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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

映画「すずめの戸締まり」感想と怪異に関すること

新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」を公開日に観ることができました。

suzume-tojimari-movie.jp

 

新海誠監督の作品は「雲の向こう、約束の場所」から観て「ほしのこえ」「秒速5センチメートル」と進み、それから「星を追う子ども」「彼女と彼女の猫」「言の葉の庭」あたりまで観たころに友人に教えてもらい初期の映像作品(PCゲームのムービー等)を観て、それから劇場で広く公開されてきたものを観て来ています。

 

今作も非常に楽しみました。前作「天気の子」が非常にわかりやすくライトノベル的、ノベルゲーム的な作品だった一方、今作は「君の名は。」的なすこしふしぎエンタメ性があり、かつ監督自身のライフステージの進行に伴う精神的変化ともとれる視野の動きがあり、しかし監督の趣味と思われるこれまでの作品のエッセンスも多量に含んだ、二時間としてはボリュームに富んだ、富みすぎた作品だったと思います。

 

以下ネタバレあり。

 

怪異伝奇、ロードムービー、震災、時間SF、王子と姫、廃墟萌え、人情といった大量の要素をこれでもかとつめこみ、そのうえで映像的な盛り上がりも手に入れつつ、どれかが物足りないなという感想にはならない、恐ろしく情報量過多でありながら視聴体験は破綻しない超絶技巧のバランスだったと思います。

作品開始からものの数分で主役の男女が出会いを果たし、速攻で学校生活をブッチした時点で「これは相当詰め込んでくる気だぞ」という覚悟を持って観ることになりました。これまではそれなりに時間をかけて「事件が起こる前の日常」が描かれていたところ、すぐに事件が起こり、すぐにスタート地点の宮崎を出る。これまでの作品群の中でも相当なスピード感ではないでしょうか。ロードムービーだと思えばまぁそうか、というところですが、それにしても展開が早い。

見始めたときは「さて今回はどのくらい電車が出てくるかな?」とひそかに期待していました。監督の映画ではまぁとにかく電車が出てきて、特に東京駅、中央線の辺りはもうこれが描きたくて描きたくて仕方ないんだろうなというところで、しかし一方ティザーには殆ど登場しなかったので気になっていたのです。「星を追う子ども」みたいに殆ど乗り物出てこない映画もあるにはあるし。

そしたらまぁ出るわ出るわ、電車どころか地方から都心まで飛行機以外のあらゆる移動手段出てきたんじゃないですか。のりものずかんかこれ。

最初から「震災」の臭いを見せていたにもかかわらず、終着点が東北になる事になかなか気づけなかったのは我ながら迂闊が過ぎました。また、きっちりと「全ての時間が同じところに」のように言われていたにもかかわらず、扉の向こうの世界でのすずめの出会いにも気づけなかった。ひとえにわかりやすく目の前で振られていた「草太さんが要石に」というハンカチに気を取られ過ぎてわかりやすくミスディレクションに引っかかってしまった。たのしい。

一時期は、新海誠監督、細田守監督、庵野秀明監督で「誰がポスト宮崎駿監督か」みたいな話があったように記憶していますが、いま映画の対象としてどこを観ているかということと、脚本力という意味では新海誠監督が最もそのポジションに近いような気がしています。これは作品が誰に深く刺さるかどうかとは別に、その層に訴えかけるパワーがあるなということです。映画上映前の新作紹介映像、殆どアニメ映画がなかった。

 

総合的に非常に面白かったです。こんなにも理路整然とやられたら舌を巻くしかない。恐ろしく理性的な脚本だった。それでいてもともと綺麗な映像を作るのだから、材料がそろいすぎている。

 

一方で、自分の感覚では新海誠監督が描く「怪異」にはとても奇妙なものを感じています。これは前回「天気の子」そしてそれより以前の「星を追う子ども」でも感じたものだったのですが、今回でよりクリアに言語化できるような気がするので挑戦してみましょう。

短く言うと「新海誠監督の描く怪異は展開都合が先行しており、基盤とずれが生じている」。つまり今作で言う「大ミミズ」も、前作で言う「巫女伝承」も作品のために設定された装置としては、その周りを固める情報が弱いと感じるのです。にもかかわらず、作品中に使用する美術的な道具として「日本の風景」を多用するもんだから「作品の中にしか存在しない/引用元を持たない」神様になってしまって、そこがどうにも宙ぶらりんに感じてしまう。もしくは、それを自然にやってしまう宮崎監督の映画を観すぎていて必要以上に自分にアンテナが立ってしまっている。

