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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

沼に堕とすレコメンのしかたの話

例のドラゴンボールでマウンティングされたどうこうの話で思い出したことの話を書きます。

ドラゴンボールの話はリンクはしません。

 

自分の話をしますです。

人から勧められたものはできるだけ触れるようにしております。もちろん、時間は有限なのでどうしても手が付けられないことはあるんですが、ジャンルや媒体に関わらず「これはいいよ」と言われたものはできるだけ触れるようにしております。

 

で、身の回りでなにかが盛り上がっているときに、それに対するお薦めを受けることがあるんですが、そのときの勧め方(以下レコメンと書く)は工夫してもらえればしてもらえるほど有難いです。

 

盛り上がっている方と盛り上がっていない方の間には圧倒的な情報量の差が既にあるので、それをいっぺんに渡されても「いやいやいや」となるわけです。

 

悪友の話をしましょう。

自分はAKBというムーブメントに乗れなかった人間です。アイドルとかようわからなかったですし、すでにテレビもあまりみない時期だったので、よくわかっていませんでした。友人からはAKBについていろいろレコメンを聞きましたが、なにせ48人を超えて大量に居るので、自分としては「その友人が語るコンテンツ」として受取るのが精いっぱい。後追いではちょっと追いつききれない。

ちなみに、このときの入り口として「マジすか学園」1期はDVDは観ました。これは入口としては良かったんですが、同時期に系列のバラエティを見なくてはならなかったのでしょう。当時は確か指原さんが「いいとも」に出るとか地方にいくとかなんとかという時期。日々変わりゆくアイドルの現場にはなかなかついていけなかった。

さらに何事も経験、ということで、CDを頂いてだったかな、総選挙にも投票をしてみました。何も知らなかったので、顔写真だけが並んでいる中で、プロフィールも読み込めない状態で「この子かなぁ」と第一印象で決めました。で、その結果を悪友に報告したら「小学生! ロリコン!」となじってくれました。

知らんがな。で、そこで再び入り口には至れないまま、AKBを深く知ることなく過ぎ去ったのでした。

ま、悪友の軽口は関係性によるものです。だから多少なじられたところでいいんです。が「AKBを楽しんでもらおう」というときに、その入り口に立とうという人間に「小学生! ロリコン!」となじるのが適切ではないことは伝わるかと思います。

 

何が言いたいかっていうと、既に大量に情報持っている「あなた」からその大きな情報量のレコメンを受けてもどうすりゃいいかわからんのが受け手だと思います。冒頭に述べたように自分はどちらかといえば広く作品やエンタメを受け入れるほう、入口をさがす方だと思ってますので、他の人はもっとどうすりゃいいかわからんと思うんじゃないか、自然に避けるんじゃないかと思うんです。

 

なので「入り口」だけ教えてほしいのです。

この商店街には256のあらゆる店があり、それらは全て複雑に関係している。前回商店街総選挙で惜しくも神8店舗をはずしたこの店のラーメンはあっちの店の小麦を使っており、そこの親父さんは三軒隣の酒屋の娘と不倫している。この酒屋の娘と娘の彼氏である文房具やのせがれが(以下略)

なるほどそりゃ確かに壮大な物語だ!

けど「ラーメン食ってみ」だけ教えてくれっ! あとは自分で沼にはまるから!

 

と。

 

なんでこれが起こってしまうのか。

「喋りたい」からなんだと思うんです。

「レコメンしたい」「この作品は素晴らしいから知ってもらいたい」というのは、その想いをうらっ返したとこに「その作品について喋りたい」を持っていると思うんです。

まだ早い。まだこっちは知らないんだって。それはレコメンのような形を持っているかもしれないけれど、実は、喋りたい欲求の方が前に出ていやしないかい。

 

 

と。

 

なんでドラゴンボールのマウンティングの話でそれを想ったかっていうと、人気作品を読んでいないことをなじるっていうのは「私が相手の知らない作品を知っていることで、安全な位置から優越感に浸る」という意味で「喋りたい欲求が前に出た」の極致だと思うからです。

てことは、その延長線上、濃淡の中に、レコメンする行為はあると思うのです。

 

じゃあどういうことかい「勧めるな」ってことかいっていうと、そうではなく。

「勧める」と「喋って楽しむ」のバランスで「勧める」に機能特化するなら、情報はむしろ絞っていくべきだと。

「ここが入口だ」だけレコメンする方が「勧める」としては正着手なのではないかと。

 

と、いうことを考えていたのでした。

「入り口」として適切なものを吟味しレコメンするのは、それはそれでかなり難しいことでもありますが。

 

これが漫画や映画、そこまで広がりの大きくないものごとであれば「読む!」「見る!」だけで済むんですが、メディアミックスされていたり、スポーツみたいにチームやドラマが広く広がっているものだと、やっぱりそういう「入り口」が欲しいなと思うのです。

フェミニズムとか、女性の身体性に関することのメモ

いろいろと話題になりやすいので、覚えていることと考えていることをメモ。

 

フェミニズムというと現在のネット上では「フェミ」と略されラベリングの対象となってしまうけれど、”そこそこ”男女同権(以降はそこそこを省略)を達成している現代において、歴史的な観点で見ることも難しいので「アファーマティブアクション」はそもそも難しいんですよ、という考えを自分は持ってる。

 

