paper-view

ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

『おおかみこどもの雨と雪』を観て

細田守監督のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』を観ました。
観賞日は7月22日。
20日ほど経過して、観賞した人が多くなり、ネット上でも様々な感想や考察が散見されるようになってきました。


感想にはネタバレを多く含みますので、まだ観ていないという方はご注意を。


感想を書くにあたっては、以下を参考とさせていただきました。


映画「おおかみこどもの雨と雪」(オフィシャルサイト)
『おおかみこどもの雨と雪』におけるヒロインの怖さ
『おおかみこどもの雨と雪』の本棚
そのほかレビューサイトなど。


オフィシャルなものも含めていくつかの言及に触れて、しかしどうにもしっくりこないのです。
特に前段の知識をもたず、過去に楽しんだ「時をかける少女」「サマーウォーズ」と同じ監督の新作ということで観に行ったこの映画ですが、僕は楽しんで観ることができました。
全くの疑問を抱かずに観たというわけではありませんが、全体としてよい余韻を感じることができました。


自分が何らかの作品に触れる際には、意識的に「作り手がなにをしたかったのか?」を探ろうとしています。
その点で観ると、細田監督自身の言葉も含めても、どうもストンと落ちるものがない。


どうにか、作品全体で納得がいくような説明を自分に対してできないものか。
そこで「一番見せたかったシーンはどこか」を中心に「キャラクター配置」を考えてみることにしました。


さきにまとめますと「おおかみこどもの雨と雪」は……
1:「雨と雪の自立」を
2:「花=母親」の視点で観る
ということに機能特化した作品なのではないか、という結論です。


この作品の主役は「花」のように見えますが、あくまでタイトルは「おおかみこどもの雨と雪」です。
ですので、主役は「花ではなく」雨と雪のふたりであるという立場をとります。
ふたりのおおかみこどもが「狼」と「人間」のあいだでどちらとして生きるかを「選択」するシーンが、映像上もクライマックスであることはご納得いただけるかと思います。
雨は自己決定として明確に狼として生きて行くことを決めたし、雪は二度目にカーテンが揺れたときには狼にならなかった。
このクライマックスシーン、ふたりの異なる決定に至る過程を中心として、他のキャラクターの機能と配置、という視点で読みこんでみます。


花について考えてみます。
視聴者の視点を背負う役割をもっていると思われます。
作品上では雨と雪の誕生までに、視聴者を花に感情移入させるという課題があります。
さらにもうひとつ課題があり「この話の中心を花の子育てにしない」というものです。
このため、花の子育てにはネガティブなシーンがほとんどありません。

また上記リンク先、花の選択した生活と選びとった本についてですが、これについては「田舎生活」が先で、その肉付けのために選択があったと考えていくことにします。
なぜ「田舎生活」をしなくてはならなかったか、については、貧乏だから、とか、他人に頼るわけにはいかないから、などの説明はできるにしても、究極的には雨と雪が人間と狼のどちらを選択するかについての可能性をイーブンとするためだと思います。
そのためには完全な自然下で他の人間をシャットアウトするわけにもいかなかったし、完全に都会下で「平成狸合戦ぽんぽこ」のようなおり合いのつけ方をさせるわけにもいかなかった。

田舎生活を送ることをポジティブにとらえる人間性を構築するには。
そういう理由で花の本棚も選ばれたのではないでしょうか。

派生して韮崎さんについて。
彼はそういう「花」をサポートするための役割として特化されています。
花が一人でいきなり田舎で農業を始めて成功などできない。
そこをサポートするためには、韮崎という人物は必要でした。
逆に、生活が確定していくほど韮崎さんの影は薄くなっていきます。


「彼」について。
彼については早期で退場していただかないと、雨と雪の自己決定に補助を与えてしまいます。
視聴者が花の視点から雨と雪を見て「どうしたらいいのだろう」と思うためには、安心を与えてくれる先輩=彼が居ると成り立ちません。
狼の姿のまま死亡することで、大人になっても抗えない生理的な動物性も見せてくれているし、動物として処分されることで花が人間社会に頼らずに二人を育てる決心を与える役割でもあります。
だから二人の自己決定が終わるまで出て来れませんでしたし、「彼」が出てきたときには視聴者にとってこれ以上ないごほうび=花への肯定となっています。


草平について。
唯一雪の真実について知る役割を与えられたというよりかは、花と雨以外の雪と関わるほかのすべてのキャラクターが、雪に人間を演じさせる役割をもっていたと考えたほうが早そうです。
人前で狼になってはいけないと教えられた雪が人間として生きて行くことを決めたとき、それはすなわち「彼」がそうしたように、本当に大事な人の前で狼であることを晒すかどうかという選択も背負わされたわけであり、そのために草平は男の子として気になる女の子にちょっかいをかけ、また少し周りの大人から孤立し、雪を受け入れやすくする存在であることが望まれたのだと思います。


と、整理していくと、雨と雪、ふたりの異なる自己決定のクライマックスを彩るため、人間と自然のあいだにある田舎ぐらしという環境が設定され、それを自然にするために各キャラクターが配置されていったという説明はそれなりに自然に流れるのではないでしょうか。


ここから更に邪推して、細田守監督の狙いは「『自然に』視聴者を花の視点に同化させる」ではないかということを提唱してみます。
そのためには「これは雨と雪の自己決定にいたる過程だ」とするよりは「花の子育ての物語だ」という説明をして、視聴者を最初に花に向けたほうが効果的だと判断したのではないでしょうか。


おおかみこどもの雨と雪」は(サマーウォーズもそうですが)感情移入できた人と、できなかった人が顕著に別れているようですが、それはたとえば「花の子育て過程」や「いなかぐらし」など、クライマックスシーンに至るための助走のところで、何らかのひっかかりを感じて、雨と雪の母親の視点に移れなかったことが原因という考えができるのではないかと思います。
さまざまに無理のあるシーンはあります。だけど「雨と雪の異なる自己決定」を見せたいシーンだとしたとき、これを二時間で映像としてまとめよという課題を与えられたとき、この脚本は優れているのではないかと、自分は思うのです。