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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

らしさの話

A「どうしたの、今日は君らしくないね」

 

と言われた場合、いろいろな人間関係があると思うんですけど、この場合自分的にはひとつ腑に落ちないことがあって、この発言者Aさんは「君らしくない」と評価している本人を目のまえにして、それが君ではないと評価してるんですよ。

 

いや、わかるんですよ、それが「今日は元気がないね」とか「調子わるいのかな」の換言だということは。それは人間関係の問題だから。

しかし字面だけみると、どうあってもオリジナルである「君」の側が主であって、それが偽物でもないかぎりはそこにある主体をもとに「君らしさ」を修正するほうが筋が通ってると思うんですよ。今までみた「君」に対して新しい情報が出てきたわけだから、それに合わせて「君」観を変えることこそが必要なんじゃあないのか。

「君らしくない」んじゃなくてAさんの「君らしさ」が実態とずれてたんじゃないか。もしくは今ずれたんじゃないのか。

 

なんでそんな話をしているかっつーと、上のような話は作品とその鑑賞者の間で往々にして行われるからです。

最近では多数の作品とファンをを持つ「シン・ゴジラ庵野監督、それから「君の名は」新海誠監督とその作品。

それら作品がそれぞれの監督「らしいか」「らしくないか」って結構言われるのを目にするんですけど、いや、別の人が作ったわけじゃないから、観ているこちらとしてはそれがその監督の作品のひとつであると考えたうえで、それぞれの監督観のほうを修正していくべきなんじゃあないんでしょうか。

 

と、僕なんかは思うわけでして。なにせ、作品の作り手とは人間関係がない場合が殆どなので、いままでと系譜の違う作品が出た場合は「この作品はいままでとちょっとずれててらしくないなぁ」と思うよりかは「これがでてきたってことは、この人はこういう人なのかもしれないな」なんて考えるんですよね。それが妥当なみかたかどうかは判りませんけどもね。