例えば昭和初期とか、さらにそれ以前であれば、男尊女卑だったり、もしくは女性蔑視、もっと過去になれば女性は取引の対象、モノ扱いに近かったりする、ということはちょっと歴史を勉強するだけでもそこそこわかる。

 

なので、現代に生きる人も多かれ少なかれ「男尊女卑の価値観下に居た人」はいるはず。今での旅館で出されるご飯はおひつを女性の前に置きわざわざ「女性の方がよそってください」と説明するようで、これはそうしないと客からクレームが来る場合があるそうだ。と、twitterで読んだ。つまり、普段目にしないだけで、男尊女卑の価値観の人はまだいる。

 

過去から現在に渡って男女同権を獲得してきたのは誰かというと、その中にフェミニスト(だけで分類できないことはわかっているけど、ややこしいので省く)、活動家が居たわけで、この人達からすれば「過去に受けた性差別はどこで”チャラ”になるか?」「いま活動をゆるめたら、また男性優位社会に戻るのではないか?」という実体験に基づく不安があるのではないか。

 

同じことは様々なジャンルで言える。被差別部落、身体障碍、黒人などなど。同権にするための活動は、同権に近づくほど歴史について意識されなくなるし、その活動が目について煩わしいと思う人が増えるだろう。

 

それについてどうせよ、こうせよ、というつもりもアイデアもないけれど、だから埋めがたいなぁ、と思うし、たとえば女尊男卑に傾いたとき、同じ方法でバランスを取るしかないのだろうか、という懸念はある。

 

ちょっと話はずれるけれど、こういう「社会運動」はそれ自体もサークル活動的な側面を持つわけで「私たちの目標が達成された!」となると、サークル解散になっちゃうから、これはこれで問題を叫び続けるきっかけになっちゃうな、というのが難しいところ。

 

で、ここから(女性の)身体性に関するメモ。記事タイトルとは別に括弧をつけたのはきっかけはいま話題になってる件が女性の身体性に関わるものだけど、別に女性に限って考えるつもりはないため。あとタイトルをキャッチーにするため。

 

前段でフェミニズムについて書いたのは、この話をフェミニズムにしてしまうと本質を見誤るような気がする、と考えたから。

 

自分はそこそこジェンダーフェミニズム周りの歴史に触れてきたほうだと思うけれど、あんまり女性の身体性を消費すること=人間やキャラクターの女性像をその見た目で一方的に評価したり楽しんだりすること、に違和感はない。これは自分が男性であるからかもしれないけど、究極わかんないよ、という前置きを入れておく。

 

「社会的性別」と「生物学的性別」はここ数年で別でもいいよ、というスタンダードになってきたな、という感覚がある。で、最近よく言われる、キャラクターとして描かれている女性像がどうの、という議論にはこれに加えて「所有する社会/生物学的性別」と「消費する社会/生物学的性別」を加えて分析してみるといいんじゃないか、と思う。

 

例えば「自分」が所有している社会的性別と生物学的性別はともに男性。(これも多様に広がりがあることは理解してるけど、ややこしいのでここは男女二項にさせて)だけれど、男性の人間やキャラクターの身体が消費されていてもそんなに嫌だとは思わない。たとえばゲイはここ十数年ニコニコ動画のネタとして消費されつづけている。

同時に、女性についても目の前の女性が巨乳だ貧乳だとやいやい騒ぐことはしないが、タイムラインに女性や女性キャラが現れると反応したりおっぱいおっぱいと騒いだりはする。

 

似たようなことは男女にかかわらず身の回りにも観られると思っていて、周りには腐女子腐男子もいるし、女性キャラクターの描かれ方で盛り上がる女性も当然いる。コスプレイヤーの方々なんかは、自分の身体で表現しているにも関わらず、その身体の表現結果は自分自信の身体と切り離しているようにも見える。

 

おそらく現代の主流、もしくは穏便な考え方っていうのは「実際に自分が持っている社会/生物学的性別」と「存在する者として消費や利用される社会/生物学的性別」は別である、というものだと思う。つまり女性の前で「この女性キャラクターの胸の表現は美しいよね」とか喋ってもセクハラにはあたりにくい(表現方法や文脈や声色や色々あるので曖昧な表現にとどめる)ということ。もしくは、ライトノベルの表紙や、多少肌色の多い衣装、アスリートのユニフォームや半裸姿などが問題なく陳列されるなど。

 

先に言っておくと、それが男女平等に消費されているかはわからない(計測のしようがない)し、そういう風に消費することが都合がいいから、現代の主流になっているだけなのかもしれない。それは主観から逃れられないので、ジャッジはできない。

 

さて、自分ではない人物、キャラクターの身体表現が我慢できない、という人の中には「自分」の持っている性別と消費、利用される性別が分離できていない人が居る、ということは考えられないだろうか。つまり、ある男性の主観から見たすべての男性、男性キャラクターの肉体は自分の肉体と同じである、という考え方。

 

もしこの考えによって「気持ち悪い」という感覚を抱いているのだとしたら、そこから先はたとえそれがフェミニズムっぽい文脈を持って語られたとしても、実際には「自己と他者が精神的に未分化」ということになったりしないだろうか。そうだとしたら、このお話を表面に出ているものだけで「フェミ」という略語で断じても、お話は空中戦から脱しようがない。たぶん、フェミニズムのようでフェミニズムの問題ではない。

