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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

GAMEバンドREコンサートと10年の話

6/4、GAMEバンドのREコンサートに出演しました。

 

www.gameband.net

 

ご来場いただきましたお客様、ありがとうございました。

いっしょに出演した団員・スタッフのみんな、ありがとうございました。

 

今回の感想と反省。

演奏について。ほとんどが一度は演奏している曲なので、譜読みは早かったし、ものによっては身体がちゃんと覚えていてくれてました。十年という時を経た自分の上達を実感。ポジションの移動がスムーズだったり、音程への戸惑いが小さくなっていたり、特別にレッスンに通ったとかではなかったけれど、継続は大きいと感じました。

当日は、GAMEバンドのコンサートでは毎度そうなんですけど、演奏中もほかにいくつか頭のなかで考えていることがあったりして、集中力が途切れがちで。

それでも普段は、身体と耳に覚えさせているものがあるのでそれで戦えるし、コントラバスは自分だけだったりで最悪間違えても誰にも気づかれなかったりしてたんですが、今回は同じパートの仲間もいるし、メイン曲のタクティクスオウガは「同じフレーズを異なる楽器編成で演奏する」パターンが多かったので、まぁ休符の読み間違えが致命的に仲間へのテロになること。音的には問題はなかったと思うんですけど。すいませぬ。

演奏の結果は、やったところはできて、詰め切れてないところは怪しい。これに関しては奇跡も悪夢もありませんでした、というところです。

 

今回のお仕事。

いつものようにMC原稿を担当しましたが、逆にそれ以外はほとんどなにも担当しませんでした。MC原稿のお話をします。

3rdコンサートあたりからMCには独特の世界観がつくようになりまして、それはとても楽しいんですけども「どうやって演奏タイトルとか演出を含んで違和感のないお話にするか」が悩みどころです。飲み屋でネタ出しとかするんですけども。

今回は「リズム天国」で、全身タイツが大量に暴れまわる、というほかの担当者の演出内容を先に聞かされていたので大いに悩みました。

 

だってリズム天国と全身タイツは直接には関係ないもの!

 

GAMEバンドが抱えている呪いのひとつには「全身タイツ」がありまして、多くは語らないですが舞台上に全身タイツを着た人が現れればたいてい、お客さんは笑ってくださるものです。

けれど、一歩間違えばその笑いは押しつけがましくなるし、ゲームの世界観から離れすぎてもおかしなことになってしまうし、使いかたはすごく気を使ったほうがいいと思っているんです。

それでもGAMEバンドは「全身タイツを使う」ということが常態化していて、怖いのは全身タイツが手段ではなく目的になってしまうこと、すなわち「タイツの目的化」です。

結論としてリズム天国の全身タイツ祭りは見た目にもとても面白いものになっていて、リーダーも演者もみんなお見事! ってな感じだったんですけど、自分がMCを作るときにはまだフタ開けてないので、なんとか「リズム天国、だけど全身タイツがたくさん登場する」という、言葉だけでは意味不明な世界が許されるように工夫したのが今回のMCでした。

 

「舞台」という装置は面白くて、見ている人の御行儀がとてもよくなる、という効果があります。ちいさなお子様でもなければ、中に入った人は一様に舞台のほうを向いて座り、休憩まで立ち上がりません。

一方で、出演する側も基本的なお作法がいくつもあります。演奏会における定型は、開場、予ベル、注意アナウンス、本ベル、入場、演奏、退場、休憩アナウンス、休憩、みたいな順序です。

ゲーム音楽の楽団は比較的よく「注意アナウンス」で遊びます。自分が一番最初に聴いたのは、2006年あたりのFCBの9thコンサートだったかでの「携帯電話の電源はお切りください。ゲーム機はオッケーです」みたいなもの。

自分もここの部分では何度も遊んできたんですけど、今回はフライングしてここから世界観をはじめてみることにしよう、というのが今回の試みです。

ご来場いただけなかった方のためにお伝えしますと、二度目の開演前注意アナウンスの音声を途中から乱し、そのまま中断させて演奏開始、最初の曲間MCで「全員異世界にワープした」という設定を伝える、ということをしました。

異世界ならやりたい放題なので全身タイツが出てきてもオッケー。

と、いった設定でした。あと10年バンドが続いたらもう一度あそこに行って「おまえら、また来たのかよ」って言われましょうか。

 

アンケートを拝見させていただくと、やっぱり演出小芝居たくさんじゃないか、というご意見も、今回は本当に控えめでしたね、というご意見もあり。けっこう意識に差があるのが面白いところです。

 

