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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

ツイートが軽くバズったので「バズりツイートにぶら下げたツイートはどのくらい参照されるのか」チェックしてみた

何気なくしたツイートが普段より多めにRTされました。

 

 

流れて来るバズったツイートで良くみる「本人によるリプライぶら下げでなんか宣伝」ってやつなんですが、あれはどんくらい効果があるんだろう?

と思っていたところ、自分のツイートが普段よりもRTされていたので、いくつかツイートをぶら下げてそのツイートアクティビティをみてみました。

 

24時間で1100近くRTされたので、100、300、500、1000RTの時点でひとつずつぶら下げ、24時間のところで数値をチェック。

結果はこんな感じになりました。

 

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100RTから300RTのところは深夜を挟んでいます。

こうしてみると、バズると言える前にツイートしている100RT時点のぶらさげも、全体から見れば1割未満の人しか見ていないことが判ります。

さらにこの100RT時点のツイートには「bio(自己紹介欄)で合いそうと思ったら気軽にフォローしてくださいね」的な文章を入れておいたのですが、プロフィールクリック数は15、インプレッション(閲覧数)の0.2%。元ツイの閲覧率0.05に比べれば率としては大きいですが、インプレッションの差が大きすぎてとてもぶら下げのほうが有利とは言えません。

ちなみにこの件でフォロワーは一人も増えていません。(こちらからフォローし返していただいたパターンは除く)

 

このときの自分のフォロワー数は1600弱、普段のツイート(RT等がつかないもの)のインプレッションは300~500程度です。

 

これらのことから、こんな仮説が立てられそうです。(検証は気力も条件も用意できない)

・フォロー数とRT規模によっては宣伝ツイートを繰り返すよりバズったツイートにぶら下げるほうが有利

・プロフィールは殆どクリックされない。(当然トップ固定ツイートもRT等されない)

・バズってもフォロー数は増えない(クリエイティブ特化のアカウントは別かもね)

 

となると、総合的に言えそうなこととしては

フォロワーが大して多くないアカウントで、twitterをきっかけに宣伝をするというのは現実的ではなく、宣伝能力がある(=既にフォロワーが多い)人がツイートをしないとあまり意味がない、てな感じでしょうか。

 

ただ、バズって行くと明らかに普段見ているのとは異なる名前がRTに連なっていくので、それは少し興味深いです。

知らない方からのレスやコメント付きRTはRT500を超えたあたりからじわじわ増えてきました。

 

何かの参考になりますれば。

一旦「ボイス付きのFF7キャラが苦手だ」という意識を取り下げようと思う話とFF7Rの話

FF7リメイクのロングトレーラーを見ました。

 

www.youtube.com

 

ファイナルファンタジー7といえば少年時代の衝撃のゲーム。いろんな思い出がここに詰まっています。先に強く言っておきます、大好きなゲームです。

たまに話題にするんですが、FF7のキャラクターにボイスが付いたときに強い違和感を覚えてしまいました。声質ではなく、今まで文字で観ていたテキストに対して、音で話されるテキストに気持ち悪さを覚えてしまった。

一番顕著だったのはアドベントチルドレンに登場するエアリスが敵キャラに言う「もう、がんばるの、やめよう?」でした。エアリスそんなこと言うだろうか。って思ってしまった。

 

それがどうか、ということは人によって感じ方が異なると思うんですが、自分が感じたのは恐らく「FF7原版でポリゴン4等身程度のキャラ用に作られたテキスト」と「AC~DCまでのキャラ用に作られたテキストとボイス」の間の衝突だっただろうと思っています。

 

FF7のAC、CCは「FF7原版のテキスト」の雰囲気を色濃く受け継いだテキストだったと思っています。「3~4等身ポリゴンの、今で言うと人形劇的なプロポーションのキャラが『もう、がんばるの、やめよう?』と言う」とすると自分にとっても違和感はないんです。

が、キャラクターが6~8等身になるならば、3~4等身のキャラクターとは違う演じ方になっていることが必要なんだろうと思うのです。一方で、原版のテキストの雰囲気は大事にしないと「違う人」になってしまう。ここのさじ加減が難しかったのだろう、と思っています。

