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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

映画小説漫画の話 160911

先に雑談を。

なにかキャラクターを使って二次創作をする場合「このキャラはこれを言わないだろう」ということは絶対にしないようにしているんですが、最近デレマス(デレステ)でいっちょやってみるかいと挑戦したらまぁこれが難しいこと。

恐らくですけど、このデレマスの世界はキャラごとに考えたらそんなにテキスト量が多くない。そんでその代わりにファンサブが滅茶苦茶多い。そしてそのファンサブと本筋が相互に影響しながら現在がある。

から、どう読みこんでも正解がないような気がするし、一方でなにやってもいいような気がする。

つまり「寄るべきところ」が見つけられない、自分が寄るべきところにならなきゃいけないっていうのが難しいところなのです。大変だこれ。

ということで、もうちょいファンサブ見ていかないといけないのかな、と思ったのでした。

 

それと関係してですが、年末の冬コミの頃を狙って色々と動きがみせられたらいいなぁ、と思っています。まだ余裕あるように見えて、実は3~4くらいの企画に同時に乗っかっているので、おそらく後で大変なことになると思います。

自分は集中力が続かないので、こうやって細かい活動をたくさんしている方が性に合っているのかもしれないなぁ。

 

 

・三匹のおっさん(小説) 

三匹のおっさん ふたたび (新潮文庫)

三匹のおっさん ふたたび (新潮文庫)

 

 先日閉店間際のブックオフでいっぱい買ったらセールになるってんで買ったうちの一冊です。これと一緒に「レインツリーの国」も買ってて、そっちはまぁ滅茶苦茶甘くて楽しいけど辛いなみたいな感じだったんですよ。

で、こちらはおっさんたちの勧善懲悪みたいな感じで、痛快なお話! と思いきや途中から急に高校生カップルが出てき始めて「!?」となったのでした。お話はとても面白いです。テンポのよさ、キャラクターのよさ、さすがだなぁ。

 

・この闇と光

この闇と光 (角川文庫)

この闇と光 (角川文庫)

 

 トリックのあるお話だということが帯で明示されていたとき「よっしゃあ見抜いたるかい!」とは思わずにとりあえずすーっと読んでしまうわけですが、それの中であーひょっとしてこういうことかなー、って思いついたりはするよね。

独特の空気感があって面白い小説だったんですけども、でもこういうのってやっぱり帯やポップでそんなにトリックあるよっていうことを匂わせないほうが楽しめると思う。

でもトリックあるよって伝えないと自分も手に取らないだろうからジレンマよね。

 

・ここはボツコニアン

ここはボツコニアン 1 (集英社文庫)

ここはボツコニアン 1 (集英社文庫)

 

気になっていたけど文庫版まで手に取らなかった本。この文体で読みやすいのはさすが宮部みゆき先生ならではだけど、続きを読みたいとは思うことができなかった。どうしてかなぁ。テンションについていけなかったのかもしれない。

 

煩悩寺

 秋★枝先生作家買いをしようキャンペーン。ということで読んでいたのですが、キャラクター造形にパターンがあるのがこの人の漫画ですよね。さくさく読めた。「恋は光」がなんとなくダレてしまっている感じになってきてるので、このくらいの長さのほうがまとまる方なのかもしれない。

 

・虚構推理

虚構推理(1) (月刊少年マガジンコミックス)

虚構推理(1) (月刊少年マガジンコミックス)

 

 4巻まで。面白いんだけどなかなか話が動かない! あとミステリーとはちょっと違う。「推理」ってついてるけど推理ものではない。キャラや人間関係はとっても面白いんですけども、もうちょいテンポがよかったら嬉しいんだけどな。

 

昭和元禄落語心中(完結)

昭和元禄落語心中(10)<完> (KCx)

昭和元禄落語心中(10)<完> (KCx)

 

終わってしまった。この漫画を読みながら最終的に思っていたことは「落語」がどんな位置にあるかっていうことで、自分としては、だけれども、お話の中心でありながら落語自体は脇に置いてあったと思う。

