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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

【ネタバレ】シン・エヴァンゲリオン劇場版の感想

シン・エヴァンゲリオン劇場版を観ました。

 

www.evangelion.co.jp

 

以下ネタバレありで感想を書きたいと思います。

 

色んな作品の感想を書いてみると、よくよく「いやどうやってもこの作品の感想を文字で書くことなんて無理だろ」と思ったり「どうして思ったことをただ書いたのにこんなに陳腐になるんだ」と力不足を感じたりするんですが、シンエヴァに至ってはもう、文字で書くのは絶対に無理だなと最初からあきらめている自分に気づきます。

 

自分でもたまに、なにかを演出したり、映像や音で表現する場面というのがあります。それを「こういうことをやろうと思うんです」と言葉にして説明することは可能なんですが「そうしたら受け取った人はこういう気持ちになると思うんです」というところを的確に説明するのって、ものすごく難しいか、もしくは不可能だなと思うことがあるんです。

そういうときは、説明するより見せたり、もう実際に現場で表現するほうが早い、もしくはそれでしか再現できないことっていうのが多々あって、だから映像を見てどう感じたかなんていうことを言葉にするというのは、その情報量が多ければ多いほど言葉では無理なんじゃないかなと思うわけです。だから映画の監督ってのは映像でやるわけですし。

 

ということで、これから書くことはどうしても正確にはなりようもないし、支離滅裂な感じもしてしまうかもしれないけれど、とはいえこの鮮烈な状態で書くことというのは楽しいので、そういうくらいのスタンスでやっておきたいと思います。

 

観終わった時には、終わった、ということが思った以上にすっきり入ってきました。これはとても面白くて、頭の中では、物語についてわからないことがものすごくたくさんあったにも関わらず、終わったということはすんなり入ってくるという、どう考えてもお話は明かしてもらっていないのに、なぜか不足感がないような気がするという妙な感覚がありました。旧劇場版を見たときとはまったく違う穏やかさ。とはいえ自身が20年とか年喰ったわけで、そうなると受け入れるメンタルが一緒じゃないので比較のしようがないですけど。

 

その後に、なんて絶妙なバランスで閉じたんだ、という、自然な恐ろしさみたいなものを感じました。いや恐ろしいと言っても怖いとかじゃなくて、そんな針の上に足の小指の先で静止するようなバランス、どうやったってふつう取れないだろ、ということを感じてました。

 

だって、メタ展開をやったらその瞬間に作品というか、物語の世界は大なり小なり破壊されると思うんですよ。「ドラゴンクエストユアストーリー」だってそれをやって批判されたし、第四の壁を破るのはだからギャグのほうが常套としてやりやすいし、言ってしまえばTVシリーズエヴァンゲリオンは最終話でそれをちょっとやったけれども、上手く機能したとは言えなかったわけだし。でも、シンエヴァはメタをやっても、何かが毀損された感じというか、ちゃぶ台がひっくり返った感じがしなかったんですよね。それがびっくりしました。

 

物語的なこと、用語的なことはなんぼでも考察が出てくるだろうと思うので、それはもう、そういうことが得意な人たちの論考を見るだけで満足しちゃうんですけど、今回本当に舌を巻いたことを言語化しようとしてみようと思うんです。そこはもう本当に観る人の感覚を完全に見透かされたという気持ちでして。

 

仮称アヤナミレイのことを、僕は綾波レイだと思っていたんですよね。TV版の綾波レイ(2人目)は、TV版の綾波レイ(3人目)であり、序破の綾波レイであり、かつ仮称アヤナミレイであり、それらが全部違う綾波レイであるということと、それらが全部同じ綾波レイであるということを同時に、いつのまにやら受け入れていたような気がするんです。

綾波レイという役者が全ての綾波レイを演じていたというと近いかもしれないです。ともかく、あの第三村でのシーンで、仮称アヤナミレイに綾波以外の名前がつかなかったことにちょっとほっとしてしまったんです。まぁ、そうだよね、と。シンジくんの感想にそのまま同意してしまった。

 

同じく、アスカは惣流と式波を、どちらも同じアスカで、同時に全く違うアスカであるということを頭の中で自然に両立させてたと思うんです。Qのアスカは実は惣流なんじゃないかとか、考察でも言われるいろんなことを考えてたんですけど、そんな自分のそれまでの考えとは別に、惣流と式波はどちらも「アスカである」ということが違和感なく入ってくるという感覚が、終盤、旧劇場版のラストシーンから引用されたと思われる大人になった「アスカ」のシーンでものすごく自然に入ってきたんですよね。

