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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

ミセス・ノイズィ(2019年・映画)感想

薦めていただいたので「ミセス・ノイズィ」という映画を観ました。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09B6JQT5K/ref=atv_dp_share_cu_r

 

引っ越してきた女性作家家族の隣人は早朝から声を挙げて布団を叩く怪しげな中年女性。作家業もうまくいかず、遊びたい盛りの娘にも悩まされる主人公の真紀、あるきっかけから隣人の女性をネタに小説を書いたところ、それが売れてしまい……

 

というあらすじの現代ドラマ映画です。ネタバレをするつもりはあまりないのですが、どうしても感想を言おうとなると終盤の感情について述べざるを得ないので、一応以降は追記扱いにしたいと思います。

 

 

中盤は本当に辛い辛い展開が続くんですが、一体ここからどうしたら、というところから最後までの展開は非常に良かったです。言ってしまえば「現実的にはそんなにうまくはいかないだろう」というくらいには「都合の良い物」ではあるんです。

が、それはお話の世界だからこそ、強い強いフィクションとしての希望をくれる。芝居を観て「私もこういう風に生きなくては」と思わせてもらえるというのは、フィクションの効用だと思うのです。

題材やその料理の仕方という意味では、非常にセンシティブ、一時期の映像的な流行であった「騒音おばさん」を元ネタとしているわけで、それをメディアを通して物語として再度消費し、それを物語の中で第三者として安全な位置からネタにする人々を批判的に見る、というのは、現実社会を元にした物語の作りとしてはため息が出るほどに秀逸ではあるんですが、観る者としての立場は自己反省的にならざるを得ず「私もこういう風に生きなくては」と思っていくことでしか観た後の自分の立場を作れない、というようなところがあるようにも思います。

 

月並みではあるけれどメディアによって視点が区切られ、その景色は別の視点から見れば全く別の様相を呈する。正義だと思ってした判断はほかの視点から見れば反対であり、簡単に発信者に回れる現代では、意識しなければいつか、もしくは過去のどこかですでに自分自身が加害者になっているということであり、一度加害者に回った状態で自分を是としてしまえば加害者の自分を是としたまま落ちていくしかない。

人の心を惑わすような事件が起こるたびに様々な人が様々なポジションを取り、それらがネット上で固定されていくと、そのポジションを是とし、それしか取れなくなっていく、それ自体はもうインターネットが黎明期だった頃から言われ続けてきたけども、こういう物語を通してきっちりとチャンスを得て考え直して行かなくてはいけないと感じました。

そして「沈黙は金」というのはまさに金言であると。

とてもよい映画でした。