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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

ゲーム機を折られた画像の写真を見て思った事の話

最初にこのエントリーで問いたいことを書いておきます。

「破壊されたゲーム機の写真って『グロ画像』じゃないですか?」

です。

 

TLをにぎわせている、約束を守らなかった子のDSを破壊した記事なんですけども。

togetter.com

 

僕はこの記事を見たときに言いようのない嫌悪感を覚えたんですね。

んで、この嫌悪感のもとは一体何なんだろう、と思ったんですけども、最終的に至ったのは「たぶん、この『破壊されたDSの写真』だ」というところなんです。

たとえば、社会心理、臨床心理的な実験の場で、ほぼ同じ社会層を2つのグループに分けて、今回の件の「破壊されたDSの写真がある記事」と「ない記事」のどちらか片方のみを見せたとき、二つのグループの反応が違うのではないか? と、思うのです。

仮説だけど、後者のほうが「約束の上のことだから仕方ないよね」という率が高くなるのではないか、と思う。

そのくらい、この写真のインパクトが大きいのではと思っています。

 

ひろく「道具は身体の延長」と言われます。たとえば、杖、もしくは義足なんてものはわかりやすく身体の延長です。

では、ひっくりかえして、子どもが約束を破ったとき、その身体の一部分を破壊したとしたら? これは虐待と断じることができるくらいのコンセンサスがあります。さらにその破壊した子の写真を記事上にアップしながら「しつけのために身体を破壊しました」という記事を書いたとしたら。

これは『グロ画像』です。

DSの破壊画像って、これに近いものなんじゃないでしょうか?

 

似たような感覚をどこで覚えたのかを思い出していったのですが、私的な体験もいくつか思い出せる中、一般的に挙げられる例がありました。バラエティ番組で、登場するタレントの所有物を破壊するコーナーです。

過去に「めちゃめちゃイケてるッ!」コーナー内で、武田真治さんのサックスが破壊されてしまった回がありまして、ネットでもちょっとだけ話題になっていました。

(改造なんですけど、楽器としての機能は破壊されてしまったので破壊とします)

そのほか、何らかの物品を意図的に破壊するっていうのは、ちょこちょこバラエティで見られる画なんですよね。

 

でも「自分は」これがそこそこ苦手です。「そこそこ」というのは、それがモノによったり、その持ち主とのあいだのエピソードをどのくらい知っているかだったり、回復ができるかだったり、ものの値段だったりによって変わってきます。

 

そう、変わってくるのです。僕一人のなかでも、モノに対する観念はこれはOK、これはNGみたいな差異が出てくる。たとえば、事故で破壊された人体はグロ画像だと言えるけれど、事故で壊れてしまった物体の写真はきっと自分はグロ画像だとは思わない。

けれど、人為的に破壊された物体の画像はグロ画像に近い嫌悪感で見ている。暴力の意志を画像の中からみて恐怖しているのかもしれない。

 

そしておそらく日本の中だけで考えても、このモノとその破壊については支配的な価値観がない。だから、今回の記事のように「破壊できる」「破壊したものの写真を撮影できる」「破壊したものの写真を記事として掲載できる」ということが起こる。それらをした人達はとくべつ異常なんじゃなくて、単純に観念の差の振れ幅の中にいる。

モノに攻撃を加えることができる人は、自分と比較的近しい人のなかにもみることができます。一方で僕はどんなにイライラしたとしてもティッシュ箱すら投げられません。それなら自分の身体を攻撃するほうがまだ気楽にできる。そしてそのどちらも、おそらくは特別なことではない。

 

「破壊」についての写真と記事を実際に見たときにもやっぱり支配的な観念がないから、今回の件について「どう論ずるか」ということ、不快感をうけた自己に対する納得のための説明は別のところに行くのではないか、と思っているのです。

これでは躾としては成功しない、とか。

おなじことを自分がされたらどうか、とか。

その説明のされかたはいろいろだと思うんですけども、これは「破壊された画像」もしくは「破壊行為」についての、自分を納得させるための説明ではないだろうか。

 

と、いうわけで、この件については「モノと身体性」みたいなところでいろいろ考えたんですけども、短く言うと「グロ画像を見た嫌悪感が換言されてるのが、今回の件に対する反応の中心なのではないか?」ということなのでした。