paper-view

ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

料理は音楽だという話

理系の料理っつう本が出ているようです。

 

こんなん。

 

チューブ生姜適量ではなくて1cmがいい人の理系の料理

チューブ生姜適量ではなくて1cmがいい人の理系の料理

 

 

実家でてから5年、自分もメシテロができるくらいには自炊ができるようになって思うんですけど、この思想は判らないでもないが、根本的にずれていると思う。

 

料理に関して「どんくらいがいいのか」についてを細かく求めたがるっていうのは、ひとえに「失敗したくない」という思考から来てるんじゃないか、と思うんですよ。

もっと言いますと「この一回の試行」で成功を収めようとしているというわけ。一回の試行で確実に美味い料理を作ろうとすると、この加減に対する具体的数値を求める思考はどうしても必要になると思う。

 

これがまず一番の間違いだと思います。レシピが曖昧に表現されている一番の醍醐味は、十回作れば十回別の味で出来上がってくるぶれに意味があるからです。作るたびに同じ味が再現されるのって、ちょっと気味悪いと思いませんか。

 

んでタイトルの料理は音楽だという話に戻りましてなんでそんなことをしたかというと、自分の身の回りには音楽やる人が多いから例えがわかりやすいかなと思ったということでして。

たとえば管楽器でフォルテと表記されたときに、それが具体的な肺活量でミリリットル表記に置き換えられてなんて決してないわけです。昨日のメゾフォルテより弱く小さいかもしれないし、明日のフォルテッシモより大きく強いかもしれない。

じゃあ音楽やってるときにそれをどうやって安定感のあるいい演奏にまとめていくか、っていうと、それは技術力と練習回数で補うわけじゃないですか。「このくらい」を身に着けるということで。

なので、音楽における楽譜も、一回で意図した結果をもたらそうなんて設計にはなっていないわけです。その楽譜の反復か、もしくはそれ以前に培われた膨大な類似の経験をもとに完成に近づけるような設計になっている。

 

で、料理におけるレシピが同じ理屈。

強火か? 弱火か? 少々とは? 適量とは? というのは、結局のところそのレシピの試行回数を重ねるか、もしくはそれまでの経験に裏打ちされてようやく出てくるものであって。さらに言えば、動植物のような量や形の変わるものを基本的に相手にするものなのであって。同じしょうゆといえどメーカーによって濃さや風味など全然違うものになるのであって。

 

だから、きっちり量を書くことに意味が殆どないわけなんです。

 

それでも完成度が高いならそのレシピのほうがいいじゃん。という場合。

同じものしかできないってのはコンビニ惣菜といっしょです。音楽で言えば「生演奏だぜ!」つってCD流す感じ。

 

よって、上記のような感じのきっちりレシピを求める方にはお伝えしたい。

「その料理、試行回数重ねるおつもり、あります?」と。

「あるんなら、試行回数重ねるほうが近道ですよ」と。

 

食材を無駄にしてしまうのはもったいなく感じるかもしれませんけども、とはいえ料理は人類のなかで二番目に普遍的なクリエイティブ行為だと思いますので、五感に何らかのエラーがなければ「やればできる」ものだと思います。

理系のレシピいいなあ、って思った方はこの機会にぜひ一度「試行回数重ねるつもりがあるか」を考えてみていただければ。あるなら、失敗したほうが早いです。たぶんね。