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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

スローガンと実質的な実現可否は区別したほうがいいと思う話

「交通事故ゼロ」というスローガンを掲げたとき、実際に交通事故がゼロになるのか、というと、なかなかそうはならないということはそう理解しにくいことではないと思います。

 

さらに「交通事故ゼロ」のスローガンを掲げるときと掲げないとき、掲げたほうが実質的に交通事故は減る、ということも理解しにくいことではないと思います。

 

「交通事故ゼロ」のスローガンが掲げられてるから、歩行者は安全に対する注意に無頓着でもいいか、というとそうでもない。ちゃんと注意して道を歩いたほうがいい。

 

このへんは大しておかしなことではないと思います。

 

では「正規雇用核家族で持ち家で生活」(クレしんモデル)というのがおおむね日本で言う「一般的な生活モデル」だと思うんですけど、それを何も考えずに享受することができるかというと、それがどんどん怪しくなっていったのがこの数十年なんだと思います。

 

正規雇用核家族で持ち家で生活」というのはおそらくどの政党もそれを志向して、与党はそれを目指すと言い、野党は与党がそれに至らないことを批判するという構図があると思うんですけど、しかし「正規雇用核家族で持ち家で生活」というクレしんモデルは「スローガン」であって、それが当然享受されるものとしてそれぞれの個人が生活に無頓着であると損をこく。

 

個々人の生活はスローガンはそれとして、実質的に必要な対策は何かということを考えないと、実際には限りなく不可能に近い目標=交通事故ゼロを志向してジリ貧に陥っていく。

 

ということで「一般的な生活モデル」が立ちいかんぞというときに最初に参照するのは「クレしんモデル」以前のモデルということで、それは拡大家族「コボちゃんサザエさんちびまる子ちゃんモデル」であり、さらにさかのぼれば地域社会であり、村社会というのが生活モデルになると思うわけです。

 

核家族」が経済的に維持できない場合、生活単位を大きくしていくことで経済的に利を得るしかないと思うわけです。「世代間格差」は「異なる世代が一つの世帯になる」ことでいくらか埋められます。

 

世代間、つまり血縁者との関係がよろしくない場合、新しい家族を作って暮らすということも、おそらく過去の社会ではそう不思議なことではなかったと思うのですが、もう一度この意識を獲得するということが、経済的な閉塞を打開する「スローガンではない実質的な対策」みたいなことになるんじゃないでしょうか。

 

世の中を観てると、世代間のヘイトを作ることは積極的であっても「もっと親のすねをかじって生きていくべき」という論はあまり見ないので、不思議だなと思っているのですが、年長世代に富が偏在していて、年長世代の福祉が手厚く設定されているなら、年少世代がその恩恵にあずかるには、年長世代と経済的に合体しちゃうほうがいいような気がします。

 

たぶん今後も達成できない「正規雇用核家族で持ち家」を実質的に志向しちゃうより、それはスローガンだと割り切ってしまうほうがいいんじゃないかな、と思っています。

問題意識と感情のうち後者が先行するなら、戦わなくていい相手じゃないだろうかという話

Twitterをしていると周りからいろいろな「~イズム」に絡む主張を目にすることがあるんですが、140字という制限の中で、かつ主語が大きくなったり不明瞭だったりすると、そのツイートが何らかの社会的問題意識を持っていて、その解決のために行われているのか、それとも単に何かイライラすることがあって「私はイライラしていますむしゃくしゃしています」ということを社会問題に言い換えているのかというのは本当に見分けることが難しいと思います。

 

不可能なんじゃないかと思う。

 

社会的な問題意識を持っている人とは、データや論拠を示しての言葉のやり取りができますが、単にイライラしている人が社会問題に言い換えている場合は、反論したところでその人のイライラが解決するわけではないので、和解の結末にたどり着くことは難しいと思います。

 

たとえば、児童が性犯罪に巻き込まれる事件があって恐怖を感じた人が、性犯罪者に釈放後トレースできるようにGPSをつけろとか主張したりするわけですが、これが実質的に「効果があったか」というと、効を奏していなかったりします。

