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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

社会学者とタレントが共演してるときのメモ

以前に爆笑学問だったかで、爆笑問題上野千鶴子さんが出てた時に「ぜんぜん話噛み合ってないな……」と思ったことがあって、最近調べたら古市憲寿さんという社会学者もテレビでコメンテーターと意見がぶつかったりしてるのをネットのニュースで見た。

 

社会学者とタレント(とくに芸人に分類される出演者)は根本的に、話が合わない。と、思っているので、その簡単な整理をここにメモしておく所存。

 

ただちょっとめんどくさいのは「社会学者」として挙がってくる人は「社会学者」だけではないことが多い。政治学者を兼ねてたり、フェミニストを兼ねてたり、まぁ色々肩書があって、で、その時その時で仮面を付け替える。だから「社会学者」としての上野千鶴子さんと「フェミニスト」としての上野千鶴子さんを「同じ人物」として見る視点と「違う人物」として見る視点を両方持っていないといけない。「違う人物」として見るだけではうまくいかないのが面倒なところだ。でも両方持ってないといけない。

 

ここでは「社会学者」としての部分にフォーカスして書く。

社会学者」は「人が複数以上いると現れる、個人を離れた性質に着目し、社会を読み解き、提案する立場」とここでは書き表しておく。社会には偏差で表せば標準的な人と偏っている人が存在しているが、その存在全体の山そのものを観察するのが社会学者。

前に「喪男(モダン)の社会学入門」で千田有紀さんが行っていた「自明性を疑う」を日常的にやっているのが社会学者。

 

ふつうの人は自明性を疑わない。自明性を疑うのは、自らの社会性から距離を置くことで、それなりに訓練が必要だし、やりすぎると社会生活が辛くなる。だから「社会」は自明性をそんなに疑わない。

 

いっぽう、タレントを書き表すには「社会を理解したうえで、その中で突出することで成立する職業」としておきたい。社会で言えば、偏差の偏りのはしっこに居るのがタレント。はしっこにいるために、突出するためには、その集団を何より理解し読み込み、内面化してないといけない。自明性を疑わない。

 

こんな感じで完全に逆なので、そもそも話が噛み合うわけがない。どちらかに合わせるとアイデンティティを失う。

社会学者は集団を見てその全体を説明し、気づきを与えられるような発言をしないと社会学者っぽくなれない。

世の中の人はそんな気づきが欲しいわけではないが、社会学者、という権威「だけ」が存在しているか、優位ならば「なるほどなぁ」と思うかもしれない。

タレントは集団とその性質を内面化しているが、その中で理想像となるように必要な言葉を発することでタレントたりえる。

 

社会学者は「この集団はだいたい9割くらいの人がこういうふうに考えてます。しかし、気づいてないこういう考え方があるのではないですか?」と言う。

タレントは「私は(みんながなりたい、したいと思っている)こういう考えだ」と言う。

耳障りがいいのはどっちかといえば後者。そういうふうに演出されていることが多い。

 

ので、社会学者を一人出しておくと、コメンテーターとわかりやすくぶつかったりしてショー的にはいいんだろうけど、結局のところ社会学のことは理解もとくべつされないし、相性が悪い、と思う。

 

メモでした。