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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

愛という便利ワードを封印していく

以前まで「ゲーム音楽演奏会におけるゲーム愛」みたいなものについて話してました。

その中身としては

「そのゲームのことを良く知らないプロの演奏」よりも

「そのゲームのことを良く知ってるアマの演奏」のがぐっとくるよね

という言葉に集約できるんですが、これが「愛があればOK」みたいな感じの便利ワードとして変化していき『愛あるアマ』というのが揶揄対象にもなってきてるので、そういうのはやめたほうがいいんじゃないのかな、というお話をしたいと思っております。

 

おしながき

・プロオケとアマオケを比べることに意味はない

・愛によって変化する演奏とは

・規模を考えて体よく分離しよう

 

・プロオケとアマオケを比べることに意味はない

なぜかゲーム音楽の演奏会はプロオケとアマオケが同じ土俵で語られます。

たぶん、市場が小さかった頃に、プロアマすべてを把握することが難しくなかったことが要因だと思います。

 

ふつうプロオケとアマオケは同じ土俵で語らないのではないでしょうか。

なぜなら前者が商品であるのに対し後者はコミュニティだからです。

アマオケは土地だったり、所属に根付いているものがほとんど。全然知らない人、かかわりのない団体の演奏を聴きに行く、ということはメインの目的から離れるんじゃないでしょうか。チケット有料の場合も、多くはそのコミュニティの維持費の一部負担という性格が強いと思います。

プロオケはそれに対して、質の高い芸術という商品にたいして対価を払って鑑賞するものですから、アマオケとちがいその出自やコミュニティは二次的な要素になると思います。もちろん特定の奏者や演者を支える! という側面も舞台芸術にはありますが、その「支える」は生活を支えるというレベルであり、やはりアマオケでいうそれとはレベルが違う。

 

なんでこんなに違うものを並列に語ろうとしてしまったのか。

 

・愛によって変化する演奏とは

実際に聴くと結構違うんですよ。ほんとうです。

なにがほんとうかというと「たぶんこの人たちはもとのゲームを理解しているな/していないな」と感じるということです。

それが嬉しいことかどうかは聴く人によって違うのでどちらでもいいです。共通体験を再確認しに来た人はうれしいでしょうし、そうじゃない人はそうじゃない、それでいいでしょう。

どうしてそういう違いが現れるかというと、結局のところ、楽譜というのはそれ自体では演奏に関わる要素をすべて記述しきるのが困難だからということに落ち着くと思います。

たとえばクレッシェンドをかけたとして、それはいったい数値にするとどの程度なのか? 音価は表記されたものぴったりで妥当か? アクセントはその表現で正しいか?

これに対する奏者の一つのアプローチが原典に触れることで、元のゲームを繰り返し遊んだことによって、楽譜に書かれている、もしくは書かれていない指示に対応した表現として再生される。結果として、プレイ経験のないプロの演奏技術の高さよりも、そのゲームをプレイした体験の多いアマの演奏ほうが、ある聴者のゲーム体験を喚起する一点突破に成功することとなった。

 

と、いうのを短く表現したのが『愛ある演奏』だと思われます。

結果としてある聴者のゲーム体験を掘り起こした、というだけで、それは技術力が高いことの証明ではないです。

『愛ある演奏』というのは結局『なんか聴いたらむっちゃテンション上がったわ』を一般化するための言葉、と言えてしまうと思います。

が、それが分解されないから、なんか便利な言葉として愛が使われてしまうようになった。

ゲームを知らない人が別の人の「愛ある演奏でよかった」という評価を聴くと「なんじゃそりゃ」となってしまうという弊害が出た。

 

結果としてなぜか うまいプロ vs 下手だけど愛あるアマ みたいになってしまったんですが、最初に書いたように通常はプロとアマを並列でぶつけないと思います。

 

規模を考えて体よく分離しよう

以前もブログで書きましたが、もうゲーム音楽演奏のフロンティア時代は終わりをとっくに迎えまして、プロの方々も市場として参入してますし、特段珍しいものでもなくなりました。

そういう規模になったら、どっちのがいいよね、とかで語らなくていいんじゃないでしょうか。

うまい外メシを食べることと、友達と家メシをすることは違う。

その内メシがうまかったかまずかったか単体の評価をするのが違うということではないです。外メシと内メシ、プロオケとアマオケを並列に語るのは、変な話だよなぁ、ということなのです。