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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

下げる話をすると下がらんでいい人までいっぺんに下がるマイナスがでかいって話

ありとあらゆる年齢のときに似たような記憶があるんですけど、こう、学校の先生だったりとか、集団のなか人前に立っている人とかが、もうなんていうか怒り狂っちゃったりなんかして、ただその元凶の中心である人がそこにはいないか、もしくはその原因の人は集団のごく少数だったりするんですけども「なお」全体に向かって怒り散らしたり、お小言を言ったりすることあるじゃないですか。ご指導と称して。

 

「ほとんどの人はちがうけども」とか「ここにいる人に言ってもしょうがないんだけど」とかを前提条件として言っちゃったりして。

 

このとき、その話を聞かされている大部分の人達の心の中では、どんなことが起こっているのかなー、ということを考えているんですけれども、当然のこと気分のいいことではないです。「いや、自分はきちんとやってるんですけど」というプライドもあったりするからね。

 

ではそういう時に「聞かない」という選択肢ができるかというと、それは難しい。「話終わったら戻ってきますわ」っつって出て行くことはできないし、その場で耳を塞ぐわけにもいかないし、選択的にそれを聞かないっていうことも難しい。

 

じゃあどうなるか。その話は聞かされざるを得ないと思うんですね。聞かされたら、その話を大なり小なり「受け入れないといけない」という、無意識的な心理が働くんじゃないでしょうか。

 

だってその場から逃げるわけにもいかない、聞かないわけにもいかない、そのうえで相手の怒りも受け入れなきゃいけない、ってなったら「じゃあ自分も悪い」を受け入れないと、その場の力関係ってどこにも着陸しない。

 

そう。別にその話の対象じゃないひとが、話を聞かされてることによって、しかたなく無意識的に「自分はその対象なんだな(じゃないと、こんな話を聞かされるいわれはない)」という感覚を抱いてしまうんじゃないか?

 

この時怒ったり小言を言ったりしてる方は「いや、そんなことはなくて、その一部の人だけ聴いてもらえばいいんだって」と思ってるかもしれないけど、そんなことはできないですから。だって無意識下だし。

 

結果として「下げんでいい士気まで下げる」ってことになっちゃうんじゃないでしょうか?

 

じゃあどうすりゃええのんよ、ということもきちんと考えておくと「下げない」ってことだと思うんですよね。

下げない、否定しない、文句を言わない。けど、上げる、肯定する、指示する。たとえば一人ダメな人がいる場合には、全体に対しては「(一部の人なんですけど)Aがダメです」という言葉を言うことなくただ「BすればOKです、Bしてください」とだけ言う。

そうすると「ダメじゃない多数の人」が「自分はAでダメなんだな」という無意識的な受け入れをしなくて済む。Bができてるかどうかだけを評価すればよい。

 

と、思うんですが、マクラなのか前口上なのか、最初に下げてからお話をいただくことは、いまも結構多いです。

スピーチング、ってもっと一般教養になっていい分野だよなと思うのです。

特に、指導者や上役を評価するような制度に乏しいこの社会では。