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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

ヴィーナス&ブレイブス ネタバレつき感想の話

 ずっと前に買ったまま積んでいたゲーム「ヴィーナス&ブレイブス~魔女と女神と滅びの予言~」をプレイしました。超よかったです。

 以下ネタバレもあるので、ご注意ください。

 

 もともと7~モールモースの騎兵隊~もプレイはしていました。両者に共通するゲームシステムが素晴らしく、4人×3列ぶんのマスに最大7人のキャラクターを配置し、先頭の列は攻撃、中間は補助、最後尾は回復を行い、これをターンごとにローテーションして戦闘を行います。敵の攻撃はあらかじめ行動内容が明示されているため、敵の行動内容から、こちらが敗北しない編成を組んで戦闘に挑むというものです。

 

 また、キャラクターの成長システムもJRPGでの、経験に応じて上昇し続けるものではなく、ゲーム内の加齢とともに上昇、ピーク以降は急速に下降します。最大14名のチームのメンバーを、ピーク年齢とともに入れ替えながら進みます。ヴィーナスアンドブレイブスでは本編は100年以上継続し、キャラクターの活躍期間はどんなに長くても15年程度。100人以上ものキャラクターが加入しては脱退していきます。

 

 ストーリー面がまた素晴らしく、主人公は不死者。それ以外の多くのストーリーキャラが、主人公よりも早く老い、そして天寿を全うしていきます。前作の7ではこの寿命システムに至らずに本編が終わるため、この「不死者」が入ることによるドラマは無かった。不死者によって、100年以上戦い続ける騎士団の個々の団員が想像以上に光っていきます。

 

 特に序盤でのウォルラスとフリーの子弟関係は最初の落涙ポイント。ああ、しまったこれからこういうゲームをプレイして、自分はまさに主人公たる不死者ブラッド=ボアルの視点になるのだ、と思い知らされます。

 以降も増えていくキャラクターと、そして去っていくキャラクター。しかし中盤、さすがに(PSPは読み込みも遅いし)ゲームはややマンネリになっていきます。なにぶん、ストーリー面以外は単調なゲームです。

 しかし、マンネリとはいえ緊張感は漂い続けます。最後にはボス戦が待ち構えているわけですが、その時に強いキャラクターが部隊に揃っているとは限らないのです。いまは強いメンバーが揃っていても、彼ら彼女らは十数年後に衰退期に入ります。その時までに子孫を残せているか、子孫を残しても活躍までの十数年はどう運用するか。思ったより気持ちが落ち着きません。

 いくらかメインストーリーに絡む、ユニークキャラがいるわけですが、そのイベントが終わるとユニークキャラも一般のキャラと同じ扱いになってしまいます。隊を離れるときも、天寿を全うするときも特別なイベントはなく他と同じ扱い。うーん、なんかちょっと淡泊だぜブラッド=ボアル。そんな風に思ってたんです途中まで。

 

 後半は予言された終末に向けて話が展開していきます。ボスと思われた奴を退治して現れる真ボス。そして出る最終章の章タイトル「ヴィーナスアンドブレイブス」ああもう泣いちゃうよ。大好きだよこういう演出は。ベタだけど大好きだよ。

 

 ラスト、なんとか、なんとか運もあってラスボスを倒し、そして流れるのは前作7のテーマアレンジ。そう、ヴィーナス&ブレイブスの舞台は7の400年程度後の時代の話なのです。それでさらに泣いちゃう。

 更に、流れて行く今までの年表、活躍した団員たち、そしてその生涯の「年表」。

 あっ、これ、むしろお別れが淡泊でよかった。もしもっと濃厚な別れを何度も重ねていたら、ここの画面で正気で居られる気がしない。と、ここに来てわかったのでした。

 イベントのない通常のキャラでさえ「あのころ活躍してくれたなぁ」とか思うし、ストーリーキャラと同じ「苗字」のキャラクターがいると、ああ子孫も頑張ってるんだなぁなんて思っちゃうわけです。淡泊にしてくれないと別れが辛すぎる。彼らは戦い、人生を生き抜いていったが、100年以上戦って勝ち得た平穏を彼らに伝えることはもう永遠にできないのだ。なんて、なんてしんどいんだろう。ブラッド=ボアルの人生。それでも君は笑うじゃん。すごいよ。