 

FF7リメイクの話題が出てからはずっとキャラクターに感情移入できるかが不安でした。が、リメイクのロングトレーラーでキャラクターが喋っているのを見てようやく安心ができてきました。おそらく、原版からかなりテキストを調整してくるのではないでしょうか。(せっかくなのでメモリアルアルバムもちょっと読んでおいた)

 

FF7は発売から実に23年ほど経過しているわけで、となればキャラクターの印象も自然に変わってきているのかもしれません。たくさんのファンアートが描かれ、ディシディアやクロスオーバー作品等での活躍があり、原版のFF7を参照しなくてもキャラクターが成立するようになってきているのかも。

 

と、いうことでFF7リメイクにあたっては、ボイス付きのFF7キャラに対する今までの違和感を一度忘れてプレイしてみたいなと思うようになったのでした。

 

ここからFF7リメイク本体の話。

 

FF7の「楽しさ」には複数の側面があると思いますが、FF7リメイクは分作で発売されるとのことで、当時感じたFF7の楽しさのうち一部はばっさり切られてしまうのではないかと思いました。

 

一作目はミッドガル脱出まで。これはミッドガル内部を濃厚に描くこと、以降の作ではミッドガル内部のマップデータが不要になることからかなと単純に想像します。美麗な世界を描くならば巨大なマップデータは持ちづらい。

FF7をドラマに注目して描くならば、ワールドマップの排除はあり得るかも、と思っています。何よりFF7はポリゴンになりミニゲームのコメディ要素がそれなりに多いゲームです。これがリメイク版の思想と一致するか。

 

ストーリーに限って言えば

★ミッドガル編→ある

  蜜蜂の館→必然性はないが、なくすのは難しいと思われる

・カームの町→マリンの保護所という以上の機能がない

ミスリルマイン→起こるイベントがこの場所である必然性はない

・コンドルフォート→無くても問題ない

ジュノン→後のイベントでも必要性は高い、コスタデルソルで水着イベントも欲しい、スクエニ産やわらかエンジン火を噴いてくれー!

★コレル山~ゴールドソーサー 観覧車イベントは重要ではあるので、カットはされなさそう

★コレルプリズン バレットが美味しい箇所

★コスモキャニオン 外すとイベントが怪しくなる

★ニブルヘイム 必要、イン&ヤンの動きに期待大

ロケット村 シドさえ加入できればロケットが無くても話にあまり影響がないと思う

ウータイ ユフィさえ加入できれば町ごと大して必要性がない

★忘らるる都 外せまい

★大空洞 ここ以外のどこでやるの最後

 

だいたいこのくらいあれば全体のドラマとしては成立するんじゃないかと思うんです。フィールドマップはあまり必要ないと思うし、ミッドガルにそれだけ割いたらたぶんワールドマップを同じ水準で置いておけないんじゃないか。

 

って、なるとリメイク版で描かれるのはドラマ中心になってしまうのではないか、という懸念があります。それはそれで当時とはやろうとしていることが違うんだから何らの問題もないんだけれど、ばっさり切られる(切るしかない)ところにはいやでも注目が行くはず。それを回避できるのか。

 

もしくは、全部元の通り収録されるのか。さすがに難しい気がする。

 

と、思うのでした。ワールドマップを歩けるのかが目下の関心どころです。

 

NHKの受信料契約受託事業者と結構しっかり話をした話

お恥ずかしい話なんですけど、NHKのBSってスクランブルかけられて、自分が見れてるのはノンスクランブル枠だけだと思っていました。

 

ってなことで、自宅(集合住宅)はBSの入るアンテナを設置しているということで、それに気づいていなかったまま地上デジタルの契約のみだった自宅に受信料契約受託事業者(以下事業者)の方が訪問に来ました。

 

月に千円弱受信料が変わってくるということで、それは何も話を聞かずにサインはできないなぁと思ってしっかり話を聞いていくことにしました。というか、しっかり放送法64条と日本放送協会放送受信規約を読みました。(読んでるあいだはこの事業者の方は待ちぼうけなので、たぶん真面目に30分くらい玄関先で応対させたんじゃないだろうか)