 

現状として女性、女性キャラクターに多くこの話が見られるように思うのは、前段で触れたフェミニズムジェンダーに関する歴史があってのことかもしれない。論法や政治の戦略としてフェミニズムを持ちだすのは、主張する側には強い材料なのかもしれない。

 

「相手がなんか自分たちには実感できないことを主張している」ということは、どうにもフェミニズム批判だけでの反論では弱いように思う。

社会学者とタレントが共演してるときのメモ

以前に爆笑学問だったかで、爆笑問題上野千鶴子さんが出てた時に「ぜんぜん話噛み合ってないな……」と思ったことがあって、最近調べたら古市憲寿さんという社会学者もテレビでコメンテーターと意見がぶつかったりしてるのをネットのニュースで見た。

 

社会学者とタレント(とくに芸人に分類される出演者)は根本的に、話が合わない。と、思っているので、その簡単な整理をここにメモしておく所存。

 

ただちょっとめんどくさいのは「社会学者」として挙がってくる人は「社会学者」だけではないことが多い。政治学者を兼ねてたり、フェミニストを兼ねてたり、まぁ色々肩書があって、で、その時その時で仮面を付け替える。だから「社会学者」としての上野千鶴子さんと「フェミニスト」としての上野千鶴子さんを「同じ人物」として見る視点と「違う人物」として見る視点を両方持っていないといけない。「違う人物」として見るだけではうまくいかないのが面倒なところだ。でも両方持ってないといけない。

 

ここでは「社会学者」としての部分にフォーカスして書く。

社会学者」は「人が複数以上いると現れる、個人を離れた性質に着目し、社会を読み解き、提案する立場」とここでは書き表しておく。社会には偏差で表せば標準的な人と偏っている人が存在しているが、その存在全体の山そのものを観察するのが社会学者。

前に「喪男(モダン)の社会学入門」で千田有紀さんが行っていた「自明性を疑う」を日常的にやっているのが社会学者。

 

ふつうの人は自明性を疑わない。自明性を疑うのは、自らの社会性から距離を置くことで、それなりに訓練が必要だし、やりすぎると社会生活が辛くなる。だから「社会」は自明性をそんなに疑わない。

 

いっぽう、タレントを書き表すには「社会を理解したうえで、その中で突出することで成立する職業」としておきたい。社会で言えば、偏差の偏りのはしっこに居るのがタレント。はしっこにいるために、突出するためには、その集団を何より理解し読み込み、内面化してないといけない。自明性を疑わない。

 

こんな感じで完全に逆なので、そもそも話が噛み合うわけがない。どちらかに合わせるとアイデンティティを失う。

社会学者は集団を見てその全体を説明し、気づきを与えられるような発言をしないと社会学者っぽくなれない。

世の中の人はそんな気づきが欲しいわけではないが、社会学者、という権威「だけ」が存在しているか、優位ならば「なるほどなぁ」と思うかもしれない。

タレントは集団とその性質を内面化しているが、その中で理想像となるように必要な言葉を発することでタレントたりえる。

 

社会学者は「この集団はだいたい9割くらいの人がこういうふうに考えてます。しかし、気づいてないこういう考え方があるのではないですか?」と言う。

タレントは「私は(みんながなりたい、したいと思っている)こういう考えだ」と言う。

耳障りがいいのはどっちかといえば後者。そういうふうに演出されていることが多い。

 

ので、社会学者を一人出しておくと、コメンテーターとわかりやすくぶつかったりしてショー的にはいいんだろうけど、結局のところ社会学のことは理解もとくべつされないし、相性が悪い、と思う。

 

メモでした。

「しかしMPがたりない」さんの第九回演奏会を観てきた話

前回の続き。

仙台のゲーム音楽吹奏楽団「しかしMPがたりない」さんを観てきたのさ。

 

lackofmp.webcrow.jp

 

いわゆる曲の感想とか、何の曲やったかとか、そういうのは誰かのブログに……あるんかいな。今日の時点で検索したけどうまく引っかからなかった。

 

さて。ゲーム音楽が演奏されるようになって何年経ったかわかりませんが、アマチュア楽団が「地域」だけでなく「ジャンル」というコミュニティの分け方で演奏されるようになってずいぶん経ちます。世の中には次々に「ジャンル」で楽団が立ち上がり、様々な様相を呈している。

 

さて、吹奏楽やフルオーケストラの規模の楽団には大きな大きな要素がひとつあります。「人数が多い」ということです。

「人数が多い」ということはどういうことかというと「集団」の性質を帯びるということで、つまり、個人とかポップスやロックのバンドとか、そういう少人数のグループとは全く違う傾向が出てきます。会社とか学校とか、そういう大きな集団の意思決定を個人でどうこうしがたいことをイメージしてもらえばよい。

 

楽団には「様式」「様式美」があります。当然、楽団を作る人はこれまでもどこかのコミュニティで「楽団」に参加してきた人だから、前に所属していたところの様式美を多かれ少なかれ引き継ぐわけです。

で、「集団」の「様式(美)」は、それはもう走っているバスや列車みたいなもので、個人の力では簡単に変えることもできないし、大きく進路を変えようとすると予備動作でじっくり変えないと大事故を起こします。だからふつうはそんなに変わりません。

 