 

 ラストには、あの人どうなったんだろう、の丁寧な回収。

 お見事です。素晴らしいです。ありがとう。

 50時間遊びました。それだけやれば当然愛着も湧くってもんですが、本当にすばらしかった。

 サントラがほしい。

 サントラがほしいぞ!(事情は把握したうえで)

 

 以上、感想でした。

 

ヴィーナス&ブレイブス ~魔女と女神と滅びの予言~ - PSP

ヴィーナス&ブレイブス ~魔女と女神と滅びの予言~ - PSP

 

 

映画のレビューの感想の話

 映画の「ヘラクレス」(2014年10月24日公開のブレット・ラトナー監督のほう)を見たときに、twitterで「この映画面白いよ!」というのを見かけたことがきっかけだったんですけれど、自分の記憶ではこの頃くらいから、自分のtwitterのTLに映画情報が流れてくるようになったんです。

 

 以降、Twitterで盛り上がっている映画は比較的外れがないぞ、という時期が続きました。劇場版ガルパンシン・ゴジラズートピア、さよ朝、ってなもんで、だいたいどこかしらから面白い映画情報が入って来てて、それはあんまり外れがなかった。

 

 で、ここからする話は「Twitterをもとにして観たら外れるようになった」という趣旨ではありませんので、それは先にはっきり言っておくとしてなんですけども、Twitterを使って映画の感想を言うというのが一般化してきたような印象があるとともに、原作ありのメディアミックス映画の感想が入ってくると、Twitterの感想をうのみにしていいのかは判らなくなってきたということが言いたいのです。

 

 つぶやいてる人も最初から高いテンションで観に行って「良かったよ!」を言うために見てるような感じ。それを言わせるために映画も最初からハッシュタグ用意したりしますよね。#マジジュマンジ とかそういうの。

 

 さらにキャラクターものだと、それ以前の作品のブーストがかかっているので更に判断が難しくて、たとえばコナンとか、刀剣乱舞とか、いまやってるのだとシティーハンターは観る人は相当ブーストかかってると思う。

 

 実際、最近シティーハンターは観に行ったんです。で、これは面白かったのか、面白くなかったのか、と言えば面白かったんです。が、自分はシティーハンターをアニメでも漫画でも通ってきてないので、ブーストしてる人達に置いてかれてる感じはあるし、面白かったけれどめちゃめちゃ名作だったか!? っていうと正直そうは思えてはいない。同窓会みたいな。

 

 逆に、自分は先日のドラゴンボールブロリーを観て絶賛したんですが、これもたぶんドラゴンボール通ってない人とかだと、そこまで名作にならないのかもしれない。

 

 ということで、前と同じ感覚でTwitterから情報を手に入れても、Not for meになる確率が高まってる気がするなぁ、と思ったのでした。

 今は「アクアマン」は、使われている語彙がちょっとブーストかかってるなぁ、って思っています……が、これはこれで逆方向へのバイアスがかかりやすいので、よろしくないんですよね。

 

 なんていう感想を、Twitterに流れるレビューを観ながら思っていたのでした。

自宅を購入したときのメタゲームの話

 実は自宅を購入していました。

 常々、自分は自宅をみんなが買う風潮はまずいとか、そういうことを言ってたと思うので、なんで買うことになったのかを書いてみます。

 

 最も大きな理由は部屋が漫画等のメディアで狭くなってきたからです。いつのころからかメディアを棄てるということをやめて、これは蓄積と貸し借りに使うべきだなと方針決定をしたので、明らかに物を置く場所が足りなくなってきました。

 

 地域によって差がありますが、当然スペースが大きくなるほどに家賃は大きくなっていくので、これが住宅ローンの返済シミュレーション額と比較してどうかというのが指標のひとつになります。

 当時住んでいた家以上のスペースを得るよりも、住宅ローンのほうが月当たりの負担額は同程度か小さくなる。

 

 次に長期的視点で、借家に比べるとこっちのほうがとても大きいのですが、何分デカい買い物なので、精神的な安定感を得るためには安心要素を稼いでおくことが重要です。

 特に、大きな額の負債を抱えるわけですから、それの返済について立場を決めておかないといけない。

 自分の場合は、仕事がいやになったときに別の仕事に鞍替えできるかどうか、というのは精神衛生上すごく重視していたことだったので、負債を抱えるとここに硬直性が生まれるのはデメリットだと思っています。