 

自分のスタンスについてですが、NHKを日常的に見ていて、反対に民放をあまり見ておりません。朝起きてから出勤まではNHKのニュースを、民放はニチアサとアニメくらい。理由は報道番組や知識を得るにあたって民放は情報ノイズが多すぎるからです。ニュースにBGMが乗ったりコメンテーターが煽ったりするのが不快で、そういう余分な情報が乗らないNHKを信頼しています。

 

なので、地上デジタルの契約をするのに何らの戸惑いはなく、喜んで契約していました。が、BSについては普段見ているわけでもないし、見ていないのに月千円は体感的に高い。そしてBSまで見ているほどの時間的な余裕はない。ので、その時点で納得はできなかったわけです。

 

で、結局のところ、BSが受信できる設備を持つ集合住宅に設置してるテレビを持っていたらBSの受信契約をしなきゃいけないということがわかりました。

 

最終的にBSの契約にサインをしました。理由は条文を読んだ限り契約は避けられないなと感じたからです。「NHK地上波は今後も見たいんだけど、BSは要らないんだよなぁ」というのは選択できないんだ、ということを理解したからです。

 

なに言ってんだ消費者を顧みないNHKの暴挙に屈したのかよ! と思われるかもしれませんが、そうじゃないです。法を読んで解釈したうえで、法を破るつもりはなかったので契約に踏み切りました。

 

放送法のNHK受信料関係については調べると64条の文言が出てきます。

協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。 

 (wikipediaより)

 

ということでテレビを置いたら払わないといけません。えーっそれ暴挙じゃないんですか!? って思うところかもしれませんが違います。これは法なので、設置する時点でこっち(設置者)が知っていないといけないことです。

つまり、「NHKを受信することができる」テレビを置く私たちは放送法を理解し、64条を知り、設置場所=自宅電波受信状況を知った上で「設置」しなくてはならないわけです。

これに基づいてNHKが受信契約を促すことはおかしいことではない。そして自分がそのことについて了解していなかったのはこちらの瑕疵である。

 

しかし、同時にアンバランスなような気がしますよね。知らないうちにお金を取られることになったような実感はぬぐえない。ではこれってどこに問題があるのか。この構造であれば問題は「電気店」および「不動産業者」から説明がないことだと思います。

自宅に置くテレビを購入する際に電気店から「これはNHKを視聴することができるテレビなので、NHKとの契約が必要です、料金はおいくら」とか「BSも見れるのでご自宅のアンテナが対応していればBSの料金も必要です」とか説明したほうがいい。

でも説明しませんよね。そりゃそうです。今NHKとの契約が必要ないテレビなんてないんですから。知らなかったんですかご購入者様! そりゃあまずったって感じですね! と言えちゃいます。法ですからね。まさか知らないなんて。

不動産の方は説明しといてほしいなぁ、と思いますよね。賃貸の大家さんとか、売り買いの業者さんとか。さすがにBS見れるアンテナ入ってるかどうかまではぱっとは判らないので……

 

ということで、この法の条文なら説明すべきはその受信設備の販売者だと思うんですよね。たとえば資格が必要なトランシーバーとかならamazonとかでもちゃんと説明してくれてます。でもNHKと契約が必要なテレビ(国内流通品はほぼ全部ですけど)は説明してくれてない。

 

なぜか。NHK(の代行事業者)にヘイトが行く文化だから、別にいいと思っているのかもしれないです。これが資格要のトランシーバーだったら「資格が必要じゃないか、どうして事前に説明しないんだ!」ってクレームを受けるのは販売者です。でもテレビの契約料のクレームはNHKが一心に受けてくれています。法の構造としては同じだと思うんですけども。

 

ということで、受信設備を買ったら、その方式に応じて受信料を払わなくてはならないので、自分の知識不足であったということがよく分かったので契約をしたのでした。

 