つまり「落語」そのものそれぞれにストーリーがあるけれど、この漫画自体もストーリーなので、劇中で描かれる「落語」は、それ自体が主になってしまわないようにちゃんと脇に置かれている感じ。

自分は落語に詳しいほうではないので、落語が好きな人からしたらこのあたりはどうなのかな、というのは気になるところ。

 

君の名は。

www.kiminona.com

 

実は新海誠監督の映画はほとんど見ていると思うんです。ほしのこえ雲のむこう、約束の場所秒速5センチメートル星を追う子ども言の葉の庭、と観てきました。

今まさにいろいろ盛り上がってるところだと思うんでいろいろ言うのはあれかなーと思うんですが、自分は「ああーよかったなぁ」って思うんですよね。

とりあえず今はこれだけにしとこう。難しいことを考えたりせず、そのまま観ることがよい映画だと思います。作家性、みたいなことを見る側が意識すると途端に面倒な問題がいっぱいついてきちゃうからね。

料理は音楽だという話

理系の料理っつう本が出ているようです。

 

こんなん。

 

チューブ生姜適量ではなくて1cmがいい人の理系の料理

チューブ生姜適量ではなくて1cmがいい人の理系の料理

 

 

実家でてから5年、自分もメシテロができるくらいには自炊ができるようになって思うんですけど、この思想は判らないでもないが、根本的にずれていると思う。

 

料理に関して「どんくらいがいいのか」についてを細かく求めたがるっていうのは、ひとえに「失敗したくない」という思考から来てるんじゃないか、と思うんですよ。

もっと言いますと「この一回の試行」で成功を収めようとしているというわけ。一回の試行で確実に美味い料理を作ろうとすると、この加減に対する具体的数値を求める思考はどうしても必要になると思う。

 

これがまず一番の間違いだと思います。レシピが曖昧に表現されている一番の醍醐味は、十回作れば十回別の味で出来上がってくるぶれに意味があるからです。作るたびに同じ味が再現されるのって、ちょっと気味悪いと思いませんか。

 

んでタイトルの料理は音楽だという話に戻りましてなんでそんなことをしたかというと、自分の身の回りには音楽やる人が多いから例えがわかりやすいかなと思ったということでして。

たとえば管楽器でフォルテと表記されたときに、それが具体的な肺活量でミリリットル表記に置き換えられてなんて決してないわけです。昨日のメゾフォルテより弱く小さいかもしれないし、明日のフォルテッシモより大きく強いかもしれない。

じゃあ音楽やってるときにそれをどうやって安定感のあるいい演奏にまとめていくか、っていうと、それは技術力と練習回数で補うわけじゃないですか。「このくらい」を身に着けるということで。

なので、音楽における楽譜も、一回で意図した結果をもたらそうなんて設計にはなっていないわけです。その楽譜の反復か、もしくはそれ以前に培われた膨大な類似の経験をもとに完成に近づけるような設計になっている。

 

で、料理におけるレシピが同じ理屈。

強火か? 弱火か? 少々とは? 適量とは? というのは、結局のところそのレシピの試行回数を重ねるか、もしくはそれまでの経験に裏打ちされてようやく出てくるものであって。さらに言えば、動植物のような量や形の変わるものを基本的に相手にするものなのであって。同じしょうゆといえどメーカーによって濃さや風味など全然違うものになるのであって。

 

だから、きっちり量を書くことに意味が殆どないわけなんです。

 

それでも完成度が高いならそのレシピのほうがいいじゃん。という場合。

同じものしかできないってのはコンビニ惣菜といっしょです。音楽で言えば「生演奏だぜ!」つってCD流す感じ。

 

よって、上記のような感じのきっちりレシピを求める方にはお伝えしたい。

「その料理、試行回数重ねるおつもり、あります?」と。

「あるんなら、試行回数重ねるほうが近道ですよ」と。

 

食材を無駄にしてしまうのはもったいなく感じるかもしれませんけども、とはいえ料理は人類のなかで二番目に普遍的なクリエイティブ行為だと思いますので、五感に何らかのエラーがなければ「やればできる」ものだと思います。