ミーガン法、で調べてみるともろもろ出てきます)

 

この時、恐怖を感じた人に対して「いや、ミーガン法は効果が疑問視されてますよ」という話をしても恐怖は解決されませんから、お話は平行線に終わるわけで、似たような「~イズムっぽいけど実際には単にその人がなんかでイライラしてる話」はどれも平行線に終わるわけです。

 

だから基本、触らないでいいんじゃないか、と思うわけですが、ここでもう一つよく出てくるお話があり「そこから実際に不必要な規制までリーチされるから放っておいてはいけないのだ」というものです。

 

それはそうなんですが、とはいえこの国で法制化するにはちゃんとした手続きが必要ですから、別に「イライラしてる人と戦う」をやらんでも「ちゃんとした手続きする人」ときっちり戦う準備をしておけば、不足するということはないんじゃないのか、と思っています。

 

ちゃんとした手続きする人は、イライラも社会問題もまとめて自分の勢力としてちゃんとした政治的ムーブを取って自分の利を獲得していこう、商圏を確保しようと思うわけですから、こっちはちゃんと戦わないと、望む社会を維持できなかったり、遠ざかったりする可能性があるわけです。

 

でもそうでない、ただイライラしてるだけの人は、別に手続きだって自分の手ではしないし、その人を説き伏せたところで「ちゃんとした手続きする人」にとっては雑兵の一人でしかないので、その人と戦う必要はないんじゃないかと思うんですよね。

 

将をきちんと押さえておいて、しかるべき戦場で戦えば、イズムっぽいものと戦って消耗する必要はないんじゃないかなぁ、と、思いました。

ゲーム「Coffie Talk」プレイ感想

Steamでアドベンチャーゲーム「Coffie Talk」をプレイしました。

 

chorusworldwide.com

 

人間だけでなく異種族の知的生命体もも暮らす世界で喫茶店バリスタをやるゲームです。

お店に来たお客さんの注文に対して何を給仕するかで展開が変わるようです。

 

出せる飲み物は、コーヒー、抹茶、紅茶、ココア、ミルクをベースに、ミント、しょうが、シナモン、はちみつ、といったサブ材料等を3種組み合わせて作ります。

開始当初ではレシピが不明なため、プレイ中に様々なレシピを発見してく必要があります。

 

ゲームの感想は簡単に「穏やかな読み物を読んだ」というくらいでいいのではないかと思います。それだけではないけれど、全体としてはそういう感想です。

 

というわけでこの先はADVについてつらつら述べるのが中心です。

というのはCoffie Talkというゲームの「ゲーム性」というのは大して高くはないからです。

でも「ゲーム性」みたいなことを考え出したときは要注意だなと思っているので、自分で自分にブレーキをかけるようにしています。

別にゲーム性が高くないゲームがあったっていいじゃないか。コンシューマー機でゲームではないツールが出たっていいじゃないか。(実際、プレイステーション(初代)やセガサターンにはインタラクティブさがいっさいないものだっていっぱいあったんだし)と、思ってはいるわけなのです。

 

ということで、Coffie Talkはゲーム性が高くないですが、それ自体は昨今のゲーム事情としては特段珍しいことではないと思うのです。

特にこのゲームはVa-11 hall-A に影響を受けたとのことですが、Va-11 hall-Aも、そうゲーム性が高いかというと、ゲーム性というよりも、ピクセルアートでドラマを見たというほうが感想が近いと思います。

 

だから、これはそういうジャンルとして成立しているのだというほうが良いでしょう。2064 read only memoriesなんかもドット絵+ドラマですね。

 

そこから引っ張ってくると「十三機兵防衛圏」だってアドベンチャーパートにゲーム性が高いかというとそんなことは一切ないわけだし、まぁアドベンチャーゲームというのは「そういうもの」なのだと思っていくしかないかな、と思うわけです。「428」とか「逆転裁判」がゲーム性を高く見せて良くできてるというくらいのもので。