こういう諸条件の中で「ゲーム音楽」は音楽的な「様式」からは比較的自由な立場にあります。ロックあり、ケルトあり、管弦あり、ピコピコあり、自由です。

音楽的「様式」での特殊な性質があった中で、集団のあり方としても良い意味で「様式」から離れていた団体がいくつかあり、そのうちのひとつが「しかしMPがたりない」さんです。エレキベースエレキギター、EWIをふんだんに使い、スクリーンを使い映像があり、役者が登場し、物語があり、パンフに遊びが隠されていることもある。ステージそのものに仕掛けを入れる場合もある。

 

どうしてそれが成立したのか? というのは内部の人しか知り得ないし、ひょっとすると内部の人でも知り得ないかもしれませんが、同じくある程度「様式」から自由なGAMEバンドを例にとれば「吹奏楽も好きだったか、舞台芸術が好きな人が中心にいっぱいいた」ということが大きかったのではないでしょうか。だから、MPさんの中にもきっとそういう人材がいたんだと思います。

 

が、通常のこととちがうことをする、ということはそのまま、その設計をイチからしなくてはならない、ということであり、これができるのは高い能力を要します。スタートから終わりまで、まだやったことがないことを想像して、オペレートする能力が必要です。それは完全に創作であったり、もしくは見たことはあるけどやった経験のないことのリバースエンジニアリング。これをできる人が居たのだと思います。いないんですよ、ふつうそういう人はそうそう見つけられない。

 

だから「しかしMPがたりない」さんはすごいんだよ。という話です。

 

自分の話をします。

数年前から、ゲーム音楽の生演奏、というジャンルは新鮮味を感じなくなり、ありていに言えば「飽き」ました。もともと飽きっぽいと自覚してはいて、実際に現地で聞けば楽しむし、演奏すればテンションも上がるんですが、ある日の予定を埋めようか、というときに、今ではゲーム音楽よりも他の予定を優先することが多い。

で、それは同じ時代にゲーム音楽生演奏を開拓していった人達も多かれ少なかれ同じなんじゃないかと思うわけです。前は関西でも関東でも簡単に行き来して、交流を持って、演奏会をやれば褒め合っていた。今は当時ほどいったりきたりしない。

今、残ったのはそれぞれの培ってきたコミュニティ。これは宝ですから大切にする。そしてそのコミュニティを維持するために、ゲーム音楽をやっている。というように理由が逆転した。そういう割合が、あのころ活発にゲーム音楽生演奏に触れてた人達のあいだで、増えてるのではないでしょうか。少なくとも自分はそうです。それにネガティブな評価はしてません。しかしそうなっているから、自分が属している以外のコミュニティに行く理由は小さくなっている。

 

そんなバックグラウンドのなかでも仙台に行ったのは、もろもろの事情があって、前回誘ってもらったのに行けなかった、今後もいける見込みが薄くなるため、行けるチャンスは活かせ、という言ってしまえば「義理」だったわけですが、結果今回も「すごいもの」は見せてもらえた。「どうなるんだ?」のわくわくも「こうなるのか!」のわくわくも貰えた、というありがたさ。

 

長々話してしまいましたが、いってしまえば自分とMPさんは「相性が良い」のだと思います。自分は広く舞台が好きだし、見たことがないものを見るほうが好き。だからそういうものを見せてもらえるのが嬉しい。想像できないことの方が楽しい。と言うことです。ただちょっと文化祭みたいなことをやっているように見えるかもしれませんが、それが事故らない、というのは、ものすごく高い能力で組みあげられている設計があり、それを支える人があり、それが「様式」となった、奇跡みたいなものなので、もっともっとそこを褒めたほうがいいと思うんですよ。

 

ということで、とてもいいものを観れました。ありがとうございました。

 

ここまでとりとめのない文を頑張って読んだあなたには曲の感想もちょっと見せよう。なぜかですます調を辞めるぞ。

第一部。マザー2は我ながら気を抜いて聴きすぎていた。まぁ今更、マザー2はもういろんなとこで死ぬほど聞いたし、みんな大好きなのわかってるし。みたいな慢心。トンズラブラザーズが楽しいのは判ってるし実際楽しかった。結末は「エッ!」ってなっちゃったけど。

第二部。普通音ゲー音ゲーたる曲は選びづらいと勝手に思っている。なぜなら音ゲーピーキーなeスポーツで、文脈を共有できる人があまり多くないと思っているから。うんうん、猫又とゼクトバッハは生演奏勢も安心だ、いろんなところで選ばれている、だけど、それでも「その曲をプレイした人」と掛算すると途端に母数が減って、団内で相当な権力を持っていないと音ゲーは選曲しづらい。と、思う。

って中でEntranceという曲を持ってくるとかちょっと意味が判らない。うーんこの話絶対通じない。どう例えたらいい。寿司パーティーだよって言ってすごい見た目の深海魚(捌いてない)持って来られたって言えばいい? いや喰えば美味いんだよ?