色々調べて面白かったんですが、特に64条第二項。

協会は、あらかじめ、総務大臣の認可を受けた基準によるのでなければ、前項本文の規定により契約を締結した者から徴収する受信料を免除してはならない。

 この条項があるってことは、NHKは契約を締結した人からは確実に受信料を集金しなきゃいけないし、それをしなきゃいけないってことは、実質的に「契約していない人」「契約をしていないが、契約している人と同じ状態=NHKを観れる状態にある人」から集金をしないと、契約し支払いをしている人との不平等が生じます。

だからワンセグだって支払いの対象だと主張しなきゃいけないし、そのほかの方法も。(実際にワンセグは「設置」ではないので対象外となっていますが、それでもNHKが「受信料支払いが必要だと解釈している」というのは上記の平等性から考えて全く妥当な話です)

 

と、いうことなんですが……これ、著作権法の通りに委託業務を行っているJASRACがヘイトを受けて、肝心の本丸の著作権法が変わらないのと構造が全く一緒なんですよね。

 

ということで、きちんと知った上でテレビを買いましょうね、ですし、テレビを買うときには電気屋さんはちゃんとそこらへんを伝えて欲しいなぁと思ったのでした。

焼酎を割るのに適したノンアルコールビールのレポート

ノンアルコールビールは焼酎を割るのにいい」という話題を聴いてこれは試してみるしかないということになり、各社銘柄を揃えて割って飲み比べをするという非常に頭の悪い酒クズな会が催されましたのでレポートいたします。

 

まず焼酎はご存知下記の二銘柄。

宮崎本店 キンミヤ焼酎

眞露株式会社 JINRO

 

最初はキンミヤだけでいいかなって考えていたのですが、集まった面子的にこれはキンミヤのボトルは瞬殺だな……と思いJINROを買い足しました。この判断は結果的に正解。

 

ノンアルコールビールは下記の四銘柄。

アサヒ ドライゼロ

サントリー オールフリー

キリン 零ICHI

サッポロ 麦のくつろぎ

 

条件を対等にするのであればそれぞれの注ぐ量を均等にしてテイスティングすべきなんでしょうが、酒を飲んでるときにそんなこといちいち考えてのまないなということでどのように適当に割ってもいいルールになりました。

 

先に、焼酎について。こっちのほうが劇的に合う! という感想はなく、どれもキンミヤのほうがやや甘い、という当然の結果になりました。

 

さて、気になるそれぞれの銘柄でのレビューは下記の通りです。

 

・アサヒ ドライゼロ

甘い。どう考えてもビールとは程遠い。発泡酒とも違うもの。どちらかというとJINROと合わせたほうが甘さが抑えられて合うような気がする。

 

サントリー オールフリー

同じく甘いがアサヒほどではなく、アサヒをのんだときのややベタつくような甘さは抑えられている。それでも甘いことに代わりはない。

 

ここまででようやく缶に書かれた成分表示を読みまして、つまりは人工甘味料アセスルファムがこの甘さを生み出しているようだという感想となりました。

 

・キリン 零ICHI

ここでついに「甘くない!」という感想が出ました。零ICHIにはアセスルファムが使われておらず、甘さを感じさせそうな原材料は水あめ。

味わいはちょっとした発泡酒のようで、それまでの「甘いなんか炭酸のアルコール」とは違ったはっきりした感動を覚えたのでした。

 

そして最後に残ったサッポロです。

・サッポロ 麦のくつろぎ

こちらはアセスルファムが入っているにもかかわらず、商品のアピールポイントの通りフルーティーさが加わり、まるでベルギービールのような味わいに。ホワイトベルグヒューガルデンホワイトのような方向性を思わせます。これなら「そういうもの」として飲めそうです。

 

 

以上の通り4銘柄で比べたわけですが、結論としては「発泡酒とかホワイトベルグ買ったほうが安い」という身もふたもない結論となりました。

そりゃそうだ。

もともとホッピーの代替になるかと思って飲み比べをしてみたわけですが、ホッピーとは似て非なるものとなってしまいました。

 

しかし、ノンアルコールビールは上記の4種類のほかにも様々な銘柄が出ており(大手じゃないところも多くて非常に見つけづらいのですが)まだ可能性があるのがノンアルコールビール×焼酎と言えるのではないでしょうか。

 

言えなくてもいいかもしれない。

 

ちゃんとしたビールが飲みたいです。

 

最終的にキンミヤもJINROもボトルが空いてしまったのでウィルキンソンのジンを飲んで会は終了となりました。あるのか次回!