 

けども、一方でsteamをはじめ各種プラットフォームでゲームを買うとき、多かれ少なかれゲーム的体験というか、コントローラーを巧みに操って遊ぶゲーム性みたいなものを求めて買っているので、そこにミスマッチが起こってしまうことがあるのはもうちょいなんとかならないかな、と思います。なかなか難しい問題です。

Twitterの性質が随分変わったような気がする、という話

ここ一年くらいでツイッターの景色が変わったような気がする、という主観的な感覚があったのですが、それについて思いついたことがあったのでメモっておくことにします。

 

・だいたいどの人もみんなフォロー/フォロワーが増えている

ツイッターは「マイクロブログ」と呼ばれていたけど、今もそれで正しいか?

・時系列では表示されていないから、どちらかというと野良ニュースになってる

 

ということに言及したいなと思っております。

 

日本でTwitterが注目を浴び始めたのは2011年の震災で、ダウンせずに情報のやり取りが続いたのが大きかったのかなと思っていますが、過去は「フォローが100人を超えると/1000人を超えると景色が変わってくる」なんて言われていたような気がします。

 

現在ではフォローやフォロワーが100や1000ではそこまで珍しくもないようになりました。企業や芸能人も現役で使用していない人を探す方が難しいくらい。

 

が「タイムライン」の機能はそんなに変化していないんですよね。140字までが制限である1回のツイートがどんどん流れていく。

ただし、100や1000のツイートを時系列にすべて追うのはずっと見続けていないと無理なので、デフォルトの表示が時系列ではなく、話題性の高いツイートが優先されるようになった。

 

てことは、つまり「知り合いの誰かのブログを時系列に読む」という感覚ではなくなってるわけですね。

 

過去にブログが流行った時は、そもそもブログをやる知り合いなんて十数人とかだったのでお気に入りで充分巡回できたし、RSSリーダーを使用したりして、時系列で誰が何を述べたんだなということがわかるようになっていた。

 

その後にSNSが流行った時も、フォローフォロワーは相互承認制だったので、せいぜい数十~百いくらで、これらも時系列順だった。

 

が、Twitterは、リリース当初こそ時系列だったけれども、今は話題のツイートが優先表示になっていて、対象とするアカウントは「フォローとフォローのリツイート」なので、実質的に無限大のネットの海から情報が拾われてくるわけです。

 

従来はマイクロブログと呼ばれたりして(※Twitter社自体はこの呼称を自認しているわけではないようです)個々のフォロー、フォロワーの日常をつぶやきとして見て、生活の間接同期みたいなことをしていたわけだけども、どうも最近はそういう用途で使うには対象が広がりすぎている気がする。少なくとも、ブログという感覚では使い難い。

 

フォロー、フォロワー自体は自分で選んでいるけれど、それぞれのフォロー先が数百以上のフォロワーを持っていると、そりゃあ話題の方向性は出てくるけれども、選んだ方向については無限に広がった状態になっているわけで、それがTwitter社のアルゴリズムによって話題性の高い順に共有、拡散されていくとすると、これはもうソーシャルネットワーキング、というよりも、単に拡散力が高い人の声を広げるニュースメディアにすぎないような気がしてきます。

 

 

それでどうなるかというと、結局のところは

 

・「すごく話題になってる情報」と「すごく身近な情報」の間くらいの「自分の興味から少し離れている、中程度に話題になってる情報」が見つけづらい

・「自分の発する情報は身内レベルですら拡散しづらい」

ということが起こるのかなと思っています。

 

これをどうにか(Twitterを使用しない方法も含めて)解決したいなと思ってはいるのですが、ブレイクスルーは見えてない状況です。

 

不思議なゆうなぎ/大庭直仁

 読みました。

 

かなりファンタジックでSF感のある学園での百合モノでした。ほんわかした絵柄と人間関係ではあるんだけれど、かなりフェチ強めです。なんでこの子はパンツ履いてないの。

キャラクターと離れたところでは、世界観がどうもSF感あるんですが、この作品でそれを回収する必要がないような気もする……ので、このまま百合ってもらったほうが平和そうな感じがします。

