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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

こどもを殴れる人の話

ベビーカーが邪魔だと一歳のお子さんを殴った64歳男性が逮捕された話なんですけども。

一応先に口酸っぱく言っておきますと、そういうことを認めようだとか、赦そうとかそういうことでは一切ありませんのでご了承ください。

 

色んな事が起こる世の中ですが、ある程度の閾値を超えたあたりで出てくるのが「頭がおかしい」という感想で、この件もそういった意見が散見されたようです。

誰かにとって理解の範疇を超えたり、ちょっと受け入れがたいことが起こった場合、それぞれがどういう反応をするかは一定の方向性があって、そういう風にすごく怒る人→「あたまがおかしいんじゃないのか」、一部に理解できるポイントを置こうとする人→「ベビーカーが邪魔なのはわかる」「○○という条件ならともかく」、何らかの憶測を積極的に挟んでいく人→「外国人なのではないか」「きっと○○だったのだろうな」などなど。

 

問題としてこの人が頭がおかしいか? となると、たぶんそうではなくて、おそらく至極冷静に判断したうえで「殴れる」と判断していると思うんですよね。その思考過程がどうか、自分たちと同じか、ということは別としても。

 

何故か、というと、こと自分のコミュニティと関わらない場合、自分と関わりのないコミュニティの子どもを守る理由はものすごく下がるからです。

とはいえ「子どもは守るべきもの」だと思われる方も多いと思いますが、そこら辺は特段歴史的にはそうじゃなかったよと簡単に書いておきます。現代に「子どもは守るべきもの」という意識が支配的であることは論を待ちませんが、ここでは「でも子どもを殴れるヤツ」をどうするかという話ですので。

 

こういう人たちをどう見るか、ですけども「殴れる」と判断したきっかけは何か、を考えていきたい。殴ることによって解消されるイライラが、殴ることによって予測されたデメリットを上回ったと考えていきたいのです。

 

・反撃される恐れがない

・収入に影響が少ない(件の逮捕者は無職でした)

・社会的評価に影響が少ない

 

とか。

「殴られない」「殴らせない」社会を作るためにはこの事項に対するデメリットをどんどん増大していくとよいです。

反撃される恐れがない、というのはスタンド使いでもない子どもには難しい要件なので、収入や社会的評価の影響を大きくする必要があります。

けど、この人は無職なのです。あー。

そして社会的評価ですけれども、たぶんこういう人たちの多くはコミュニティに属していません。あー。

 

じゃあ入れればいいんです。これが結局のところ「社会化」というやつです。けど、それはあんまり一般的に歓迎されません。結果としていわゆる「ゲットー」みたいな形になっちゃうわけで。日本ではこういう意識は希薄ですが、でも如実に起こっている事でもあります。

 

一時期話題になったのが「無敵の人」という表現で、結局のところこういう、大部分の人がとてもじゃないけどできないことをやるのは「無敵の人」であると自分も思っています。

外を歩いていて子どもが殴られるような被害を減らす、かつ社会階層が混ざったままの状態を保つ、層で分化させないなら、実質的にこういう人たちを受け入れて、一緒に生きて、仲良くしていくしかないんじゃないのかなぁ、と思っているのでした。