それから削除さんの曲はほぼアルバムで集めているファンなので珍しく曲ではぁぁぁぁんってなったのだわ。

アイマスは昔見たことがあったので同じ道を通ってしまうのか……ってなった。言ってもらえればキンブレ持って最前する段取りを頑張ったのに。いやどうだろうか。

第三部。ここでようやく「あっマザー2とアンダーテイル両方やるって相当あれなんじゃない!?」と気づく。気を抜きすぎ。牛タンとかずんだ餅でのほほんとしすぎていたことをさすがに反省。MPさんのメンバー構成とアンダーテイルの相性の良さにショックを受ける。これはGAMEバンドの抱えてきた「様式」ではできない。

持ち味活かしやがったなぁ(勇次郎顔)

 

と、いう感じ。楽しみました。

 

MPさんはGAMEバンドと数年ずれの中心年代だと思うので、そろそろライフステージが進むころだと思われるので、今後はどうやって演じ続けるのかなぁ、と、独特のステージを見ながら想いを馳せたのであった。余計なお話だ。自分のところの心配をしていろ、ということである。

 

すごく面白かったですよ。

またいつか行くと思うので、その時まで熱を保ち続けていてほしいなぁ、と思います。

おつかれさまでした。ありがとうございました。

「しかしMPがたりない」さんの演奏会に行くついでに福島と仙台を旅行してきた話

色々あってお誘いいただいていた1月の「しかしMPがたりない」さんの演奏会に行くことができなかったので、9月の開催に行くことにした。

文にしたら8ヶ月で開催してることがわかる。どうなってるの。

 

なお、今回はえむぴさんには触れないので次回のブログでよろしくおねがいします。これは完全に旅行記だ。

 

一か月前にそろそろかなと準備をはじめて、じゃあ仙台に一泊で行きますか! と宿を探してみたらぜんっぜんあいてない。そしてお高い。なにぶん、演奏会行ってから帰ることを考えると、観光で時間を取ろうとするとスケジュールがシビア。土曜の朝に現地に行って、日曜は午前は観光できるかもだけど、午後は仙台で演奏会って考えたら、宿泊は仙台周辺。で終了後帰京。月曜日が休養日。けれど土曜から日曜の一泊仙台、全然よき宿なし。

 

ということで代替案で「土曜は福島に泊まる」。ということにした。福島は仙台に比べて宿がお安く、かつ仙台まで在来線で二時間弱。東京から仙台までの乗車券を取得して、特急は東京から福島まで。福島で一泊して温泉を楽しみ、翌日仙台に行くという勝ちパターンを見出したのであった。

 

そういうわけで昼前の到着を目指して福島へ。東京駅の駅弁屋ってあんなに混んでるなんて、とげんなりしながら購入。鮭はらすといくらの弁当が入口近くにあるのは優引力がとても高いと思っている。朝っぱらからビールも一本。

福島ではさっそくお友達の車に乗せてもらい、お昼ごはん。おいしい生パスタを食べる。正午頃の入店だったけど、その後ガンガン混んでたのでいいタイミングだった。入ったお店こちら。

 

生パスタのお店 REGALO(福島 パスタ・ピザ)のグルメ情報 | ヒトサラ

 

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食事後は飯坂温泉方面と思いきや、摺上川をのぼって公衆浴場「もにわの湯」へ。250円のお値段で露店の温泉に入れるすばらしさ。その代わりアメニティとかはないので自分で用意されたし。入浴中にご立派なモンモンの男性がお子様とともに入ってきてちょっと驚く。

 

その後更に川を上ってダムまで。ツーリング客以外は殆ど人影もなく、ダムを見渡す無人の大パノラマを好きなだけ楽しむ。

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なんかフォークとか旅っぽいBGMでも用意してくればよかった。

 

その後飯坂温泉へ。聚楽のホテル併設の温泉施設「花ももの湯」でさらに温泉。いわゆるリストバンドで会計する系統の施設なんだけど、館内に小銭が必要なマシンもあるのはなんとかしてほしい。サウナと水風呂を行き来して癒しまくる。後から妻から聞いたところによると瓶の酪王があったんだとか。くやしい。

温泉後は有名な円盤餃子を食べるべく照井へ。

 

餃子の照井

 

(えっ……ウェブサイトめっちゃ気合入ってる……)

10組以上待ってた。一時間くらい待ってようやく入店。円盤餃子は野菜多めのさくさくいけちゃう軽い餃子。ビールがとてもよく進む。一皿なら二人くらいでも食べられると思う。オーダーは最初の一度のみで追加NGということなので、思ったよりいっぱい頼んでも多分大丈夫。それ以外はまぁまぁ、一般的な中華料理店だった。

 

その後、お友達と別れ一泊。翌日は軽く福島のお土産購入ののち、昼前に仙台着。GAMEバンドOBの先輩・仙台旅行していたGAMEバンドメンバーと合流し、牛タン。司はものっすごく並んでたので若というお店に入る。

牛たん若泉店

 

牛タン旨すぎる。日本酒もいただく。その後、同じくコンサートに赴くGAMEバンドメンバーと合流し、お土産を物色し、ずんだもちを喰う。うまい。

時間もいい感じになったのでコンサートホールへ。コンサートについては別に書くことにする。

終演後、笹かまなど要冷蔵のお土産を調達し「牛肉ど真ん中弁当」を食べて帰る。帰宅は夜一時。へろへろだった。火曜日まで引きずった。

しかし東北、よい旅だった。またいつか。運転、ご案内いただいた皆様に感謝。

「はしがきシンデレラ」について考えていたことと、これからについての話

はしがきシンデレラ会場 – ~モバマスSS投票イベント~

 

