも感情労働が価値として計算されていないので、このお話は、見る側にとっては「それは社員を守れよ」という感覚を産むとはいえ、それに従っても極端にメリットは少ないと見積もられてしまうので、めんどくさいクレームを早めに封殺するために、社員の行動が不適切でしたと謝って対応していく、という考えになるのです。

 

それを変えるには。

・十分な対価がなく感情労働をさせられる業種への応募人気が減り、人材獲得が困難になる

・サービス業はサービス精神を発揮する業であるというトレンドが消える

などが起こって、謝らないほうが合理的だ、利をとれる、という選択がなされないとだめです。

 

とりあえずは、飲食店の店員さんが仏頂面でも、ご飯がちゃんと出てきたのなら嫌な気持ちにならないことが大事です。

映画小説漫画の話 160911

先に雑談を。

なにかキャラクターを使って二次創作をする場合「このキャラはこれを言わないだろう」ということは絶対にしないようにしているんですが、最近デレマス(デレステ)でいっちょやってみるかいと挑戦したらまぁこれが難しいこと。

恐らくですけど、このデレマスの世界はキャラごとに考えたらそんなにテキスト量が多くない。そんでその代わりにファンサブが滅茶苦茶多い。そしてそのファンサブと本筋が相互に影響しながら現在がある。

から、どう読みこんでも正解がないような気がするし、一方でなにやってもいいような気がする。

つまり「寄るべきところ」が見つけられない、自分が寄るべきところにならなきゃいけないっていうのが難しいところなのです。大変だこれ。

ということで、もうちょいファンサブ見ていかないといけないのかな、と思ったのでした。

 

それと関係してですが、年末の冬コミの頃を狙って色々と動きがみせられたらいいなぁ、と思っています。まだ余裕あるように見えて、実は3~4くらいの企画に同時に乗っかっているので、おそらく後で大変なことになると思います。

自分は集中力が続かないので、こうやって細かい活動をたくさんしている方が性に合っているのかもしれないなぁ。

 

 

・三匹のおっさん(小説) 

三匹のおっさん ふたたび (新潮文庫)

三匹のおっさん ふたたび (新潮文庫)

 

 先日閉店間際のブックオフでいっぱい買ったらセールになるってんで買ったうちの一冊です。これと一緒に「レインツリーの国」も買ってて、そっちはまぁ滅茶苦茶甘くて楽しいけど辛いなみたいな感じだったんですよ。

で、こちらはおっさんたちの勧善懲悪みたいな感じで、痛快なお話! と思いきや途中から急に高校生カップルが出てき始めて「!?」となったのでした。お話はとても面白いです。テンポのよさ、キャラクターのよさ、さすがだなぁ。

 

・この闇と光

この闇と光 (角川文庫)

この闇と光 (角川文庫)

 

 トリックのあるお話だということが帯で明示されていたとき「よっしゃあ見抜いたるかい!」とは思わずにとりあえずすーっと読んでしまうわけですが、それの中であーひょっとしてこういうことかなー、って思いついたりはするよね。

独特の空気感があって面白い小説だったんですけども、でもこういうのってやっぱり帯やポップでそんなにトリックあるよっていうことを匂わせないほうが楽しめると思う。

でもトリックあるよって伝えないと自分も手に取らないだろうからジレンマよね。

 

・ここはボツコニアン

ここはボツコニアン 1 (集英社文庫)

ここはボツコニアン 1 (集英社文庫)

 

気になっていたけど文庫版まで手に取らなかった本。この文体で読みやすいのはさすが宮部みゆき先生ならではだけど、続きを読みたいとは思うことができなかった。どうしてかなぁ。テンションについていけなかったのかもしれない。

 

煩悩寺

 秋★枝先生作家買いをしようキャンペーン。ということで読んでいたのですが、キャラクター造形にパターンがあるのがこの人の漫画ですよね。さくさく読めた。「恋は光」がなんとなくダレてしまっている感じになってきてるので、このくらいの長さのほうがまとまる方なのかもしれない。

 

・虚構推理

虚構推理(1) (月刊少年マガジンコミックス)

虚構推理(1) (月刊少年マガジンコミックス)

 

 4巻まで。面白いんだけどなかなか話が動かない! あとミステリーとはちょっと違う。「推理」ってついてるけど推理ものではない。キャラや人間関係はとっても面白いんですけども、もうちょいテンポがよかったら嬉しいんだけどな。

 

昭和元禄落語心中(完結)

昭和元禄落語心中(10)<完> (KCx)

昭和元禄落語心中(10)<完> (KCx)