自分の話をします。

十年間、GAMEバンドで自分はなにをしていたかな、と考えていて一番最初に頭に浮かんだのは「利害の調整をしていた」でした。

楽器はほかの楽団でも演奏した。物語は個人で書いてる。ものづくりもほかのグループがある。でも、利害の調整は、自分が主体的に発言しているGAMEバンドでしか、おそらくほとんどやってない。

この「利害の調整」の話は、ここに書くべきことじゃないかな、と思ったんですが、GAMEバンドのほかにも、知人友人にはいろんなところで楽団、グループに携わる人がいると思うので、なにかの参考になれば幸いだと思って、そのままここに書くことにします。

いくつかの集団に所属して、集団のなかで物事を上手く回していくためには、「それが正しいかどうか」ではなくて「それの利が大きいかどうか」で考えるほうがよいと実感しました。

人生のなかでいろんな場面に遭遇したけれど「それぞれの利を最大限に追求する」ほうが「正しさを追求する」よりも所属している人が幸せになりやすい、と言ってしまえると思います。

 

「正しいかどうか」という軸は「正しくない」という対立の概念を産むことになります。「この場合、A案が正しくて、だから対立するB案はひっこむべき」という主張になってしまうと、批判されたほうは「こちらのほうが正しい」という反論をすることになって、そこからは価値観の争いになってしまう。この価値観も「正しい」は絶対的な価値観でなくては主張しづらいので、そういう「正しさ」が一般的にあるんだ、という意識とセットになってしまいます。

楽団の場合に起こりがちなのは「演奏のブラッシュアップに最大のコストをかけるのが『正しい』」という議論です。これが様々な不和を産みがちなのは、長く音楽に携わるかたならご経験があるのではないでしょうか。

短期的にはそういう不和が生じるし、長期的には、状況が変わったときに、変わった状況に対応しづらいという不和が生じます。一度「正しい」としてしまうと、状況が変わっても「いまは正しくなくなった」と自分自身が心変わりするのは難しいこと。

 

でも、利が大きいかどうかは比べられます。A案とB案、どちらも利があるが、より利があるのは今回はA案だ。だからA案を通そう。という採決ならば、なにかほかのものに価値観の基準を委ねることなく、状況にあった最善案を通しやすくなります。ここで大事なのが「調整」です。利をとれなかった人達にはどんな補償をするか? 利をとれなかった人はいないか? 自分たちのとろうとしている利は現在の判断でほんとうに最大になるか?

Cさんはいま、こういう不安を抱えているらしい。ではCさんの求める利を尋ねてみよう。Cさんの欲しい利はこうらしい。その利をかなえるためにはDさんに少し我慢してもらう必要があるかもしれない。それでもCさんの利は全体のプラスが大きい。Dさんにお願いをしにいこう。

Eさんの利をかなえると、全体の利が少しずつ減少してトータルではマイナスが大きい。Eさんにはその事情を説明して我慢してもらおう。

Fさんはマイナスが大きい人だけど、ある場面に活躍してもらうとそれだけで利が特大になる。そのときには最大限活躍してもらえるようお膳立てして、残りのときはマイナスが出てこないようにうまく立ち廻ろう。

Gさんは恐らく、我々の集団に居ないほうがお互いにとって利が大きい。申し訳ないけど、我々がGさんのために変化していくことはできないことを説明して、ご遠慮願おう。

そうしてできたものは、うまく利を最大に拾えただろうか? よかったところは褒め合おう、悪かったところは反省して次に進もう。

 

と、いうことを、十年、調整しまくってきました。ぼくとサシで話した人もいるだろうし、説得・説教された人もいるだろうし、押さえつけられた人もいるだろうし、ベタ褒めされた人もいるだろうし、すーっと通された人もいるだろうし。

そのたびに、自分の判断が妥当かどうか自問したし、ときには間違ってると言われて考え直したし、逆にほかのメンバーの判断にそれはまずいよと言ったこともあるし、たくさんのお互い様があって、その中で自分の利と集団の利が最大になるように調整をしてきました。うまくいったこともあればしっぱいしたこともありました。

 

そういう考えだったからこそ言える話ですけども、GAMEバンドの存在は自分にとって「利」がとても大きい集団なので、今後も可能な限りそれを維持したいと思っています。

そのために自分ができる手段や方法はどんどん変わっていくだろうし、むしろリソースは減っていくだろうから、できるだけスマートに、時には泣きながら切り離しを余儀なくされるようなことも覚悟はするけれども、ただただ、利を求めていきたいと思っているのです。

 

十年、お疲れ様でした。