募集・投票期間を含め8/17~9/23の期間で開催した自分が主催のシンデレラガールズ二次創作SS投票イベント「はしがきシンデレラ00」が大きなトラブルなく終了しました。ご参加いただいた皆様、まことにありがとうございました。

 

この記事ではそのイベントの話をしたいと思います。

 

「はしがきシンデレラ」の目標は、

「作者が書いたものがもっと広く長く読まれるようにしたい」

であるという話をここでは書きます。

 

・きっかけ

「一体、どれを読めばいいんだ……」というのが、シンデレラガールズの二次創作SS(以下、デレマスSS)をさがしていた時の最初の感想でした。

 読者としての自分の当時の目的は「自分がよく知らないキャラについて知る」「小説作品として面白いデレマスSSを読む」ということでした。

 

 そんな折に、デレマスSSの「交流会」が開催されると知って、それなら作品を読むにも、自作を読んでもらうにもちょうどいい、応募してみようと思ったのが2017年の冬です。せっかく応募したからには自分も他の作者さんの応募作から読んでみよう、と、開催ページを開いて思ったことが、それまでと同じく「一体、どれを読めばいいんだ……」ということだったのです。このときの交流会は、小説形式の作品で60作ほどの参加があり、それらがずらりと一覧表示されていました。特定のキャラや特定の作者様という「とっかかり」を持たなかった自分には、60作という物量は、選ぶためには多すぎると感じていました。

 

 先に弁解しておきますと「交流会」の機能がよくない、ということではありません。「交流会」は書き手にとって素晴らしいイベントです。それは後段でもすこし触れさせていただくとして、「デレマスSS」全体の視点を取って状況について当時思ったことを整理していきたいと思います。

 

1.書いたお話がすぐ流れて行ってしまう

 Pixiv、掲示板等で発表されるデレマスSSは現在でも毎日かなりのが投稿されており、Pixivだけで考えても、24時間内の新着が(更新を含め)20作以上。とてもではありませんが、自分が読むのに使える時間で追い切れる量ではありません。

 これは読み手にとってだけではなく、書き手にとっても特殊な状況で「一生懸命時間をかけて書いた話ほど相対的に不利」になるということでもあります。「なろう小説」と言われる界隈と同じ、小説投稿SNSのサイトデザインに作者のスタイルが引っ張られる、短く沢山更新する作者が読者を獲得するのに有利な結果になっている状態です。

 

2.キャラが多いからこそ、新しいキャラにたどり着きづらい。

 上述の目的「自分がよく知らないキャラについて知る」ためには、未知のキャラクターが書かれた作品を読む必要があるのですが、183人以上いるキャラの結構な数が自分にとってまだ理解できていないキャラであり、かつキャラクターの組み合わせにはある程度の派閥があります。これがラブライブ!(9人)とかなら一人誰か推しキャラが居れば、作品を読み続けることによって他8人全員にたどり着くことは用意でしょうが、さすがに183人を同じ方法で掘り進めていくことは難しい。たとえば、自分は志希担当ですが、だいたい志希フレ、LiPPS、池袋晶葉あたりと絡む作品が多いと思っています。

 書き手にとってしてみれば、SSをとっかかりに総選挙でプッシュするようなことを考えていくには、キャラによっては非常に厳しい。そのキャラにまだ興味を持っていない、新しい読み手を獲得するのが、同タイトル中であるにも関わらず難しい状況です。すでに人気のあるキャラクターを書く方がずっと読者を獲得できる。

 Pixivではキャラクターでタグ付け等がされると思いますが、検索ボックスに自分の知らないキャラを入れるのは、知らないキャラも膨大だからこそ難しい。選択肢が多すぎて指標がない、選びにくい、と思います。

 

3.Not for Meかどうかわからない

 作品には書き手と読み手の相性があります。テンポ感だったり表現の方向性だったり、これが合致しているものに出会えればとても素敵な事なのですが、それが意外と難しいです。とりあえずひとつ読んでみよう! とノーヒントで開き、それで相性がよくなかったりすることもよくある。せめてヒントが欲しい。けれど、web上に並ぶデレマスSSから、相性がよさそうな作品をさがすのはとても難しい。難しいと感じました。

 読み手と書き手が同じグループに固まっていくのも同じような現象で、「誰か知っている人が書いた」というのは優先して読むべき理由、どの作品を選ぶかのヒントになります。逆に新しい作品をさがすのが難しく、結果として知り合いの輪で作品を回すことになっていくのではないか、とも感じました。

 

 

 

 以上のようなことがあって、無数にあった作品からなかなか自分に合うものを見つけられない一方で、その頃までにいくつかのデレマスSSを書いていた自分としては「自分の書いたデレマスSSがどうやったら広く長く読まれるか」「他のキャラクターに比べて人気を獲得できているとは見えない友人の担当キャラをどうやって総選挙でプッシュしていくか」ということを考えていました。

 

 

ということで、これらを狙ってなにかできないだろうか、ということで考えたのが「はしがきシンデレラ」という催しでした。

 

 はしがきシンデレラで狙っている機能は

 

「現状、図書館状態=目的が無くては選びづらい状態 にあるデレマスSSの場環境に対し『書店の売り場を作る=何らかの基準でセレクトされた、見やすく、数が限定された作品一覧がある状態を作る』」

 