【感想】スガリさんの感想文はいつだって斜め上(平田駒)

 

スガリさんの感想文はいつだって斜め上 (5分シリーズ+)

スガリさんの感想文はいつだって斜め上 (5分シリーズ+)

 

 表紙がちょっと良かったので何回か見て買ったパターンです。たぶん四六判くらいの大きさだったかな……

5分シリーズ、と書かれていますが、文体は軽いものの五分で読めるお話ではないです。

 

高校生の女の子が書く読書感想文と、感想文にリンクした人情話が展開されるオムニバス形式の現代モノ小説です。「斜め上」と書かれているけれど、きちっとした読み込みがなされているので、突っ込み役の先生の精神的な幼さが際立ってしまいますが、他のキャラとの関連で考えて、キャラクターの置き所としてはこれでいいのでしょう。スガリさんの読みの深さが際立つところ。

 

似た種類のものとしては「金魚屋古書店」だったり「ビブリア古書堂」だったり、いわゆる本を紹介するお話、という感じですが、多くの人が知っているお話で構成されているので、この本によって新たな出会いがある、というよりは、知っている本の他人の読書感想文を読む、という感じです。

 

それなりの大きな本だったんですけど、中に入ってるエピソードは二つだったので、ちょっとライトな感じ。最近のweb小説の出版ものはこんなもんかなぁ。

荒木比奈が成長するほどに荒木比奈のPでいることに危機感を感じている話

私は荒木比奈のPである。

 

dic.pixiv.net

 

これは荒木比奈が苦手になってきたかも……という辛い話をする回なのだけど、あくまでnot for meになってきたかもしれない、というつもりで書いていきます。

で、それはとにかく自分との相性の問題なので、荒木比奈というキャラクターについての分析の記事だと思っていただけるのがありがたいです。

 

さて、荒木比奈に関わらず自分が好感を持ちやすいキャラは(それが実在か非実在かに関わらず)懐が広い、許容してくれそうなキャラであるという、多くの人にとって心底どうでもいい話をこのブログでも何回かしていると思います。

というわけで、比奈についてもその方向性で気に入りました。比奈はいわゆる「だめ」の側に属するキャラクターです。ですが自己評価は決して低くない。「非リア」に属しているけれど、前に進もうとはしている。

 

荒木比奈[N]から[N+]の各種テキストではそういうキャラクターに位置付けられていると読めるわけです。

 

これは比奈に限った話じゃないんですけど、シンデレラガールズのキャラクターって、後にリリースされるカードになるほど、キャラクターが成長したり、時間的に言うと後であると読み取れるようになっているんですね。

 

で、待望の最高レアリティ、SSR! が2種あるんですけど、それまでN→SRと成長した比奈はどうなっているか。

 

おう。比奈、プロデューサーのこと好き好きになってるな。

 

と。

 

どんどん、プロデューサーとの関係が親密になってるんです。SSR[シーサイドドリーム]なんて完全にプロデューサーとのデートの描写なので、なんかどっぷりなんです。仲がいいのは良いことだ。でもなんか、すごく依存度が高いと感じる。

 

Nカードのときには、アイドルになる前の日陰者からアイドルになろうとする努力、苦難。

SR[ブルーフロートパーティ]ではアイドルになってからのオフとオンの切り替え。

SR[夏の思い出]ではプライベートでプロデューサーと二人のようだけど、適切に距離感がある。信頼できる仕事のパートナーだ。

SSR[ネクスト☆ページ]ではプロデューサーとの気兼ねないプライベートと、アイドルとして高みをみている描写。

SR[always]では他のアイドルとの関係。

 