 が、今は在籍年数と賃金と環境と、様々な要素が重なって、少なくとも自分の意思で職場を離れるということのメリットは相対的に小さくなってきました。仕事がいやになったときにはいやになった原因のほうを全力でツブすほうが得だ、というところに来ました。

 となれば、ひとまず収入と仕事選択の硬直性についてはクリアしたこととしました。

 

 次に、ローンについての考え方ですが、お金を借りるときに重要なこととして、借りて何をするのかということで、借りて何らかの資産を得て、その効用を長く享受する、借りないより借りたほうが効用が大きくなるなら借りるべきで、小さくなるなら借りないべきです。

 これについては住む、ということなら借家だけでも問題ないので、住む以外の要素を見ていく必要がありました。

 ということで、一番重要視した要素は「いざというときにもっぺん売れるかどうか」です。住む前からも売ることを考えるのが一番ベスト。

 以前に不動産について軽く学んだ時に「住むことしかできない家」というようなフレーズがあって、それが心に残ってました。そもそも住宅って住むためのものですが、同時に売り買いの対象になるものです。買ったはいいけどそのあと実勢価格が下落しつづけたりするようでは、それこそ住むことでしか使用できなくなる。

 住む、もっぺん売る、の二面で考えていきました。

 なので、売りづらい家は価格より価値が下がる。たとえば自分が何かやらかしをしてローンが維持できないってなるとき、家を売ろうとして残債と同程度またはそれ以上で売れればいいんですけど、そうじゃないと売ってもローンが残るから多額の債務者になってしまう。

 やらかすの先に怖がるのかよ、というとそうではないんですが、やらかしても大丈夫というセーフティネットがあるというのは長期的な精神衛生上かなりのメリットがあります。そういう危険が外部要因によって起こることだってありえるわけですから。

 

 てことで、多少割高に見えても、もっぺん売れるな、というおうちにしました。もっぺん売れるおうちってなんじゃ、ってなりますが、通勤がよかったり、環境がよかったり、そういう面です。ここで安いけど住むしかできないようなもの掴むと、負債額は小さいように見えますが、結局額面よりも大きな不安を抱えることになります。

 

 ってなあたりに加えて、自分のあらゆる生活面を考えて諸要素をクリアーできる物件が「たまたま」見つかったので、購入に走りました。

 

 なので、いまでも自宅をとりあえず購入するというのには反対で、数十年前にあったマイホームを持つこと自体が価値観であったりするのは危険と思っているんですが、自分が買ったときにはそういうところ、自分に致命的な事件が2、3起こったとしても精神を健康に維持できるか、を検討して買いました。

 なにかの参考になりますれば。

夢と狂気のエンターテイメントビジネスの現在(シンデレラガールズ6thライブ名古屋day2感想)の話

アイドルマスターシンデレラガールズ6thライブ名古屋day2に行ってきました。

4thからライブも参加するようになったデレマスですが、今まではずっとライブビューイングで現地は初めてです。

現地でのライブ自体はもう十年くらい前にJAMProjectのライブに誘ってもらって行ってきた以来。もともとそういう文化圏に属してなかったためで、劇場でなにかを見る、っていうと、劇団四季だったり宝塚だったり、小劇場の演劇だったり寄席の落語だったり、あとはクラシックやゲーム音楽のコンサート系。

 

というわけで、現地でライブを見ていたんですが、ひとまず先に「今回の」ライブの感想を言っていきたいと思います。

 

■~開演

現地についたらもうドームの前は芋洗いだったので、チケットを用意してくれた友人と合流後は早々に中に入ってしまいました。けど、そこからはただ開演を待つばかりになってしまったので、もうすこし表の状態を見ていても良かったのかもしれないです。

名刺交換もしてみたかったのですが、担当アイドルが同じような人を見つけられずそれも断念。予習不足ですね。

中に入って最初にざっとステージを眺めて、今までライブビューイングで観ていたものの実物はこんなに大きかったのか……と溜息。ライブビューイングではこのお城を下から見上げるアングルにはまずならないので、下から見上げることができるというのがとても新鮮で有難かったです。吊りものの照明がいっぱいだった。

 

■イリュージョニスタ! ~

最初がSnow Wingsだったのはちょっとびっくり、もっと後ろでやるのかと思ってました。前半はソロの曲が多かったなという印象なのですが、中でも「追い風Running」は今まで見たより中島さんが可愛く見えました。なんでだろ、角が取れたのか、自分が慣れたのか。逆に「アツアツ♪マカロニグラタン」の種﨑さんは、色んな役の拡がりを知ってるせいか、五十嵐響子と種﨑さんをダブらせて観るのが困難になってきた印象。

で「楽園」の関ちゃん会沢さんは見たら落涙してました。居るじゃんあれ、なに……?

