paper-view

ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

フェミニズムとか、女性の身体性に関することのメモ

いろいろと話題になりやすいので、覚えていることと考えていることをメモ。

 

フェミニズムというと現在のネット上では「フェミ」と略されラベリングの対象となってしまうけれど、”そこそこ”男女同権(以降はそこそこを省略)を達成している現代において、歴史的な観点で見ることも難しいので「アファーマティブアクション」はそもそも難しいんですよ、という考えを自分は持ってる。

 

例えば昭和初期とか、さらにそれ以前であれば、男尊女卑だったり、もしくは女性蔑視、もっと過去になれば女性は取引の対象、モノ扱いに近かったりする、ということはちょっと歴史を勉強するだけでもそこそこわかる。

 

なので、現代に生きる人も多かれ少なかれ「男尊女卑の価値観下に居た人」はいるはず。今での旅館で出されるご飯はおひつを女性の前に置きわざわざ「女性の方がよそってください」と説明するようで、これはそうしないと客からクレームが来る場合があるそうだ。と、twitterで読んだ。つまり、普段目にしないだけで、男尊女卑の価値観の人はまだいる。

 

過去から現在に渡って男女同権を獲得してきたのは誰かというと、その中にフェミニスト(だけで分類できないことはわかっているけど、ややこしいので省く)、活動家が居たわけで、この人達からすれば「過去に受けた性差別はどこで”チャラ”になるか?」「いま活動をゆるめたら、また男性優位社会に戻るのではないか?」という実体験に基づく不安があるのではないか。

 

同じことは様々なジャンルで言える。被差別部落、身体障碍、黒人などなど。同権にするための活動は、同権に近づくほど歴史について意識されなくなるし、その活動が目について煩わしいと思う人が増えるだろう。

 

それについてどうせよ、こうせよ、というつもりもアイデアもないけれど、だから埋めがたいなぁ、と思うし、たとえば女尊男卑に傾いたとき、同じ方法でバランスを取るしかないのだろうか、という懸念はある。

 

ちょっと話はずれるけれど、こういう「社会運動」はそれ自体もサークル活動的な側面を持つわけで「私たちの目標が達成された!」となると、サークル解散になっちゃうから、これはこれで問題を叫び続けるきっかけになっちゃうな、というのが難しいところ。

 

で、ここから(女性の)身体性に関するメモ。記事タイトルとは別に括弧をつけたのはきっかけはいま話題になってる件が女性の身体性に関わるものだけど、別に女性に限って考えるつもりはないため。あとタイトルをキャッチーにするため。

 

前段でフェミニズムについて書いたのは、この話をフェミニズムにしてしまうと本質を見誤るような気がする、と考えたから。

 

自分はそこそこジェンダーフェミニズム周りの歴史に触れてきたほうだと思うけれど、あんまり女性の身体性を消費すること=人間やキャラクターの女性像をその見た目で一方的に評価したり楽しんだりすること、に違和感はない。これは自分が男性であるからかもしれないけど、究極わかんないよ、という前置きを入れておく。

 

「社会的性別」と「生物学的性別」はここ数年で別でもいいよ、というスタンダードになってきたな、という感覚がある。で、最近よく言われる、キャラクターとして描かれている女性像がどうの、という議論にはこれに加えて「所有する社会/生物学的性別」と「消費する社会/生物学的性別」を加えて分析してみるといいんじゃないか、と思う。

 

例えば「自分」が所有している社会的性別と生物学的性別はともに男性。(これも多様に広がりがあることは理解してるけど、ややこしいのでここは男女二項にさせて)だけれど、男性の人間やキャラクターの身体が消費されていてもそんなに嫌だとは思わない。たとえばゲイはここ十数年ニコニコ動画のネタとして消費されつづけている。

同時に、女性についても目の前の女性が巨乳だ貧乳だとやいやい騒ぐことはしないが、タイムラインに女性や女性キャラが現れると反応したりおっぱいおっぱいと騒いだりはする。

 

似たようなことは男女にかかわらず身の回りにも観られると思っていて、周りには腐女子腐男子もいるし、女性キャラクターの描かれ方で盛り上がる女性も当然いる。コスプレイヤーの方々なんかは、自分の身体で表現しているにも関わらず、その身体の表現結果は自分自信の身体と切り離しているようにも見える。

 

おそらく現代の主流、もしくは穏便な考え方っていうのは「実際に自分が持っている社会/生物学的性別」と「存在する者として消費や利用される社会/生物学的性別」は別である、というものだと思う。つまり女性の前で「この女性キャラクターの胸の表現は美しいよね」とか喋ってもセクハラにはあたりにくい(表現方法や文脈や声色や色々あるので曖昧な表現にとどめる)ということ。もしくは、ライトノベルの表紙や、多少肌色の多い衣装、アスリートのユニフォームや半裸姿などが問題なく陳列されるなど。

 

先に言っておくと、それが男女平等に消費されているかはわからない(計測のしようがない)し、そういう風に消費することが都合がいいから、現代の主流になっているだけなのかもしれない。それは主観から逃れられないので、ジャッジはできない。

 

さて、自分ではない人物、キャラクターの身体表現が我慢できない、という人の中には「自分」の持っている性別と消費、利用される性別が分離できていない人が居る、ということは考えられないだろうか。つまり、ある男性の主観から見たすべての男性、男性キャラクターの肉体は自分の肉体と同じである、という考え方。

 

もしこの考えによって「気持ち悪い」という感覚を抱いているのだとしたら、そこから先はたとえそれがフェミニズムっぽい文脈を持って語られたとしても、実際には「自己と他者が精神的に未分化」ということになったりしないだろうか。そうだとしたら、このお話を表面に出ているものだけで「フェミ」という略語で断じても、お話は空中戦から脱しようがない。たぶん、フェミニズムのようでフェミニズムの問題ではない。

 

現状として女性、女性キャラクターに多くこの話が見られるように思うのは、前段で触れたフェミニズムジェンダーに関する歴史があってのことかもしれない。論法や政治の戦略としてフェミニズムを持ちだすのは、主張する側には強い材料なのかもしれない。

 

「相手がなんか自分たちには実感できないことを主張している」ということは、どうにもフェミニズム批判だけでの反論では弱いように思う。