なんですけどSSR[シーサイドドリーム]では決定的なことがあって[シーサイドドリーム]ではアイドルとしての今後の話を全然してないんです。

 

完成しちゃってる。イベントSR[Needle Light]でも結構な割合、自身のアイドルとしての姿をすでに自分の物にしているんです。

 

それはいい。アイドルになった、それはいいけど、同時に「プロデューサーに依存している」描写が濃くなってる。それはまずい。上を目指す描写がなくて、誰かへの依存が高まると、それは致命的な停滞になりかねない。

私事なんですけど、自分も何度となく現実で経験があるんです。「今いる場所」が既得権になってて、それで「他人に依存を強めて」その場に停滞してしまう人。背中を押そうと思ったけれど、それを「思い切り甘えていいサイン」だと誤解してしまう人。

 

そういう怖さ、みたいなものを感じてしまったので「あ、荒木比奈のPでいることに危機感ある」ってなってしまったんです。もしこのまま荒木比奈の続発カードがプロデューサー好き好きに終始してしまったり、前に行くことを辞めてしまうと、担当する甲斐が消えてしまう。

 

 

ということで、感じたことを文字化してみました。次のカードはどうなるか注目したいと思います。

デレステのホーム画面はシーサイドドリームからもう少し手前のカードに変えておこうと思います。絵柄がブッスリ刺さるので「夏の思い出」あたりにしておこう。

コンサートでコントラバスの音が聴こえていないことはあまり問題ではないと思う話(転)

吹奏楽の演奏会に出ていると有難いことに「コントラバスの音、良かったよ!」と言われることがあります。

これは本当にありがたいことです。まずこれは先に置いておきますね。重ねて言います。コントラバスの音を褒められるのは本当に嬉しく思っています。いいですか。嬉しく思っていますよ。

 

ではここからの話します。

コントラバスの音、良かったと言われたとき大体半分以上の割合で「ほんまかいな」と思っています。

これは自分の技術について自信がないとか、謙遜しているとか、言ってくれた方が嘘をついているとかそういうことではなくて、実際それが聴こえているのかどうかっていうと奏者である自分には聴こえていないことの方が多いからです。

 

そもそも、弦楽器は管楽器に比べて楽器一本あたりの音量が絶対的に小さいです。吹奏楽コントラバスが入ることは珍しくはないのですが、楽譜で同じ音を演奏している他の楽器にはほとんど音量で負けます。

更に、吹奏楽の「バランス」では40人程度の団体でコントラバスはせいぜい1人、2人だと多いな(他増やしたほうがよくない?)みたいな話になります。バランスの差を覆せない。6人くらいコントラバスがステージに乗ってる吹奏楽団とかないと思うんですよね。練習場でも邪魔過ぎる。

ともかく、結果として、コントラバスは低音の響き増強やピチカートの限定的な音色で重宝はされるんですが、活躍の機会はまぁそんなに多くない楽器なんです。(別にディスってるわけではないんですよ本当に)

 

そんな環境なので、演奏会なんかに出ていても自分の音がちゃんと聴こえるぞいってことは殆どないんです。これは自分の技術的なこともあるのであくまで主観で話をしてますよと注意を入れておきますが本当に聴こえてないです。

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じゃあお前何もわかってないんかいっていうと「あ、いま自分の出してる音間違ってたな」ってのはすごくよくわかります。理由は楽器の反応が重くなるからです。周りで鳴っている音の周波数と相性の良くない音は楽器からの反応として返ってくるので、音はほとんど聞こえてないですが「今自分間違ったな」ってのは判ります。弦を押さえ弓を持ってる腕の側でわかる。

 

そんなわけで当事者である自分からして自分の楽器の音が聴こえていないので、「ここは本当にいなくてもいいのでは?」とか思っているわけなんです。それでもコントラバス要るよ、コントラバスよかったよって言ってもらえちゃったりする。正直に言うと

 

ちょっと暗示的な要素があるのでは?

