渋谷区の同性パートナーシップの頃からか、同性愛に関する話題をちょこちょこみるようになり、さらにそれに対する反応も見られるようになったわけなんですが。
擁護するにしても、反対するにしても、どうにも自分にとってはすっと入ってこない感じがする。
たとえば、同性婚を認めると出生率は下がるのか、どうか、という話で、反対派は「自然でない」とか「出生率は下がる」というし、擁護派は「むしろ上がる」とか「同性婚が禁止されても異性と結婚はしない」という理論になるんですけども。
空中戦に思えてしょうがない。
なぜなら結婚が愛情を伴うものであるというのはここ最近のトレンドでしかないはずだから。
僕の祖父母は見合い結婚です。恋愛結婚はせいぜい僕の一代上くらいから始まった文化。
共同体(家柄とか、部族とか)同士の関係の契約として、構成員同士を社会的につなげる「婚姻」が、様々な紆余曲折を経て現代は「恋愛結婚が主流」となっているわけです。
その「様々な紆余曲折」はジェンダー研究とか人文社会科学の歴史をご確認ください、として。
同性愛の根底は「誰を愛したっていいよね」であり「愛は素晴らしい」だと思うんです。
その社会的承認として結婚があるのはわかる。でも結婚で戦うのは分が悪い。
なぜなら結婚には上記したような契約の側面が残っているから。
現代において「結婚」は「愛情」と「社会的契約」が癒着しているわけですから、そこから「愛情」だけ抽出して認めてもらうのは難しい。
たとえ話としまして。
A族とB族がそれぞれ構成員を一人ずつ出して、結婚させましょうとなる。
結婚させましたら次世代をこさえますから、そうして生まれた子はA族とB族それぞれにとってゆかりのある人物となる。
そうなるとA族とB族は戦争しづらい。どちらが攻撃するにしても自分の血筋のゆかりのものを殺すことになる。だから結婚が争いの抑止になる。
もしくは、政略でもよい。
皇族Aと臣下Bにおいて、Bが成り上がりのためにAに自分の血筋の者をとつがせようとする。子が産まれれば血筋の自分は皇族となり、メリットがある。
と、いうような社会的な機能は、同性婚においてはその効果を発揮することができない。もしくは弱い。
僕は異性愛者だから、同性愛者の方が感じている社会的立場と、欲している社会的立場をリアルに感じることはできないんですが、という言い訳を置いておくことにはなるけれど、上記のような理由で、同性婚の話題は「同性愛」と「婚姻」を分けて話したほうがいいんじゃないかな、と思うんですよね。
義兄弟だったり、縁組姉妹だったり、そういう形で、血筋を伴わない愛情を承認しようという言葉や仕組みはいっぱいあったわけで。
それではなくて「結婚」という言葉の中に全部つっこもうとすると、上手くいかないよなぁ、と思うのです。