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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

アニメ映画「GODZILLA」三部作を見た話

アニメのゴジラのネタバレをしてお話をします。

 

godzilla-anime.com

 

公開日にちょうど予定を作れたので観てきました。

 

正直なところを言いましょう。うおおーっ! これだよーっ! というエンタテイメントな映画では

 

ない

 

というのが最初の感想です。

この感想を詳しく書くってすごく難しい。なぜなら

 

シン・ゴジラがエンターテイメントとしてよく出来過ぎている

・自分に『ゴジラ』というジャンルに対する知識が少なすぎる(シン・ゴジラゴジラvsモスラ(たぶん1992年のやつ))

 

を意識してしまっているからです。

 

そのため、ここからは「ゴジラ知識が非常に薄いが『恐らくゴジラってこうなのでは?』という予測に基づいて感想を書く」という、知ったかをしていきます。

 

映画が終わって「この映画はどういう思考に基づいてここに着地したのか?」を考えていました。

その結果「ゴジラとは?」と「勝利とは?」を両方立てた、という話なんだな、と考えました。

 

ゴジラとは?」について。先述のとおり、自分はゴジラという映画をしっかりと観ていない。けど、ゴジラという映画はたぶん、ゴジラや様々な怪獣たち、そして人間たちの戦いの中で「どれかが勝ったり、負けたりする」「今回はなにが勝ったか?」という、様式を得たのだろう、と想像しました。

シン・ゴジラは「ゴジラと人間のガチンコ」「ギリギリで人間の勝ち」。

ゴジラvsモスラは「ゴジラモスラ&バトラタッグマッチ」で「モスラが勝ち、人間も結果、勝ち」みたいな感覚です。

 

そしてそういう枠組みの中で「いかに”かっこよい画”になるか?」が描かれていく。けれど、それが「アニメである」ことによって、強さの数値はどんどんインフレ化する、いや、しなくてはならない。少なくとも特撮でやれることを、アニメのゴジラでやっても意味がないわけで。

だからゴジラは「信じられないくらい強く、大きく」なるし、人間は「ありえないくらい高度化し、種族も増える」のが当然に描かれる。すごいインフレです。でも、アニメでは普通なわけで。それがアニメで「ゴジラを描く」ということになるんだと思います。

 

そんな中でアニメのゴジラに与えられた世界観の中で「勝利とは?」を描いていくわけですが――

人間流石に勝てない。ゴジラ強すぎる。そして「ゴジラを勝たせ」「人間もまた勝たせる」にはどうすればいいのか?

となると「勝ち」とは? を哲学しないといけないわけで。

そこで単体であるゴジラと、群体である人間の「勝ち」は区別されていくわけです。

単体であるゴジラは、地球上で最強の生命として君臨することで勝ちに至った。

ゴジラに滅ぼされ、なお種としては生き続けている人間は、生存することで勝ちに至った。死=負け、生き残っていれば勝ち、というニュアンスでフツアの民が言うのは、この映画の勝利の定義を説明するセリフなのだと思いました。

その勝ちに寄り添うためには、ハルオは、死につながるゴジラとの戦いの芽を摘まなくてはいけない。そのために必要なのは、何よりもゴジラとの戦いに執着しているハルオ自身が闘いのためのテクノロジーとともに消えることである。

と、同時に、ハルオ自身は、結末はどうあれ、ゴジラと戦って終わるという、本懐を遂げるわけで。

思い出してみれば2作目からずっと「勝ちってなに?」が提示されてた。個を棄ててもゴジラを倒せば勝ちなのか。次元の異なる存在とコンタクトすることによって、約束されし宇宙の終焉と異なるところに行ければ勝ちなのか。

ということで、ゴジラも、人類も、(人類に属しているハルオも言うたら)勝った。と。

 

いうわけですが、一方でずっと「ハルオ」の視点を通して観ている観客としては、そうそう簡単に価値観の転換ができないのが難しいところで、これはバッドエンドである、と考えられても仕方のないところだと思いますし「虚淵脚本だし」という言葉にまとめられてしまいそうな気もする。

 

 

けど「ゴジラ」をアニメで描くんだよ、ってなったら、あのインフレになったら、それは仕方がないような気がしたのでした。

「バキ」シリーズみたいだなぁ。って思ったのでした。

 

感想でございました。

欲を言えばモスラとかコスモスっぽい感じもっと見たかったなぁ。っていう。例の歌を歌ってくれれば(そのくらいしかゴジラシリーズ知らないからだけど)嬉しかった。

 

そんな感じです。