 

と思っていたりします。

でもそれでいいんじゃないか、というかそれこそが重要なんじゃないか、と思っています。コントラバスを演奏し始めて10年以上たったわけですが、その間ずっと「ヴィジュアル担当(楽器が見えていることが一番大きな役割)」と言い続けていました。

 

それ自体は皮肉みたいなものなんですが、でもたとえば。視覚を隠してテイスティングすると、何食ってるんだかわからなくなることはバラエティ番組なんかでよくある話だと思います。透明なミルクティーに違和感があったり、とにもかくにも視覚を持っている人にとって認識の最大の装置が視覚であるからには、味だって音だって皮膚感覚だって、とにかく視覚の影響を受けているはずなんです。

 

ってことはコントラバスだって耳で聞いているもの以上に目でみているものが聴くという行為にとって重要なんじゃないかと思うんです。「演奏会を現場で聴く」という行為はかなりの量、視覚の分野に頼っている。もしも聴覚だけで済むのであれば弦楽器における「弓順を揃える」とかは一番最初に無視すべきことだと思うんですよ。(音型を揃えるって話はありますけれども)

だから、コントラバスを聴いているときも結構な割合、視覚的なことに頼っていると思うし、それが普通なんだと思うんです。意識してやってることじゃないけど、コントラバスを目で聴いている。

 

それでいいんじゃないかと思うんですね。聴いて何をしているのかというと「満足」をするためにお客さんは来ているんだと思うわけで、その得点を最大にするためならどんなことだってやろうと思う。

たとえばチタンのネックレスつけるとすごく運動能力が上がるらしいって聞くと「ほんまかいな」って考える人もいると思うんです。でも大事なのは「本人マジでそれでタイム縮んだらしい」とか「それで本人めっちゃやる気出てるらしい」っていう「効用」のほうであって、科学的なことは二番目である。

だからコントラバスの音が実質的に聴こえているのかどうか、というのは、中心ではなくて「聴こえた感じになる」ふるまいを演奏会でするのが大事だと思っているのです。そのためには音にならないようなフレーズをしたり顔で演奏したり、実は練習不足なんだけど隣の人ととにかく弓順だけでも揃えようとする。

そうすると「いい感じのコントラバスの音が聴こえた感じになる」のなら、それはもう目指すしかないことだと思うのです。

 

この話を書こうかなって思ったのは、コントラバスオカルトみたいなものが否定されうるのを何度か見るからです。たとえば、楽器倒す方向はどっちでもいいよとか寝かしてもいいとか、楽器の前が客席側を向いてても聴こえにあまりいい影響はないよとか。

いや、いいと思うんですよね。それはそうなんだと思う。(理由も調べたときに同じものが出てきたり出てこなかったりする)でもこのお作法を無視したとき、たぶん聴きに来た人の満足度は下がると思うんです。楽器を置くときに倒す方向は決まっているらしい、ということを知っている人が演奏会見てて、その知識に反するものを観たとする。

そのあと「いや、楽器倒す方向って別にどっちでもいいんだよね」とか奏者から言われたら「なるほどなー、そうなんだなー」とは思ってもらえると思う。

 

でも一方で「コントラバスの音、よく聞こえたよ!」って言ってもらえなくなると思うんですよね。理由は目で聴くの邪魔しちゃってるから。

 

コントラバスを例にとってはいるんですけど、こういう楽器についての色々ってプロの方が言うものとか、科学的に正しいこととか沢山あるんですけども「どういう満足を得たか」というのを評価指標にするしかないので、特に人に評価される芸術である限り、守破離の「破」をするには相当の説得力がないといけないんじゃないかな、と思うわけです。

 

なので、コントラバスの音が聴こえていないことはあまり問題だと思っていなくて、聴こえてるよって言ってもらっても本人には実感がないので「ほんまかいな」と思っているのですが、コントラバスが良く聞こえたよ、と言ってもらえることは(冒頭で繰り返した通り!)嬉しくありがたいことですので、その「効果」を最大にすることは重要視したいし、物理・科学的に正しくても、オカルトのほうが「効果」が高いならそっちを選びたいなー、と思っているのでした。

令和も雰囲気で、コントラバス