馳浩文部科学相は5日の衆院予算委員会で、運動会での「組み体操」の中止について「重大な関心を持って、文科省として取り組まねばならない」と述べ、前向きな考えを表明した。維新の党の初鹿明博氏の質問に答えた。
ところで、子どもの体力は年々低下傾向にあるというデータが文部科学省より出ています。
この二つを同時に出したのは、以前にも言及したことがあるお話でして、
「組体操は危険性が大きい」に対する答えが、
「じゃあ、組体操をやめよう」って、短絡的じゃない?
ということなんですけども。
ちなみに、前回この話に触れたときには主にピラミッドが問題になっていました。
ピラミッドのある世界と、ない世界のどちらが好きかという話 - paper-view
組体操っていうのはそもそも危険なもので、だから運動会とかでも結構長い時間を使って練習をしていると思います。
百メートル走やら綱引きやらっていうのとはちょっと枠組みが違う。
んで、同じこと書きますけども、なぜそれをやるかっていうと、人の身体ってどう動くのか、ということを勉強するわけで、そこには「約束された危険」ってのが必ずあると思うんです。
約束された危険っていうのは、つまるところ「これをすると怪我をするかもしれない」という前提を持ったうえで「でも、気をつけながらやってみよう」ということです。
だから一定数けが人は出るけど、それは「自分たちの身体についてきちんと知るためだから」っていう約束があるから、了解しましょうよ、というのが、教師と子供と保護者が体育で考えておくべき前提だと思うのです。
だから、議論するとするならば「運用方法」「危険管理の方法」「人員配置」だったりなんだりするはずで、そのうえで「学習効果」と「危険度」のバランスをとることが肝要なわけです。
当然けが人も出る。そのけが人が出るところまで含めて学習。
つまりそれを「中止」するということは、その分の学習効果を「棄てる」という選択をするということで、それが廃止派の論調の中には基本的に考慮するものとして出てこない。
出てこないのは、ひとつにはそもそも廃止派が義務教育を通ったときにその学習効果をきちんと得ることができなかったからで、体育の効果がわからず、危険なところにばかり目がいく、そういうキャパの狭さが原因か、と予想しています。ただこれは、ムーブメントとしてはそこまで大きくならない。
もう一つ面倒なのは「子どもの安全」という見た目絶対的な正義を盾にする事の正義活動の楽しさを知ってしまった人達による動きです。これにはまってしまうともう「中止させることこそが正義」になってしまうので「いやいや、学習効果とかあるよね」とかが全て「じゃあ子供が怪我してもいいのか」というカウンターになってしまう。(そんで、この考え方を適用する人は時に信じられないコストをかけてその正義を執行し、その執行は通常業務を有無を言わさず阻害するレベルにまで達することがある。)
「でもまぁ、組体操って別に廃止してもいいんじゃない、そんなにあぶないならさ」って思うのは普通だと思うんですよ。
けど、その「一番危険なやつ」が排除されたら、その次に「二番目に危険なやつ」がターゲットになるんじゃないすかね?
まえ、似たような感じで柔道の授業がやり玉に挙がってるのを見たことがあります。「柔道 授業 事故」あたりで検索すれば探せます。
で、それを続けて行った結果「子どもの運動能力の低下」っていう、誰も責任を取れないところに着陸するんじゃ、ないでしょうか? 結局のところ、どこかのレベルで危険を承認して取り組むしかないと思うんです。
「じゃあ、運動能力は保てる、それでいてこれまでより安全なプログラムを開発しよう!」ってなると、これは正しい。けども、どう運用するか。「教育課程に組み込み」「教師がそれに習熟し」「子どもに十分理解してもらう」っていう開発と組み込みと学習のコストは「組体操」に勝てるのか? 軟着陸させるにはかなりの時間が必要なのではないでしょうか。
っていう、中止じゃない議論が必要だと思うんですけど、そういうのが見えてこないのは、最初に立ち返れば体育教育で「あぶないけど、やってみるんだよ」の了解を得るプロセスを置いて行ったという失敗なのかもしれないですね。