理系のレシピいいなあ、って思った方はこの機会にぜひ一度「試行回数重ねるつもりがあるか」を考えてみていただければ。あるなら、失敗したほうが早いです。たぶんね。

らしさの話

A「どうしたの、今日は君らしくないね」

 

と言われた場合、いろいろな人間関係があると思うんですけど、この場合自分的にはひとつ腑に落ちないことがあって、この発言者Aさんは「君らしくない」と評価している本人を目のまえにして、それが君ではないと評価してるんですよ。

 

いや、わかるんですよ、それが「今日は元気がないね」とか「調子わるいのかな」の換言だということは。それは人間関係の問題だから。

しかし字面だけみると、どうあってもオリジナルである「君」の側が主であって、それが偽物でもないかぎりはそこにある主体をもとに「君らしさ」を修正するほうが筋が通ってると思うんですよ。今までみた「君」に対して新しい情報が出てきたわけだから、それに合わせて「君」観を変えることこそが必要なんじゃあないのか。

「君らしくない」んじゃなくてAさんの「君らしさ」が実態とずれてたんじゃないか。もしくは今ずれたんじゃないのか。

 

なんでそんな話をしているかっつーと、上のような話は作品とその鑑賞者の間で往々にして行われるからです。

最近では多数の作品とファンをを持つ「シン・ゴジラ庵野監督、それから「君の名は」新海誠監督とその作品。

それら作品がそれぞれの監督「らしいか」「らしくないか」って結構言われるのを目にするんですけど、いや、別の人が作ったわけじゃないから、観ているこちらとしてはそれがその監督の作品のひとつであると考えたうえで、それぞれの監督観のほうを修正していくべきなんじゃあないんでしょうか。

 

と、僕なんかは思うわけでして。なにせ、作品の作り手とは人間関係がない場合が殆どなので、いままでと系譜の違う作品が出た場合は「この作品はいままでとちょっとずれててらしくないなぁ」と思うよりかは「これがでてきたってことは、この人はこういう人なのかもしれないな」なんて考えるんですよね。それが妥当なみかたかどうかは判りませんけどもね。

ラブライブ!サンシャイン!! 第9話 未熟DREAMERの話 寿司で

アニメ単話について書くことは普段ほとんどしないわけですが、これについては書くことにしましょう。

 

いや、すごかったですね、未熟DREAMER。自分も見ながら涙してたんですけど、TLの号泣とかなまりの高まりといったらなかった。みごとなかなまり沼だった。ずぶずぶ。

 

しかしですよ。なんかひっかかるなと思ってもう一回見たんですよ録画を。結局録画でも涙しながら観てたんですけど。

 

以下内容のネタバレもありますのでよろしくです。

 

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あんまりゲームしたいと思わなくなってしまった話

最近ふと、あんまりゲームしたいと思わなくなったな、と感じました。

 

たとえばファイナルファンタジーは12で止まってしまった。

ドラゴンクエストは9をとりあえずクリアするところまでで止まった。

その他の、いわゆる大型タイトルなんかもプレイせずに止まっていて、これからやりたい! という風にも思っていないのが正直なところの現状。

 

んではゲームしてないか!? っていうとこれがしてるんですよ。

グランブルーファンタジーだったり。

アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージだったり。(正式名称長いな……)

ポケモンGOもそれなりに。

気になっているのはシャドウバースとか。

 

つまりこれは何か?

というとこれ、単純に『周りで誰がやっているか』と言うことだったのでした。

身の回りにやっている人が一定数を超えればやってみたい。そうでなければやってみたくない。単純な話だった。

 

そんで、それはたぶん過去でもそんなに差はなかった。いや、面白い、面白そうだ、で誰が遊んでいるでもなくやってみたことは確かにあったし、今でもそういうことはある。

しかし逆に考えてみる。子供のころの自分が、誰もあそんでいないアドバンスド大戦略とか一生懸命遊んだだろうか?

エルファリアとか誰も知らないようなRPGを一生懸命遊んだだろうか?