SS3Aでも見たはずなんですけど、SS3Aってキャラよりも曲にフォーカスしたイベントだったと感じていて、6thで観たときは個別衣装だったことも相まってか実在感がすさまじかったです。また寄せてくるんですよね。会沢さん本人は額を出さないほうが綺麗に見えるのに、そこを関ちゃんに寄せてくるわけですから有難い話です。この辺後述。

ここまでで座席からはステージは肉眼で観れないと達観。ゴンドラは見える。浮きたい。

 

■あんきら!?狂騒曲 ~

「きらりんロボのテーマ」は楽しい。「Treasure☆」もこういうコントができるとなると新しい楽しさですね。「おんなの道は星の道」がとても良かったんですが、曲がしっかり聴ける作りになっていたのがハマったんだと思います。

で「ラブレター」です。これ現地で良かった! というのは天井に映るラブレターの封が開く演出が見れたこと。お城にも映ってるんですが、それがドームの天井にもいくつか映っていて、これは面白いなーと思っていました。さらに三人揃ってあのアイドルアイドルしたキュートキュートした曲を演じられると、デレステ初登場したときのインパクトも思い出されて心にびしばし来ましたね。

 

■はにかみdays~

思ったより記憶ない。というのは落ち着いて聴く曲のほうが多かったからだと思う。

 

■Frozen Tears~

「Frozen Tears」は自分の中でやっぱり渕上さんは西住みほのイメージが強いので、これもキャラのイメージから遠いところで聞いていた曲だった。

モーレツ☆世直しギルティはSS3Aで一度聴けていたので、落ち着いて聴けたと思う。これも面白い曲だと思うので「Treasure☆」みたいにコントしてほしいと思うけど、歌詞にセクシーギルティーって入っちゃってるから難しいかなぁ……

 

■Nation Blue~

「Nation Blue」がサイバーグラスの二人だったとき思わず「やったー!」って叫んでた。「楽園」と相まってそれぞれ今回の感情の臨界点二カ所。でもこの時に思ったのは「あっ、春菜も比奈もかっこいい……」ってなことでして、ずっとこの二人のギャグキャラしか観ていなかったため、そこを掘り下げられたっていうのが驚きとともに可能性を感じた所です。後述。

「∀NSWER」もすごかったね。朝井さんの気迫が凄かった。

そこからはどんどこどんどこ情報量の嵐だったけど、alwaysについては語りつくされているので、何を書いても陳腐になってしまうような気がします。

 

■どこだったか忘れたけど

ライブビューイングではできない、現地で「後ろを向く」ができるのがほんとに楽しくて、何を見てるかってレーザー照明を見てるんですが、これが交差したり、会場に当たったり距離が遠くなると拡散していくのが本当にかっこよくて、ああこれいいなぁ使ってみたいなぁって思っていたのでした。

あとはやっぱり「高さ」です。高さのあるステージ。

 

■ということで

凄く楽しんだんですが、しかし全体を見ることはできない席だったので、次はアリーナじゃなくスタンドでみてみたい、と思ったんですが、それはそれで望んで手に入るものでもないので、機会があったら、ということで。

 

ライブの感想ここまで。

ここからはジャンルを超えた話をします。

 

いつだったかライブビューイングでアイドルマスターのライブを観に行って、この時は自分でも年に何回かのめちゃくちゃ機嫌が悪くなっている日だったので、必要以上にライブを冷静に見ていたんですが、ずっと「不気味の谷」を感じていたことを覚えています。

生身の人間がキャラクターを演じる、その声優が歌う、というのはどういう文脈で観ればいいのか? にその当時の自分はうまくフォーカスすることができなかった。ゲームの知識からだけではだめだった、と感じた。

