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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

何を常識として理解したがっているか考える話

ツイッターにRTで流れてきたこんなお話がありまして。

 

 

なるほど、と思いつつ、実質的に「講座」は成立するんだろうか、と思ったとき、こりゃー難しいなと思ってしまいました。

 

なぜか。

仮定の話として、今後数十年後、いま子育てをしている世代(A世代)が孫を持つ時代になった際に、アレルギーに対する医学的・科学的パラダイムシフトが発生し「克服はできないからアレルギー物質を与えてはいけない」から「アレルギーを克服できるようになったので、アレルギー物質を与えるべき」に変化が生じたとして、A世代の人間はアレルギー物質を積極的に与えることを容認することができるか。

 

これはものごとの理解の深さによって変化していくと思うんですけど、そもそものアレルギー物質が危険だという理屈がわかった上でなら、それを克服する手段ができたとき、その変化を容認することができると思います。

一方でこの理屈がわからないまま、アレルギー物質は絶対ダメという結果「だけ」を受け入れてきた人は、パラダイムシフトについて来れなくなります。克服できるようになっても「絶対与えたらだめ、死亡事故になる」と信じ続けることになるのではないでしょうか。

 

いま、この仮定と同じことがこの「アレルギー物質だからダメ」と「好き嫌いだから克服させる」のあいだで起こっているわけです。科学的というよりかは文化的、教育的な見地の要素が含まれているわけでもあるのですが。

けれども、ある「常識」を自分のものとして固定化させたとき、それを変えるのはとても難しいことだと思うのです。

 

でも、だからこその講義で、常識の変容をさせるべきなんじゃないの? ということなんだと思うんですが、今度はその導線が難しい。

 

冒頭に引用したツイッターで紹介されている出来事は、親世代(好き嫌い克服可)と子世代(アレルギー物質不可)世代の対立なんですが、子世代が親世代と共に論戦の末→医者のところに行き→医者という「権威」によって→親世代の常識を更新する、

ということが起こってます。

 

これをどうやって達成するか。

親世代と子世代はどちらも自分の常識が正しい思っている。

子世代は、親世代に対して常識を変えてもらいたいと思っている。

親世代は、自分の常識を変えたいとは思っていない。

この条件下で、アレルギー物質による症例の怖さを伝え常識を変容させる講習会に親世代を来させるための「講習会の表題」や「キャッチコピー」はどんなものが適当でしょうか。

「アレルギー物質は怖い!」だと、親世代に響きませんので、人が集まらない。

「好き嫌いは克服できる!」だと、子世代に響きませんので、子世代が親世代に伝えない。

「好き嫌いは克服できる!」と称して親世代を呼ぼうとすると、表題の内容を盛り込むか、盛り込まないでアレルギー物質が怖いだけ伝えるかですが、前者だと「好き嫌いは克服できる!」だけを印象に残して自分の常識を護ろうとし、後者だと表題と内容が違うという批判となる。そういう批判を受けても出演してくれる「権威者」はどのくらいいるか。

 

タイミングや条件がよかったり、コミュニケーションが取れてたりして、個別的にアレルギーと好き嫌いの問題を切り分けられるのはとてもいいことだと思うんですけど、広く常識を変えさせようとすると、とても大変なことだと思うのです。とくに、新たな知識を得ることを義務付けられていない、教育終了後の大人に対しては。