 

いやー結構確率低いと思うんですよね。なぜなら誰とも共通の話題にならないからね。

 

で、考えたのは、大人になったらあんまりゲームしたいと思わなくなってしまったけれど、それはゲームに対する欲求がどうこうなった、というよりは、単純に周りが共有しているエンタメの種類が増えたり、もしくはエンタメに費やせる時間が減った、単純にそういうことなんだと。

 

ではいっしょうけんめいそれでもゲームをやるのか?

ということをちょっと悩んだんだけど、たぶん、やらない。そこまでの時間が割けないし、ほかの遊びに時間を割きたい。

 

そういうわけで、ゲームをやらなくなったことの説明が自分なりにはついたけれど、それでもなんとなく物寂しさは感じるのでした。

オフセットで同人誌を作るようになってから一年経った話

コミケ90お疲れ様でした。

ラブライブイズ!研究会でコミケ出典してまいりました。

 

ラブライブイズ! 研究会

 

一年前くらいに、ひょんなことから始めた活動だったんですけども、みんなのチカラを借りてなんとか2冊目のオフセット同人誌を出すに至りました。

 

そう、みんなのチカラを借りたわけなのです。

 

自分と言う人間は基本的に、誰かのチカラを借りるのに躊躇しない人間なんだと思います。それがいいことか悪いことかは、評価によって難しい。自分が不得意なことはやらないと決めてしまっていることでもあるから。

一方で、こういう「なんか作るぞ」という場面ではプラスに働く性質なんだと思います。みんなのチカラを借りれば、ひとりじゃできないこと、難しいこともできるわけで。

同人誌作るってのに、僕は絵も描けなければイラレのデータも作れないんですよ。企画と本文とスケジュール管理と経理っていう。比較的誰でも「できそうな感じ」の仕事っていうか。

きっちりやらせてもらっているという自負はあるんですけど、ときどき、げんしけん(初代)に出てきてた口だけ出す人の姿がよぎる。

慢心しないように頑張ろう。

 

それはともかくとして、やっぱり出来上がったものを手に取るのはいいもので、今回も大変でありつつも楽しい作業達だったなと思います。付き合ってくれたみんなありがとう。

 

 

欲望をかなえようよ、という話。

ラブライブイズ!」は仲間内がtwitterでしていたちょっとした話を拾い上げて、整えて実現させたんですけど、なかなかみんなこういうことはしないらしい。

以前に友人から「仕組みを作る」というのは特殊能力みたいに言ってもらって、自分はただできるだろうと思って整えてたんですけど、思ったよりも特殊能力なのかもしれない。

でも言われてみればGAMEバンドも、ぽつっと出たことばから整えまくって実現させて現在に至るわけで。

それなら、自分はできるだけ誰かの欲望をかなえたいなと思っています。持ってる能力は使いたい。

自分もできるだけ欲望を叶えるけども。

 

ファンアートってすごいな、という話。

昨年夏だったり昨年冬のコミケでは自分のブースからあまり動かなかったんですけども、今年はせっかくなのでほかの人のお手伝いで壁サークルの買い物とか行ったりしてました。

作る側も買う側もエネルギーがすごい。

ファンアートをどうとらえるかはいろいろ難しい話だと思うんですけども、やっぱりそれはコミュニケーションのひとつの形だし、コミュニケーションは楽しい。

 

マネジメントの話。

一方で物をつくる、人を動かす、お金を動かす、はそれ自体がファンアートとは別に楽しいことであり同時に辛いことでもあり。単純に好きだというエネルギーでファンアートをするにはちょっと不純物っぽいところはあるけれど、自分としてはこれもしっかり見据えてみたいなと思い続けるのでした。

 

ということで、ちょっと呪いみたいな魅惑ではあるけれど、やっぱりものづくりは楽しいです。今後も作るぞー!