それから何年か経って「ラブライブ!」で再びアイドル、かつ二次元のアイドルのライブを見たわけですが、これが昔見たものよりも数倍進化していて驚いてしまった。不気味の谷がかなり小さくなっている。そしてキャラクターと生身の人間を行ったり来たりしているコンテンツで、曲だけでもキャラだけでもなく、ライブ全体がひとつのコンテンツとして成立していて、どこから入っても自然に見ることができるように工夫されていた。

すごいな、と思ったわけです。

その後にシンデレラガールズの4thライブからスタートしてライブビューイングを観るようになったんですが、4th~5thくらいまではどちらかというと「声優」だったと思うんですね。間のトークもキャラじゃなくて声優としての会話だったし、ゲームの衣装を着て、キャラクターに寄せている人もいるけれど、でもそうでないひとはそうでなかったりして。

それが6thになったとき会沢さんを見て「関ちゃんだ……」とかNation Blueを見て「比奈と上条ちゃんかっこいい……」って思わず思ってしまって、あとから「あれ? 完全に声優を通してキャラそのものを観てるな自分」って思ってしまったんです。

驚きでした。間のMCも基本的にキャラクターとして喋っている構成になっていたのですから、これはもう「声優のライブ」でも「キャラクターソングのライブ」でもなく「キャラクターのライブ」なんですよね。

 

それが特異な事なのか、というのは判らないです。世の中の演劇台本は、同一の演目であれば人が変わっても同一のキャラクターを演じる、すなわち演じる人の個性というのはそこまで重要視されるわけではない、ともいえると思うんです。

けど、じゃあ忠臣蔵を見るときに「浅野内匠頭ー!」って言いながら見るかって言うとそうじゃなくて、ほう、この役者はこうやって浅野内匠頭を演じるのだな、みたいになると思うんです。

でもデレマスのライブ見てるときは完全に「関ちゃーん!」とか「比奈ー! 俺だー!」って言ってもいいような状態になってると思う。そしてそのキャラクターを演じる人というのに代替性がどのくらいあるかというと、ないコンテンツなんじゃないか、と思う。

ないってことは、役者も代替不可能なままそのキャラクターを演じなきゃいけないわけで。

 

で、その更に先にあるものとして「これはすさまじいなぁ」と思ってしまったのが少女歌劇レヴュースタァライトの舞台だったんです。あれはアニメと舞台、キャラクターと声優と、すべてを包めてひとつのエンターテイメントとして丸めていて、ほぼ谷がない。

 

ここ数年で、エンターテイメントってすごく、すごく進化してるなって思ったんです。で、どんどん資力、体力、質と量の競争になってきてる。それはすごく面白い、エキサイティングなんだけれど、そのスピードが速い。

 

この先はどうなるのか、楽しみやら怖いやら、ですが、それはものすごい人々の工夫と競争の上に成り立っていると思うと、感謝というか、尊敬というか畏敬というか、素直に言えば畏れみたいなものを感じてしまうのでした。

コンテンツツーリズムっぽいものを語る2018冬

名古屋でシンデレラガールズのライブに行くってんで、せっかくなのであちこち寄って現地に行くことにしました。

新幹線は移動距離が長くなると乗車券は複数日程使用でき、乗り降りが可能になります。折角なので東海道で旨いものを食べながら移動しよう! ということで

朝食:東京で駅弁

昼食:沼津港で魚

夕食:浜松で鰻

と贅の限りを尽くすことにしました。

 

で、コンテンツツーリズムの話を過去に何度かしていますが、今回はシンデレラガールズのライブに行くために途中で沼津というラブライブ!サンシャイン!!のコンテンツツーリズム現地に降り立ちました。都合沼津は三度目です。

今までと違うのは「淡島に行ってない」というのが大きいところです。沼津からそのまま沼津港、そのあとは浜松に向かっています。

そうして淡島を抜きにしてみてみると、沼津の駅前の街は、寂れて見えた。

いや、実際に、街としては商業施設はあまり大きくないし、商店街のキャラクターもなんだか色あせているみたいだし。

そしてラブライバーも見た所ほとんどいない。

 