九龍ジェネリックロマンス/眉月じゅん

前々から気になっていたので読みました。「恋は雨上がりのように」の作者の方です。

 

 

九龍城の不動産会社で働く女性を主人公にした恋愛ドラマ。

最初は「恋は雨上がりのように」のような、テンションが高すぎることのない恋愛もの……かと思われましたが、1巻終盤で大きく話が動き、かなり強い引きで終わります。今読むのが一番楽しめるのではないでしょうか。

もうすぐに2巻が出るらしいので購入確定です。続きが気になる。

ポケットモンスターシールドを「THE END」って2回出るまでプレイした

ポケットモンスターソード/シールドのシールドの方をプレイしました。

 

 

ポケットモンスター シールド|オンラインコード版

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  • 発売日: 2019/11/14
  • メディア: Software Download
 

 

ポケットモンスター ソード|オンラインコード版

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  • 発売日: 2019/11/14
  • メディア: Software Download
 

 

 

 

ポケモンをクリアするのはブラック/ホワイトぶりなので実に10年近くぶりにポケモンをクリアしたことになります。マジか……

 

「こんなに削っちゃったのか」と思ったところと「こりゃ面白いぞ!」と思ったところがありました。

 

・こんなに削っちゃったのか

ポケットモンスターソード/シールドは「ポケモンを揃えて対戦するためのゲーム」に特化したのだなー、などと思いました。初代GB版ではJRPG的な要素と、ポケモンを揃えて対戦するデッキ構築ゲーム的要素が同居していたと思っています。自分はJRPG的な遊び方をずっと続けていて対戦は突き詰めなかったのですが、今回はそういうJRPG的な部分はかなりライトになっていた、と感じます。

 

過去にあったひでん技としてポケモンに覚えさせてマップ上の障害物を攻略する要素がまるごとなくなったため、ワールドマップをあちこち探索する要素がほぼなくなっていました。「ここはまだ通れないけど、いつか通れるようになるのかもしれない」と思う場所がなくなっていたということです。

 

それ自体は、3D化したRPGではよくあることで、平面に何かを配置する広大な2Dマップから、オープンワールドでなければ樹状に描くしかない3Dマップに移り変わったことで、探索要素の配置が難しくなっていったのだろうと思います。これはポケモンのゲームに何を求めているかというところの差だと思うので、ポケモンという世界の探索がポケモンGOしかり現実空間に散っている今では、もう高望みと言ってしまっていいのかもしれないです。

 

いわゆるポケモンの「お約束」的な要素も、あまりストーリーを掘り下げないように収縮しているものもあり、全体として、プレイ後に感じる「冒険した」という感覚が薄かったように思いました。隠さず言えば、ゲーム世界がとても狭かったです。ガラル地方は「チームに入れるポケモンを選ぶための世界」に特化しちゃってるんですね。

 

・こりゃ面白いぞ

一方面白かったのは、ポケモンバトルをエキサイティングなものにすることに極振りされていたというところです。スタジアムで戦うジムリーダー戦は、ジムリーダーがボールを投げるところからダイマックスに勝利するところまですべてが脳汁出っぱなしの素晴らしい演出っぷりでした。

 

もうポケモンが発売されてから25年とか経っていて、自分みたいに対戦面でポケモンをあまり楽しんでいない人間からすればマンネリ化するバトルがスポーツ演出でこんなにも輝くとは、驚きです。このバトルを見に行くためにゲームをプレイするので十分におつりがくると思います。

 

 

全体としては面白いゲームだったと思うんですが、気持ちとしてはもっと冒険してみたかったなぁ、というところです。

キャラクターは断然ソニアおねえちゃんが好きです。どうしてソニアおねえちゃんはボールを投げないんですか。投げないならソニアおねえちゃんのワンパチになれる機能を実装してほしかったです。

 

以上です。