似たようなことを一年前にも書いてた。

映画の話「シン・ゴジラ」(できるだけネタバレしない)

シン・ゴジラを観ました。

 

www.shin-godzilla.jp

 

8/1に観たのですが、観ている最中から映像中の情報量の多さにオーバーフロー状態になって、終了後も興奮の冷めることのないまま映画館を後にしました。

映画でこんなふうになるのはそうそうなかったと思います。

 

既にいろんなサイトでいろんなことが言われているのですが、自分としてはどうやってこの興奮を説明すればいいだろうか……ということをずっと考えておりまして、考えた結果8/12にもっかい観ました。二回目もよかった……

 

さて、ストーリー上のネタバレしないようにこの映画のなにがすごいかを話そうと思いまして、そのために存在しない(少なくともgoogleでは一致結果がない)語をつくっておくことにしました。

 

シン・ゴジラの魅力は「映像的機能美」である、という風に説明してみたいと思います。語をひっくり返して「機能美的映像美」でもいいです。

 

「機能美」という言葉は、僕はこれがスターオーシャン1(SFC:1996年)に平仮名でパラメーターとして出たときから好きな言葉なんですけれども、道具など、用途のための形態や構造を追求した結果現れてくる美しさ、といったようなものです。

ざっくりとした言いかたをすれば「工場萌え」の美的感覚なんかはこの分類だと思います。

 

この「機能美」に注目して「シン・ゴジラ」の映像を観ていくと、なんと一つ一つの映像中の要素の浮かび上がりが美しいことか。

映画やアニメ等の映像を観ていて時折「おっ、今のところカッコいいな」って思う瞬間はときどきあると思うんです。動画が滑らかだとか、アングルがいいとか、音楽とマッチしてるとか。

それが一つでも観れたとき、その映像全体の評価ってほぼプラスに落ち着くと思うんです。たとえば物語ががったがただったとしても、ひとつでもめちゃくちゃカッコイイ映像があったとしたら、加点法では「観てよかった」になる。

 

全編にわたってこの映像がかっこいいのがシン・ゴジラだと思います。

 

単純に映像が美麗だということではなくて、たとえばゴジラが映るシーンではゴジラがいかに大きく/美しく/恐ろしく映るかが追求されている。

道具、人間も同様です。物語中の細かい要素を説明するための映像イメージですら、それがかっこよく映るであろう工夫が尽くされています。たとえば、破壊された跡を説明するだけなら瓦礫を映せばいい。それだけで破壊されたという物語性は説明はできます。でも、その瓦礫をどのようなアングルと、どのようなBGMと併せて伝えれば、感情を最大限煽ることができるか、でその効果が異なってくる。

岡田斗司夫氏が同じこと言ってたらしいですが、コピー機ですらかっこよく撮られています。とにかく映される全部のものがかっこよく撮られている。

 

その中で是非意識して観てもらいたいな! というのが「会議」です。シン・ゴジラ中で行われる「会議」は、そのどれもが絶妙なテンポ感を持って描かれています。セリフのやりとりとその意味するところよりも、そのセリフ自体の情報量の多さに対しての時間の短さ、選ばれる語の複雑さ、セリフとセリフのあいだの間。

シン・ゴジラ中では会議を絶妙なスピードと情報量による「音楽」のようにして表すことで、会議そのものを「カッコいい映像」として描き出して、事態とそれに対応する人々のカッコよさを最大化しようとしている。

似ているものはスティーブジョブズに代表される「プレゼン」の技術ではないでしょうか。

 

さらに意識して観てもらいたいな! というのが「組織」です。組織は映像として実態が映るというものではなく、その構成要素である人だったりモノだったりを映すしかない。物語中かなり前半で、この「組織」については肯定的な発言がされていて「手続き」のプロセス、まさに組織としての「機能美」が映像で描き出されているんです。

 

恐らくですけど、この映像的機能美を感じるためには、それなりに素養が必要なように思います。たぶん普段から映像に慣れ親しんでいる人は、親しんでいるほど映像上の要素の多さを感じて楽しめるだろうと思うし、逆に子どもとか、まだ文脈を感じ取る力が未発達だったりすると、最大限の楽しみは難しいかもしれない。

(蛇足をすると、だから読解力の段階によって異なる感動をどの段階にも与えてくる宮崎駿監督映画って恐ろしいなって思うんですけど)

 

ということで、シン・ゴジラのお薦めポイントは「映像的機能美」ですよ、ということをお伝えしたいと思います。

ぜひ劇場で観よう!