 

終わってしまった。この漫画を読みながら最終的に思っていたことは「落語」がどんな位置にあるかっていうことで、自分としては、だけれども、お話の中心でありながら落語自体は脇に置いてあったと思う。

つまり「落語」そのものそれぞれにストーリーがあるけれど、この漫画自体もストーリーなので、劇中で描かれる「落語」は、それ自体が主になってしまわないようにちゃんと脇に置かれている感じ。

自分は落語に詳しいほうではないので、落語が好きな人からしたらこのあたりはどうなのかな、というのは気になるところ。

 

君の名は。

www.kiminona.com

 

実は新海誠監督の映画はほとんど見ていると思うんです。ほしのこえ雲のむこう、約束の場所秒速5センチメートル星を追う子ども言の葉の庭、と観てきました。

今まさにいろいろ盛り上がってるところだと思うんでいろいろ言うのはあれかなーと思うんですが、自分は「ああーよかったなぁ」って思うんですよね。

とりあえず今はこれだけにしとこう。難しいことを考えたりせず、そのまま観ることがよい映画だと思います。作家性、みたいなことを見る側が意識すると途端に面倒な問題がいっぱいついてきちゃうからね。

料理は音楽だという話

理系の料理っつう本が出ているようです。

 

こんなん。

 

チューブ生姜適量ではなくて1cmがいい人の理系の料理

チューブ生姜適量ではなくて1cmがいい人の理系の料理

 

 

実家でてから5年、自分もメシテロができるくらいには自炊ができるようになって思うんですけど、この思想は判らないでもないが、根本的にずれていると思う。

 

料理に関して「どんくらいがいいのか」についてを細かく求めたがるっていうのは、ひとえに「失敗したくない」という思考から来てるんじゃないか、と思うんですよ。

もっと言いますと「この一回の試行」で成功を収めようとしているというわけ。一回の試行で確実に美味い料理を作ろうとすると、この加減に対する具体的数値を求める思考はどうしても必要になると思う。

 

これがまず一番の間違いだと思います。レシピが曖昧に表現されている一番の醍醐味は、十回作れば十回別の味で出来上がってくるぶれに意味があるからです。作るたびに同じ味が再現されるのって、ちょっと気味悪いと思いませんか。

 

んでタイトルの料理は音楽だという話に戻りましてなんでそんなことをしたかというと、自分の身の回りには音楽やる人が多いから例えがわかりやすいかなと思ったということでして。

たとえば管楽器でフォルテと表記されたときに、それが具体的な肺活量でミリリットル表記に置き換えられてなんて決してないわけです。昨日のメゾフォルテより弱く小さいかもしれないし、明日のフォルテッシモより大きく強いかもしれない。

じゃあ音楽やってるときにそれをどうやって安定感のあるいい演奏にまとめていくか、っていうと、それは技術力と練習回数で補うわけじゃないですか。「このくらい」を身に着けるということで。

なので、音楽における楽譜も、一回で意図した結果をもたらそうなんて設計にはなっていないわけです。その楽譜の反復か、もしくはそれ以前に培われた膨大な類似の経験をもとに完成に近づけるような設計になっている。

 

で、料理におけるレシピが同じ理屈。

強火か? 弱火か? 少々とは? 適量とは? というのは、結局のところそのレシピの試行回数を重ねるか、もしくはそれまでの経験に裏打ちされてようやく出てくるものであって。さらに言えば、動植物のような量や形の変わるものを基本的に相手にするものなのであって。同じしょうゆといえどメーカーによって濃さや風味など全然違うものになるのであって。

 

だから、きっちり量を書くことに意味が殆どないわけなんです。

 

それでも完成度が高いならそのレシピのほうがいいじゃん。という場合。

同じものしかできないってのはコンビニ惣菜といっしょです。音楽で言えば「生演奏だぜ!」つってCD流す感じ。

 

よって、上記のような感じのきっちりレシピを求める方にはお伝えしたい。

「その料理、試行回数重ねるおつもり、あります?」と。

「あるんなら、試行回数重ねるほうが近道ですよ」と。

 

食材を無駄にしてしまうのはもったいなく感じるかもしれませんけども、とはいえ料理は人類のなかで二番目に普遍的なクリエイティブ行為だと思いますので、五感に何らかのエラーがなければ「やればできる」ものだと思います。

理系のレシピいいなあ、って思った方はこの機会にぜひ一度「試行回数重ねるつもりがあるか」を考えてみていただければ。あるなら、失敗したほうが早いです。たぶんね。