そして濃度の差こそあれ「シンジ」「レイ」「アスカ」「マリ」以下、エヴァンゲリオンに登場するキャラクターはそれぞれ、その役名、本来キャラクターが個として持っている固有の設定を、xyzの各次元に層状に持っている、もしくは層状に観客に捉えられてると直感したんです。

 

でも「シンジ」は、それがTVシリーズであれ、新劇場版であれ、漫画版であれ、そのほかのどのシリーズであっても、違うシンジでありながら、シンジというアイデンティティから逃れられない。肉体を持つ実在の人間はそちらをよりどころにして、自分の心を成長させることができるけれど、キャラクターのシンジは、どの作品でもエヴァに嫌々乗って、いっぺんメンタル病んで、そういうことをするというのが、ある種の縛りなんだと思うんです。

 

同様に、レイも加地さんも退場しなくてはならなかったし、カヲルくんは判った様な口をきかなくてはならなかったし、アスカはツンツンして愛情に飢えなくてはならなかったし、ゲンドウやネルフやゼーレは世界の秘密を知っていなくてはならなかったし。それが個々のキャラクターと、それらが集合してお芝居するエヴァンゲリオンというものだったということを、エヴァンゲリオンを観る人っていうのは、なぜか自然に受け入れているのだろうと。

 

エヴァンゲリオン」という作品自体についても同じことが言えて、TVシリーズ・旧劇場版と新劇場版は、時間的に連続する作品でもあれば、同時に同じ時間の違う次元の作品でもありえて、それらは「連続しているんだ」「いや別の作品なんだ」と議論することもできて。単に、作り手がどちらかを選ぶこともできるはずなんだけれど、でもそれは古参のファンか、新劇場版からのファンか、どちらかに寄った結論にしかならない。それをどちらも取りこぼさないように作られている。

 

誰の考えも違うと言わない、そのうえでキャラクターを生かしたまま、すべてのキャラクターを救う結論を見せる。異常なサービス精神だと思うんですよ。確かにずっとサービスサービスと言われ続けていた。そう考えればまったくぶれていない。

 

Eテレの「デザインあ」という番組を見ていると、その中のコーナーに「ない世界」というのがあって、例えば「服がなかったら」「鏡がなかったら」と、その世界での不便を描いて、最後に「服っていいね」「鏡っていいね」と、それがあることの素晴らしさを教えてくれるんですが。

エヴァのない世界」によって、エヴァのある世界が際立つというのは、つよい仕掛けだと思うんです。

しかも、そこまでで「さよなら」という言葉にポジティブな意味を丁寧に与え、かつすべてのエヴァ世界がxyz各次元に重層的に存在するということも与えつつ。すべてのエヴァンゲリオンに、さよならといいつつ、エヴァの代わりなのか引き継がれたDSSチョーカーと、タイトルのリピート記号と「3.0+1.0」と、様々な仕掛けによって「それもまたエヴァンゲリオン(ただし、エヴァンゲリオンはない)」ということを成立するって、ふつうそんなことできなくないですか。いやできてたからたまげてるんですけどね。

 

このブログの別エントリで明らかなように、僕はエヴァの考察で有名なもん氏のフォロワーなので、その考察も読み込んでいて、その展開予想が当たっているかどうかということももちろん気にして見たんですけど、実際に観たときに、当たったとか外れたとか、いやもちろん「当たってはいなかった」かもしれないけど、そもそも「1(序)→2(破)→(3だと思ってたけどそこはすっ飛ばして)4(Q)」ときて、みんなで3と5の中身を想像しているときに、もちろん5もちょっとやるけどメインは「数字とは何か」についてやります、みたいな話だった時に、合ってるも合ってないもないな、という感覚でした。

 

ふわっとした感想は以上です。

それとは別に映像についての感想をちょろっと書いておきます。地上戦はもうちょい見たかったです。今回は無重力下、もしくは空中戦が殆どだったので、メタ世界のCGモデルファイトではちょっと消化不良。

あと、すべてのエヴァンゲリオンが次々槍に刺さっていくシーンは、なんか打ち切り漫画みたいだなと思ってしまいました。次回観るとき笑わない自信がちょっとないです。

 

おつかれさまでした。