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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

出るもんと出たもんについての評価の話

いろいろ出ているので「ぼく」の視点からお伝えします。

僕のblogなんで僕以外の視点から書くことなんて不可能なんですが、それをいちいち明示しているのにはしているだけ、そういう視点もある、でいいじゃないか、と思っているからなのです。

 

■出るもんについての評価の話

FF7のリメイクについてどう、こう、という話があったんですが、同時期に「あの花」の実写版なんかもあったりして、twitterの自分のタイムラインは一時そこらへんへのお話で騒然となっていました。

実写化とか、ゲームのリメイクとかは比較的叩かれやすい分野だなと思っているのですが、それにはそれなりの理由があると思っていて「いま」それが起こっているのは大体、それによって利益を受ける人がいるかどうか、という点と、叩くことそれ自体がコミュニケーションの定石の一部になっているかどうかかな、と思っています。

という僕の考えているようなことは受け入れられにくい。ふつう、その人の思考ってその人が自分の心で決定していると錯覚しやすいし、なんらかのバイアスを受けているかどうかを再考することってあまりない。

だから「本当は、何らかの外部バイアスを受けて、作品をマイナス評価しているけれど」「自分は自分の意志でマイナス評価をしていると思っているので」「作品の中にマイナスだと取られるべき要素がなくてはおかしいと思うようになる」ということなのだろうと思ってます。

 

前になるほどなぁと思って心に留まったのは、アフィリエイトブログは、広告収入を稼ぐためにはweb広告の多いスマホゲーを持ちあげる必要があるので、コンシューマーゲームを叩くのだ、ということがあって、それだけでは不十分だなと思いつつも、その「利益を産むかどうか」ってすごく大きいだろうなとは思いました。

だからはちまとか刃とかの論調は、それが上品か下品かはともかくとして「利益を生むから」そういう論調になっていく。

誰かが何らかの形で作品を叩くことによって利益を産むなら「バイアスをかけようと思う人」というのは、誰かに作品を叩くように仕向けると思います。意識されないやり方で。(もしくはそのバイアスをかけようとした仕掛け人も本当は無意識なのかもしれない)

 

どっちが先かはわかりませんが、そういうわけで、いくつかのジャンルの作品は出た瞬間にとりあえず叩きまわしていくのが「ふつう」になってしまいました。たぶん今後もその流れは止まらないと思います。かかっているバイアスはたいてい、バイアス自体が変わるまで再考されないからね。

中和するためには新たなバイアスを用意して「叩くことが不利益を産む」が顕在化していく必要があるんだと思うんですけど、今のところその方法は思いつきません。

 

というわけで叩いてる人には「それって出る前からそんなに叩く必要ある?」とは、よく思ってます。

 

■出たもんについての評価の話

センセーショナルな事件というのは、基本的に忘れたいものであるし、悪は悪でないと困ってしまうし、悪は社会とは切り離されていなくてはならない、と考えるのはふつう。

けども、悪というのは善と悪とをきっちり区切ったときに、いろんな考え方が入り混じる「同じ社会のなかから」発生するものであり、すなわち悪というのは自分と地続きのところにある。

それを否定したり嫌がったりするのも社会の機能だし、それじゃまずいよね、たぶん犯罪減らないよね、ということで再社会化を図ろうとするのも社会の機能である。

 

じゃあセンセーショナルな事件に関するものごとはどうあればいいか。というときに当然の反応は「被害者のことを考えろ」でこれは大正義なんだけど、大正義だからこそ疑ってかかるのが、僕のような視点の人間の仕事なのだと思うわけです。

では商業主義であってもそれはいいのか。というところですが、それはもう不問にする。なぜなら作る作業は生きてなきゃできないし、金を稼ぐことなしに生きることはできないから。じゃあ最初から作るべきじゃなかったんだ、というのは、究極、自分の社会から出た悪そのものを今後も、自分とは違うものだと否定し続けることにならないか。

それは普通の反応かもしれないけれど「社会的に」善い反応かどうか。

なので僕は「あってもいいし、出たなら出たということで受け入れるしかない、出たものを受け止めるかどうか」と、思うんですよね。 

 

件の本はそのうち、読んでみようかと思います。