paper-view

ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

リソースの話

何をやるときにどのくらいの力が割けるか、という話なんですけれども。

基本的にここのお話では

 

・目標があって

・目標を達成するための作業があって

・作業を完了するための人員が必要

 

で、この人員をリソースと呼ぶことにします。

人員をリソースと呼ぶよ、というとなんだか味気ない感じがするんですが、ここでするのは味気ない話というか、いかにシステマティックに楽をするか、ということを考えるためですのでこれでいいことにします。

楽をする、というのはこれもなんか味気ない言い方なのですけど、目標そのものはきちんと達成するわけですから、それができるだけ少ないコストでできたほうがいいわけです。

 

じゃあ山登りするのにヘリでビューンでいいのか。というとそういうことではなくて、だって山登りはその昇るという行為自体が目標です。登頂するというのは結果の一つの現れ方。だから「目標」にみえるものの中身もどういうことなのかということは考えないとダメ。

 

と、いろいろ整理してみたところで「目標」を達成するのがきつい! しんどい! となったときにはこの三つを見直して見なくてはならないのがふつうだと思うのです。

 

・目標は不相応に高くないか?

・目標を達成するための作業は適当か?

・作業を完了するための人員は確保できてるか?

 

これらを問う。

そうなると。きついよ、となったときにまず考えるのは「追加で人員を投入できるか?」とか「ある作業を担っているこの人物は適当か? ほかにもっとできる人はいないか?」なわけです。

特に、組織の人員に変動があった場合には、ここはちゃんと考えないといけない。

 

リソースは適切だけど、それでもできないようだ。と思ったら、目標を達成するための作業はそれで適当か、を問わなくてはなりませんが、それを問おうと思うとまず「目標」がこれで合っているかどうかを考えなくてはならないです。

というのは、それは結構わかんなくなるからです。

たとえばゲームしてても、最初楽しかったのにだんだん楽しくなくなった、ということがあります。そうすると、楽しいからゲームしてるはずなのになんでかなっていう悩みが出る。さらに掘り下げると、自分が楽しんでいたのはゲームではなく別の何かだったということに気づくことができたりします。

たとえば、本当はやったことがないものをやるのが楽しかったのだ、とか。

本当はゲームについて誰かと話せることが楽しかったのだ、とか。

 

というわけで「目標」の中身を再定義すると、それの達成のために選んでいる作業が適切か、という判断ができるようになります。

 

そこまで全部間違いない、それでも目標達成できないんだ! となると、もうそれは「目標そのものが高い」ってことになるのだと思います。

そしたら、目標を下げたほうがいいです。

 

なぜそんなネガティブな選択が必要になるか。

それはそのネガティブな選択を積極的に行わず、現状のままを突っ走ってしまった場合、最終的に「目標」の達成ができず、ゼロになってしまう可能性があるからです。

それなら、ゼロになってしまう前に、多少ネガティブに見えても、先に舵を切って目標を下げたほうがよいと思います。

 

が、この判断が早すぎたりすると、組織にとってはまだ具体的な危機ではなくて不信がられたりすることもあるんですけれど。

それでも判断が早かったり、その判断に責任を持つよと言ってくれる人は、有難いですよね。

 

ということで、どうしてもできないときは、そういう選択も必要なのかと思います。「目標」も大小レベルが様々なので、こういうのは何をどのくらい判断、認知できるかなのかもしれない。