「ヤバい」という言葉の意味がだいぶ変化しているようです。
現在では「すごい」だったり「great」みたいな意味合いで使われることが増えてきているようで、webで検索できる語源由来辞典では90年代から「すごい」の意味合いが派生したと書かれています。
この「すごい」という意味が入っているということは恐らく自分と同じ年代の人物であれば特段に不思議なことはないと思うんです。しかしそもそも「すごい」というのも幅の広い言葉なので「すごい」と「ヤバい」をどのくらいオーバーラップさせるのか、というのが、自分の実感では年代により差があると思っています。
年代や地方によって差があって当然の話題ですので、それがダメだとかいいとかそういうことではないです。差があるようだよ、ということを話していくということになります。が、その一方で僕が主観をしている僕という人物では、僕の生きてきた歴史に伴う「違和感」が発生するわけであり、その違和感を一般化することなく僕の視点から「違和感あるよ」と表明するのはおかしなことではないはずです。
めんどくさい言い回しをしましたが、平たく言うと「僕は違和感あるけど、別に直さなくてもいいよ」ということです。
やばいの差についてですけども、自分にとってのボーダーラインは、それが「形容詞として使われている」範疇ならば問題ないようですが「相槌」として使われる場合には違和感がある、ということがわかりました。
つまり。
A「彼のゲームプレイの腕はヤバい(すごい)ね」
僕「なるほど」
これはOKです。
僕「彼のゲームプレイの腕はすごいね」
A「ヤバい(すごい)」
これは違和感があるようです。
僕より数年若い人ではすでにこの用法が自然になっているようです。観測求む。
ちなみに「格好悪い」という意味合いが80年代頃の「ヤバい」の意味合いだそうですので、僕より年配の方はもっともっと違和感を抱いているということになるでしょう。こいつはヤバい。
最近もう一つ違和感があることに気づいたのが「ずるい」という語です。ずるいは
- [形][文]ずる・し[ク]自分の利益を得たりするために、要領よく振る舞うさま。また、そういう性質であるさま。悪賢い。こすい。「―・いやり方」「―・く立ち回る」
ということで、どちらかというと「悪」のイメージが辞書では出てきます。自分も何度かこういう評価を受けたことがありまして……っていうと僕は実際にこういう「悪」なふるまいをすることがあるので例としては良くないんですが、純粋に「行動したことで達成したもの」について「特に行動しなかったかつ被害は得てないが、成果の一部を享受だけした人もしくは何も得られなかった人」からずるいと言われることがある、もしくはそういう方法で他者を評価している場面をみることが結構いろんなところであります。
これは気分が良いと思っていません。知らんがな、行動しなかったあんたが悪い。ずるいと言われる筋合いはない。と、思っています。
ずるい、はその感情の責任が発語者の外にあることが前提であると思っているからです。ずるい、は行動した人に対しての評価なのです。もっというと潜在的に「(ずるいから)やめろ」を含む言葉だと思ってます。
が、だから言うなということは上記の通りそう述べたつもりではありませんので、それはそれでよいと思います。数年後にはこれも辞書に載りなおすかもしれない。責任が発語者の外にある前提の消えた言葉になってるかもしれない。
ちなみに「シアター!(有川浩)」でしたか、誰かが自分にはできなかった事をやったことに対しての感想に「悔しい」という語を用いてます。この「悔しい」はネガティブにもなる言葉ですが、悔しいのは「自分」であって、それは何らかのことに対しての「自分の」リアクションですので、必ずしも他者へのネガティブな評価に(いまのところ)つながらないと思っています。
とはいえこれもそれはそれなりに両面性のある言葉なので、危ないといえば危ないなぁ、と思っているところです。
こういうことを言うようになるといよいよ年が寄ってきたか、とも思うわけなのですが、まぁまぁズレの大きな言葉であるほど日常使用や文章中の使用には気をつけたいなぁ、と思うわけです。ひっくり返して考えたら、若いキャラを描くときほどこういうニュアンスを含むように操れるほうがリアリティが出てヤバいし、そういう表現を巧みに使える人はずるい、ということになるわけです。