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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

ピラミッドのある世界と、ない世界のどちらが好きかという話

風立ちぬではなくて組体操の話。

 

TL見てると組体操のピラミッドが危ないって話がたくさん出てきてまして。

ピラミッド批判とか廃止論がいっぱい出てくるのでうぇえええって思ってたんですけども。

 

この話ですごく威力が強いのは

・ピラミッドという組体操種目は確かに危険が伴うこと

・危険の担い手が未成年者であること

 

で、まぁこれがとにかく強いんです。加えて、

・組体操という種目を行うことのメリットがちゃんと言語化されないこと

・言語化されないまま実施され続けたことによって、効果が後ろに隠れてしまってること

 

があって、とにかく批判側の勢力が強くてしょうがないなーと思っていました。

 

自分の意見を先に表明しましょう。

「ピラミッドとか組体操をやめるこたないけど、運用はちゃんと考えたほうがいいんじゃない」

ということです。

 

組体操のピラミッドには確かに危険が伴います。そう、危ないことであって、それはツイッターでも、高所作業とかそういうことが色々流れてきた。

ではやめるべきか? というとそうではなくて、これは約束の問題だと思うんですね。

 

・ピラミッドは高いところに上る人をみんなで支える集団行動である

 つまり、自分の行動が他人を危険にさらしたり、他人によって自分が危険に晒される

・落ちると危険

 怪我する。怪我する確率をゼロにする事ができない。

 

これらを説明した上で「参加者の合意をとって」ピラミッドを形成するなら、外野がギャースカいう余地はなくなるはずなのです。そして、この集団行動、自分の行動が他人を傷つける、またはその逆、怪我をするかもしれない、というのはそれこそ体育の教育の中心であると思うんですよね。

 

だから、それをどうこう言うなら代替の教育手法案を具体的に出して運用しないといけない。

それは途方もないコストであって、これがすでに全国的に確立されている「組体操のピラミッド」に勝てるか。たぶん勝てない。

じゃあよいのはピラミッドの廃止と新案ではなく、ピラミッドの正しい運用だと思う。

 

けど、長く確立したものほど形骸化します。

教育の題材としてピラミッドという演目をやるはずのことが、ピラミッドという演目をやらなくてはならない、という風に逆転してしまう。たぶん現場の一部では逆転してしまっているし、いま、こういう批判がたくさん出てくるということは、ピラミッドによる教育に「失敗した」という結果の一つでもあります。

 

でも、止める、って言ってる人の話を聴いて単純な廃止論に陥るのは、我々が無能であり無能であれって言っているのに近いんじゃないかなって思うんですよね。

管理下で危ないことをする、危ないことを経験する、というのは、そこには確実にリスクや犠牲者が一定数伴うけれど、社会的にはそれに余りあるリターンなのではないかなぁ、と思うのです。