最初に自然と超自然的なもの=神があって、神々と折り合いをつけて、あるいは征服をして人々が土地に生活を根差した、そういう順でなく、既に人々が生活しているところにぽっと出の神様が出てくると、その神のバックボーンとか他の神との兼ね合いとかそういうところが気になってしまう。ちょっとした妖怪程度で済ますには作品中で起こることの規模がデカい。

 

「廃墟」を使用したのには「ネットロア」的なイメージがあって、こちらは現代になって新たに表れた怪異だと思うんですが、これらはもっと局地的だったり、空間的な隔離があったり、なんというか土地全体と結びつく神とは別のところで共存できていると思うんですね。きさらぎ駅が存在していても既存の神と制空権がぶつからない。

ここの部分に関しては、新海誠監督が書く脚本と「アニメ」という媒体との相性の悪さかな、と感じています。新海誠監督の脚本は(当然ながら)ジュブナイルラノベをしている。もしくはノベルゲームをしている。

00年代のノベルゲームに自分が触れたのは10年代に入ってからなのですが、演出だったり叙述トリックだったりが非常に研ぎ澄まされていて「自分でページを繰る」というノベルゲームのプレイ感覚に合わせて作られた体験は無二の感動をくれます。ですが、ノベルゲームは一方で「スケールが広いこと」をやるのには不向きだろう、と感じています。どうしても作中で視野が広がったときのことを読者に任せることしかできない。

その代わりにノベルゲームの脚本では「いや、それが起こったら主人公たちはドラマティックになるけど世界はてんやわんやでしょ」という展開でも比較的簡単にさしはさむことができる。いわゆる「セカイ系」を成立させやすい。

それがアニメになってしまうと、どうしても主人公たちの視点、もしくは読者の視点以上に引いたカメラでの描写を「しなくてはならない」ので、そのリアリティに嫌でも引っ張られます。だから、世界を揺るがす怪異レベルの事のバックグラウンドが、目に移ってくる世界とミスマッチしているとものすごく気になる。

これと同じことは八目迷さんのライトノベル著作と、そのアニメ映画とを観ても感じていました。

 

でも、新海誠監督は恐らくこの日本の風景(とか乗り物とか)を描きたいのだろうし、それでいてノベルゲーム的な脚本が描きたいのだろうし、それできっちり面白いものが出来上がっているし、その密度や強みの確度も作品を重ねるごとにレベルが上がっているし、ここらへんは慣れるしかないかな~~! と思っているところです。

 

でももし、脚本とそれに合わせて用意される困難と、そのバックグラウンドが、日本の持っている風景のバックグラウンドと完全に合致するような設定の考証がなされたら、すごいことになるのではないかなぁ、なんて思っています。

 

 

さて、それとは別に今作は「東日本大震災」が超重要なテーマなのですが、このセンシティブなテーマを取り扱うのに、公開直前に出た「緊急地震速報」のアナウンスは、終わってからしてみると非常に戦略的に巧みだな、と感じました。というのは、作中で緊急地震速報自体は何度も出るのですが、そのメロディ自体は、記憶では冒頭の一回しか流れないと思うのですね。

もし、何もアナウンスせずに映画を公開していれば「震災をエンタメ化するな」のキャンセルカルチャーは強くなったと思うし、では一方で全ての緊急地震速報にメロディをつけていたらメッセージが強すぎる。冒頭の一回だけにして、かつ「緊急地震速報に似たメロディが流れます」と告知をしておけば、観客は全員「それ≒題材が震災となることを覚悟してきた人」となる。

このアナウンスを考えた人が誰なのかと、そして最初からこの速報のシーンに音はあったのかどうかが気になってしまいました。

 

色々書きましたが、総合的には脚本が非常に良かったことで名作だと感じました。画づくりのようなもの、映像的な熱さのようなものはなんぼでももっと良い映画があるし、劇場の大スクリーンで見ることの楽しさが強い映画ではないと思いますが、とにかく情報量の多さとそれをきれいにまとめていることに驚かされる映画だったと思います。