コンテンツツーリズムを「常設する」ってのはすっごく難しいことなんだな、と感じました。特に沼津の駅前は特別、観光地ではない。だから「ラブライブ!」がなくなると、普通の商店街に戻るけど、特にラブライブ!サンシャイン!から戻す理由もない。

淡島マリンパークはそこ自体が観光地だし、淡島付近も三津シーパラダイスあたりまで観光地として成立する。

「町おこし」という文脈でコンテンツツーリズムを見ていくと、そこに観光資源がないものを、ただコンテンツだけで飾っても長続きしないのかもしれないですね。

 

一方、シンデレラガールズのライブ、ということで行った名古屋は、町中からシンデレラガールズのライブ参加者でいっぱいでした。たぶんこれは、名古屋ドームで大型のイベントがあるたびにこういうふうに人が集まり、そこに経済効果が発生するのだと思います。こっちはキャラクターをことさら前に出さなくても起こる現象で、イベントのための「ハコ」があるのが強いのだなと思います。

 

コンテンツツーリズム、というものは成立するけれども、その前提には観光資源として利用できるもの、食事、観光スポット、イベントのための施設、という条件があるのかもしれないな、と感じた旅行でした。

 

ライブの感想はまた別に。

ガジェット欲が盛り上がってきたのでChrome Bookを買ったらこれはPC物書きによいぞという話

たまにデジタルガジェットが欲しい欲がむくむくと盛り上がってしまうのですが、特に「出先でちょっと文章書いたり家で書いた文章をいじったりできたらいいのになぁ」と思っていて、今までいろんな方法で試してきていました。

たとえば、windows10タブレットにキーボード付きカバーを付けてみるとか。iPad minibluetoothキーボードを付けてみるとか。もうmac book air(別件で家にあった奴)にしちゃうとか。

しかし家にある母艦PCでwordで書いている自分ですが、これとうまく連携していくのにはどれも帯に短し襷に長しといった状況でした。

winタブは、電池の持ちが気になるのと、さすがにPCのwordを動かすとやや重たい。そしてbluetoothキーボードのちょっと反応が弱い感じも。充電すべきものが本体とキーボードと二つあるのも悩ましい。

mac bookはそこいくとキーボードもよくて、電池もそこそこ持つんだけれど、ふだんwordで書いているとどうしても文字の互換性が気になってしまう。あと持って出るにはさすがに重たかった。

iPadもやっぱりうまいこと届かない感じ。

 

で、また軽量のノートみたいなのがあれば出先でも色々できるかなぁなんて思い立って調べていて、chrome bookなるものがあると知ったわけです。

 

色々調べて、結局買ったんですが、結果今のところとてもよい。

 

まず買ったのはchrome bookの最軽量のモデル(といっても10種ちょっとしかないんだけど)です。

 

 

1キロ行かないのでとても軽く、winタブ+キーボードケースよりも、最初から一体なので持った時のバランスが良いです。膝の上でも使える感じ。

chromebookは最初からchromeでできることしか使えないという超限定性能のために、各種動作は非常にスムーズです。スリープからの復帰も爆速、電池の持ちも良い。

そして何より良かったのが、オフライン状態でもwordが編集できることと、googleドライブとの同期が凄く早いこと。

具体的にはこういう風に運用します。

 

・自宅でgoogleドライブの中に編集中のwordファイルを保存しておく

chrome bookでwordファイルに対してオフラインでも使用する設定をしておく

・出先でchrome bookでオフラインでwordファイルを編集する

・オンラインになると自動的にwordファイルが同期される

 

こんな感じです。他の手段でもできそうですが、chromebookはこの各動作がほかの手段に対して非常にレスポンスがよろしい。

 

難があるとすると、google docsは自動保存なので、大ポカすると一発で作業が消える可能性があることでしょうか。

充電はUSB-Ctypeなので、ACアダプターも要らず、荷物も増えない。文字コードも衝突しない。

 

ということで、とっても気に入っています。

現在で1kg未満のノートを買おうとするとwindowsではかなりのお値段になってしまうので、ちょっと物書きたい&ネットがしたい、という用途にはぴったりはまると思います。chromebook

アニメ映画「GODZILLA」三部作を見た話

アニメのゴジラのネタバレをしてお話をします。

 

godzilla-anime.com

 

公開日にちょうど予定を作れたので観てきました。

 

