先日発売の3巻で完結した「ケンガイ」を読み終えました。ネタバレいっぱい書きますので気を付けてね。
「ヒロインラスボス級」という2巻の帯にある通り、絶対なびかないヒロインの心のびみょーーーな動きが表現された漫画と言えるかと思います。
「恋愛をする」という要素が漫画上でどうなるかを単純化していくと
・「わたし」が「あなた」を「好きになる」
・「あなた」に「わたし」を「好きになってもらいたい」
と、まずは分けられると思います。
大好きな相手を思い浮かべて悶絶したり、相手が自分のことを好きになってくれるかどうかで思い悩んだりする。
そういう描写がすごく薄いのがこの「ケンガイ」という漫画の特徴かと思います。
第一巻では主人公の伊賀くんは何回か、明確に上記のような「恋愛」をしている場面があります。
が、それが巻を追うごとにどんどん薄くなってく。最終巻では「成就する」が目的になって、彼の恋心はもう無いんじゃないのか? と疑うほど。
しかしそれは妥当な選択で、なぜならヒロインの白川さんは「恋愛」とそれに付随しやすい色々なものが受け入れられない。
なんでか。
それは恋愛をすることによって「変われ」と暗に要求されるからだと思うのですよね。
絶対に明示はされないですけれど、人と人の関係には変化が付きまとう。
マジョリティはマイノリティに、やんわりと、でも確実に「変われ」と迫ってくる。
マイノリティの側にいると必ず受けるそれを、頑なに、時にはやや子供っぽく避け続けているのがこのヒロイン。
結果として伊賀くんはどうしたか、というときちんと対応していて「白川さんの傍にはいる」「しかし白川さんは変わらなくていい」というメッセージを暗に送っている、のだと思います。本人がそれを意識しているかどうかというと、怪しいな、というのが描写で感じた所です。
が、白川さんは伊賀くんを忌避することをやめるようになる。「白川さんは変わらなくていい」「じゃあ伊賀くんがいてもいいか」という「変わらなくていいこと」そのものが白川さん(と伊賀くんの間の距離)の変化に繋がっていくのは逆説的で面白いところ。
それらがメタ的に描かれている映画館の席の座り方も比べていくと面白いところ。
読み終わってみると「このヒロインを落とす」という明確な目標がある紛れもない恋愛漫画であるはずなのに、恋愛であるような心の動きの描写が殆ど皆無で、そこが巧みだと思います。メイン二人以外の恋愛も一切描写されない。
描いてない登場人物の心の動きを探っていったほうが、そして場合によってそれらの考察を突き合わせて議論するほうが数倍楽しめる漫画だと思います。