paper-view

ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

今、社会学(と社会派)なんて黙ってたほうがいいんじゃないと思った話

wikipediaによると社会学のステージ2が終戦以降だそうです。

 

ja.wikipedia.org

 

ステージ1とステージ2には方向性に隔たりがあるようで、まぁひとまず「終戦後」に現代の日本の社会学に繋がる社会学の萌芽があったということでしょうか。へぇー。

 

別に終戦までさかのぼる必要はなかったんですが、結局のところ社会学、というのは多かれ少なかれ、時代に対して客観視するという要素があると思うのです。

 

客観視は、覚めないとできないと思います。ゆえに他者からはちょっとニヒルに見えることもあるし、あまりに血肉がなさすぎて冷徹やひねくれに見えることもあるし、だもんで、社会学だったり、または社会派みたいなものはどうやったって世の中に対してちょっとした毒素みたいなものを提供すると思うんです。

 

酢が毒でもあるように、毒のあるものって世の中には一定量あっていい、あったほうがいい、あることによって得られる効果があるものだと思うのです。

それは嗜好品みたいに肉体的にはよろしくないものでも、精神的には効果があるものだったり、日本のコメディアンにおけるいじりみたいなものだったりする。その中に社会学、社会派みたいな「いまあるもの」「これまであったもの」に何らか異を唱えたり違う視点を出したりするものもある。

 

でもそういうのって世の中に毒が少ない状態だから成立するんですよね。終戦からこっち、少なくとも日本において世の中全体が個々の死を意識するような社会状況ってそうそうなかったんじゃないかと思うんです。災害ですら局地的だったわけだし。

 

今まさに戦争状態だ、というようになってしまうと、正直社会学なんかやってる場合じゃねえと思うんです。その時にはもっと、生きるための知識だったり勝つための知識だったりが必要になる。(そこに社会学が役に立つか立たないかは別です)

 

コロナウィルスによってもう1年以上強めに抑圧された日々が続いてるわけですが、そういうときに社会学(社会派)の人がそういう発言とかしたところで正直なところ、毒が過多じゃないかななんて思ったわけです。もともと冷遇されてしかるべきだったとはいえ、各種社会派の発言に対する風当たりは昨今、より厳しい。

 

社会派なんて、社会派発言をしなきゃそのアイデンティティが危うくなるので、社会派を捨てられなきゃ毒を吐き続けるしかないのかもしれませんが、正直、なかなか厳しい道なのではないかなぁ、なんて思うし、フェミニストなどなどがより強めに燃えてるのを観ると、今の時代は社会学や社会派にとってとても大きな材料ではあるだろうけれど、それをすぐお金に転換したりしないなら、黙って研究を続けるのがいいのではないのかなぁ、などと思うのでした。