 ということです。そのために下記のようなことを意識しました。

 

A.「表紙&帯文&ポップ」に相当するものを並べる

 タイトルとは別に「はしがき」を用意していただき、この「はしがき」だけで投票できるランキングをやります、というルールにさせていただきました。この「はしがき」には、 読む人の目を引くようなフレーズが設定されていたと思います。読み手にとって、その作品の中身に期待し、知ることができる要素を用意し、それを最前面に置きます。漫画で言えば「表紙」で、CDであれば「ジャケット」に相当します。

 これは、現状のライトノベルジャンルのタイトルがどんどん長くなっていること、小説SNS「カクヨム」等で同等のリード文が設定できる機能があることと同じ、現在のトレンドに従っています。

 

B.数を絞る

 募集当初に、20作以上の場合は予選を設け、本選が20作以内に収まるようにする、としていました。20作という数に根拠があるわけではないのですが、選択肢過多効果を意識しつつ、購買ではなく、アンケートで3つまで選ぶとしたら、というところで決定しました。ルール的に10~20の間で本戦を行うことになりますので、このあたりが妥当かな、と考えました。学術的な知見がもうすこし欲しい部分です。

 はしがき60文字でも、20作ならA4にwordの初期設定でびっしり書いた状態です。このあたりがレイアウトとしても文字量の限界かなと思います。

 

C.ゲーム性を作る/何度も来てもらう

 常にその時点での結果を表示する、複数回投票できることでゲーム性を設けてみました。再度訪れることに意味を持たせ、再度訪れていただくきっかけとしました。

 仮に「はしがき」だけで単純に選んだとしても「選んだ」ならば、その行方、中身は気になるところだと思います。そこに他の人達の投じたポイントも可視化することで、自分の選択がどうだったのかの答え合わせをしたくなるように向けました。そのために、本文アクセスまでに必要なクリック回数も可能な限り最小になるように工夫しました。

 

・まずはできるだけ投票ページに来てもらう

・投票ページに来たら、そのうちの一部は投票してくれるか、本文を読んでくれるはず。

・作者、または作者の誰かに誘われた人は「残り2票」を投じるためにはしがきを読んでくれるはず。

・はしがきを読み、投票してくれたうちの一部はその場で本文を読んでくれるはず

・はしがきを読み、投票してくれたうちの一部は、途中経過を確認してくれるはず

・途中経過を確認してくれたうちの一部は、本文を読んでくれるはず ×n回くりかえし

・最終結果を発表すると最終結果を目にしてくれたうちの一部は、本文を読んでくれるはず

 

 以上のように、イベント開始時点、イベント中、イベント後と、それぞれに作品本文を読んでもらうための布石を置いていました。

 

D.結果を作り、固定して表示する

「ランキングの結果」を作ることによって「実際に人気を得たもの」「For meの期待値の高いもの」を可視化します。

本屋大賞」「マンガ大賞」等のランキングと同じく、ある時点である集団の中のランキングを作ることで「何を読むべきか」に一定の指標を作ることが狙いです。広く読むつもりだけれど、選択肢が多すぎて何を読んだらいいかわからん、というタイプの読者に方向性を用意したいと思いました。

 ここで強調しておきたいことは「ランキングが高い=優れている作品」では必ずしもないということです。結果が数値の優劣の形で出てしまう、というのはこのイベントからして避けられないことですが、作品は読者と作者の相性です。「ランキング一位より、下位の作品のほうが自分と相性が良かったなぁ」というのも、様々なジャンルで皆様に覚えのあることだと思います。

 ここではあくまで「順位をつける」と「はしがきという表紙」を併せて出すことで、読者に一歩を踏み出してもらいやすくする、ということを狙っています。

 そしてそれを「期間を定めて実施したイベントの結果」として固定することで、たくさんの賞賛を得た作品が長く読まれることを狙っています。

 

 以上のように、イベントとしては「はしがきだけ読めばOK」ですが、その中身としては「何度も本屋を訪れてもらい、表紙(=はしがき)を見せて平積みされている売り場を見せ、各作品が『読まれる』ようにする」ということを意識しています。

 

 一方でこの形式の弱点もあります。「交流会」と対称的に、はしがきシンデレラでは感想を貰うことと前提としていませんし、文章の批評も期待できません。読者を参加者ではなく「お客さん」扱いしているため、下手をすれば書き手が傷つくような事態もあり得ます。そういう意味で「交流会」は書き手のための研鑽、交流のためのイベント、「はしがきシンデレラ」は読み手に寄り添った(引いては、読み手に寄り添うことで読者を増やし、作者に資する)イベントと区別できると思います。

 

・これから

 はしがきシンデレラ、は一度で終わるべきではなく、回数を重ねていくことで認知度をできるだけ増していき、認知度が増すことによってランキングの信頼度があがり、読み手に取って有用な情報を提供できるイベントにしていけるのではないか、参加した作品が読まれる回数も増やせるのでは、と思います。二回、三回と実施していくことで、過去のイベント参加作品にもそのたびに少し注目を集めることができます。

 一方でマイナスの機能があり「はしがきシンデレラに興味を持つ読者層」に寄りそう作風に偏りやすい、多様性を失う結果になってしまうことが考えられます。これは開催のレーティングに広がりを与えることで多少回避できると思います。(作品ジャンル限定や、登場アイドル限定など)理想は、はしがきシンデレラだけでなく、異なる評価指標で作られたランキングが複数あることです。