正直なところを言いましょう。うおおーっ! これだよーっ! というエンタテイメントな映画では

 

ない

 

というのが最初の感想です。

この感想を詳しく書くってすごく難しい。なぜなら

 

シン・ゴジラがエンターテイメントとしてよく出来過ぎている

・自分に『ゴジラ』というジャンルに対する知識が少なすぎる(シン・ゴジラゴジラvsモスラ(たぶん1992年のやつ))

 

を意識してしまっているからです。

 

そのため、ここからは「ゴジラ知識が非常に薄いが『恐らくゴジラってこうなのでは?』という予測に基づいて感想を書く」という、知ったかをしていきます。

 

映画が終わって「この映画はどういう思考に基づいてここに着地したのか?」を考えていました。

その結果「ゴジラとは?」と「勝利とは?」を両方立てた、という話なんだな、と考えました。

 

ゴジラとは?」について。先述のとおり、自分はゴジラという映画をしっかりと観ていない。けど、ゴジラという映画はたぶん、ゴジラや様々な怪獣たち、そして人間たちの戦いの中で「どれかが勝ったり、負けたりする」「今回はなにが勝ったか?」という、様式を得たのだろう、と想像しました。

シン・ゴジラは「ゴジラと人間のガチンコ」「ギリギリで人間の勝ち」。

ゴジラvsモスラは「ゴジラモスラ&バトラタッグマッチ」で「モスラが勝ち、人間も結果、勝ち」みたいな感覚です。

 

そしてそういう枠組みの中で「いかに”かっこよい画”になるか?」が描かれていく。けれど、それが「アニメである」ことによって、強さの数値はどんどんインフレ化する、いや、しなくてはならない。少なくとも特撮でやれることを、アニメのゴジラでやっても意味がないわけで。

だからゴジラは「信じられないくらい強く、大きく」なるし、人間は「ありえないくらい高度化し、種族も増える」のが当然に描かれる。すごいインフレです。でも、アニメでは普通なわけで。それがアニメで「ゴジラを描く」ということになるんだと思います。

 

そんな中でアニメのゴジラに与えられた世界観の中で「勝利とは?」を描いていくわけですが――

人間流石に勝てない。ゴジラ強すぎる。そして「ゴジラを勝たせ」「人間もまた勝たせる」にはどうすればいいのか?

となると「勝ち」とは? を哲学しないといけないわけで。

そこで単体であるゴジラと、群体である人間の「勝ち」は区別されていくわけです。

単体であるゴジラは、地球上で最強の生命として君臨することで勝ちに至った。

ゴジラに滅ぼされ、なお種としては生き続けている人間は、生存することで勝ちに至った。死=負け、生き残っていれば勝ち、というニュアンスでフツアの民が言うのは、この映画の勝利の定義を説明するセリフなのだと思いました。

その勝ちに寄り添うためには、ハルオは、死につながるゴジラとの戦いの芽を摘まなくてはいけない。そのために必要なのは、何よりもゴジラとの戦いに執着しているハルオ自身が闘いのためのテクノロジーとともに消えることである。

と、同時に、ハルオ自身は、結末はどうあれ、ゴジラと戦って終わるという、本懐を遂げるわけで。

思い出してみれば2作目からずっと「勝ちってなに?」が提示されてた。個を棄ててもゴジラを倒せば勝ちなのか。次元の異なる存在とコンタクトすることによって、約束されし宇宙の終焉と異なるところに行ければ勝ちなのか。

ということで、ゴジラも、人類も、(人類に属しているハルオも言うたら)勝った。と。

 

いうわけですが、一方でずっと「ハルオ」の視点を通して観ている観客としては、そうそう簡単に価値観の転換ができないのが難しいところで、これはバッドエンドである、と考えられても仕方のないところだと思いますし「虚淵脚本だし」という言葉にまとめられてしまいそうな気もする。

 

 

けど「ゴジラ」をアニメで描くんだよ、ってなったら、あのインフレになったら、それは仕方がないような気がしたのでした。

「バキ」シリーズみたいだなぁ。って思ったのでした。

 

感想でございました。

欲を言えばモスラとかコスモスっぽい感じもっと見たかったなぁ。っていう。例の歌を歌ってくれれば(そのくらいしかゴジラシリーズ知らないからだけど)嬉しかった。

 

そんな感じです。