おっぱい募金というイベントについての中止運動が起こってるとtwitterで流れてきました。
感覚的に「うわぁ」となってしまったことに対して、理由をつけて自分自身を含む人々を納得させようとするのはよくあることで、これも最初はそういうところからスタートしてるのかなぁ、なんて思っています。
中止を訴えかける署名ページの文章は「許せません」とか「失礼ではないか」といった感情的な言葉がそれなりの数出てくるので、そこらへんが理性的にされているのか? というところに疑問がある。
とくに性産業は否定しないよ、と書いているところが面白くて、つまり「募金」という公益性をうたってポルノのハードルを下げることがよくないらしい。
「いいか」「悪いか」っていう話から波及していって、じゃあ募金しないほうがいいのかとか、男も出せばいいじゃないかとか、いろいろと反論があるんですけども。
それらすべての反論では「募金」という言葉でポルノのハードルを下げていいのか? というところには明確な答えが出ないような気がするんです。あらゆる「じゃあ○○は□□じゃん」という指摘は、問題を上手に捉えられない。
「募金」という言葉には確かに「いいこと」のイメージがある。
「ポルノ」という言葉や現象には確かに「秘匿されるもの」のイメージがある。
これはつまり「領地を拡大する」といった問題なのだと思います。
いいとかわるいとかそういった議論を抜きにして「おっぱい募金」というイベントは、ポルノに対するそれまでとは別の動きを見せた。
それによって「秘匿されるべきもの」のイメージが付きまとう「ポルノ」はほんの少し、社会的な領土を拡大したわけです。
そうすると、領土を拡大「された」ほう、つまりポルノを通常は表出させない「日常生活」のほうは、ちょっとだけ踏み込まれている。
ここでこの踏み込みに対して「ちょっと待って」を言わないと、踏み込んだ側は「おっ? まだいけるのかな?」と、さらに領土を広げるかもしれない。たとえば「おっぱい募金」が踏み込んで、もっと過激な性的サービスを提供する募金になったとしたらどうか。
街中のオープンスペースでおっぱい募金が行われるようになったらどうか。
それはなんとなく、日常生活に混沌が引き起こされるようなイメージがないでしょうか。
そのバランスの変化がいいかどうかは個々人のポルノに関する観念によって変わってくると思うんですけど、こういう何らかの領域の拡大に対して、ちょっと待ったが出ること自体は、バランスの維持としてはよいのではないかな、と思います。
じゃあ僕はおっぱい募金の中止に賛成なのか、というとそうではない。どっちか表明するつもりもないんですが「許せない」っていう感情的な言葉選びをすることも「じゃあおっぱいを揉んだうえで募金がないほうがいいのか」という反論をすることも、趣旨からずれている空中戦のような気がするよなぁ、と思うのでした。