 また、やっぱりイベントを一人できりもりするのは大変だったので、イベントの運営方法を見直してスリム化する、一緒に運営してくれる方を探す、あたりが必要なことかな、と思います。

 

・夢としては

 参加する作者さんが「作者名で」広く知られるところまでいければ嬉しいなと思っています。

 

・反省点/要検討

 実施投票期間→現状はもっと短くてもよさそう。10日くらい

 アンケートシステム→持ち票数はどのくらいが適正かが難しい。いろいろ試したい。

 公正性→自由度とのトレードオフのバランスを再考

 宣伝方法→twitterでスパムフィルタに引っかからないように気を付けること。

 

・次回

 今回は、参加される方にイベント自体をご理解いただくため、そして自分としてはトライアンドエラーのため「まずは実施」ということで、目標は達成できました。今回初めてのイベントに参加いただいた15名の作者の方にはほんとうに感謝していますし、それに報い、この15名が伝説となるように、これからにつなげたいと思います。

 

 ということで、次回は2018年末~年始、レーティングは「2018年中までに発表された作品」というレーティングで実施したいと考えております。詳しい内容はまた後日、twitterおよびイベントページでお知らせしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

GAMEバンドRPGコンサートの話

この記事、なぜか演奏もしていないはずのDQ11のかなり大きめのネタバレをしますので、プレイする気がある方はご注意ください。

 

GAMEバンドのRPGコンサートのスタッフをしていました。

今回は演奏は参加せず、MC原稿とサブステマネで参加でした。GAMEバンドが発足してからすべて演奏参加していたので、演奏から外れたのは初めてです。

 

今回何をしたか、どういう反省があるか、どういう評価をするか、ということのまえに、ひとつ大事なことを。

挑戦は絶対に妨げられるべきではありません。「挑戦すべきではない」ではなく、勝ちを拾えそうにない場合は、どうやって挑戦のエッセンスを保ったまま、勝率を上げるのか、を考え、挑戦者は結果に関わらず、成果とは別に、挑戦自体を内部からは強く褒め称えるべきだと思います。

 

さて、では今回の自分のポジションについてのお話をしておきましょう。今回は演奏会リーダー、委員長の原案に基づき演奏会の進行のMC原稿を作成することでした。毎度、MC原稿は担当していますが、その世界観から自分で決める場合と、原案がある場合とに分かれています。で、今回は原案があるほうで、この委員長の原案はすさまじい挑戦でした。

 

今回のRPGコンサートのキモは、お客さんにRPG(ロールプレイングゲーム)を楽しんでいただきながら、そのBGMとしてゲーム音楽を楽しんでもらう、つまり演奏会として行う、各ゲームの「劇伴」を、その出展元から切り出し、GAMEバンドが用意したゲームの物語の「劇伴」として受け取ってもらう、という試みでした。

 

最初は頭抱え……ませんでした。実は直前にドラゴンクエスト11をプレイしていたところであり「他から引っ張ってくる劇伴」というものが成立することは知っていたからです。ドラクエをプレイしていない方でもわかりますよね。シンなあれです。もっといえば踊る大捜査線でもよい。

ただ、それはやっぱり、様々な前提条件によって成り立っているわけで、そんなに簡単にほいほいと達成はできない。よって

 

・ゲームをプレイしないお客さんに配慮できるか

・演奏会としての体裁は整っているか

・演奏会の雰囲気をきちんと作ることができるか

 

このあたりが自分自身が懸念したところで、できるだけ「こぼれそうなところを拾う」のが自分がMC原稿で物語に関わることの課題となりました。

なにせ原案は、プレイしてもらうゲーム内容とMCの内容があまりリンクしていなかった。結果のアナウンスがなく俺たちの戦いはここからだというピリオドのない展開だった。

でもそれって、リーダーの情報感度が高いことによって選択されてるんです。ある楽曲から、風景や感情を読み取るのは実は高度な技術で、更にそれの出展元となる物語があって、そのシーンとは別に新たな物語にくっつけることができるというのは、高等技術です。自分だってそうそうできない。委員長は許容力と想像力に長けているけれど、長けていることによって、伝わらないかも、というラインを割る可能性が出てくる。

 

この原案の流れをまんま台本にしても、不特定多数のお客さんに渡してもできる人とできない人に別れる。いや、ここで舞台という閉鎖空間にきたお客さんたちに、盲目的に「なんかわからないけどこれは素晴らしいもんらしいぞ」と考えさせるやり方もあるかもしれない。が、そうではなく、できるだけ配慮をしたい。

 

ということで、原案から自分が手を加えていったことと、その意図について。

・劇中の司会はスマートフォンに原稿を表示し、それを読んで進行する

 →ソビーはともかくとして、ヒローシは原稿を覚えて喋るようなことをさせるのは恐ろしすぎます。ということで、ここは二人にお客さんと同じ目線になってもらう、という名目で、スマートフォンを「冒険者用の端末」というギミックに据えることで解決することにしました。

 

・説明は長く

 →委員長が狙っていたことは、最初に全部影MCの説明として伝えきっておくことにした。全部「ご容赦ください」とお伝えしておく。結構反則だけどこの場合はやらないわけにはいかない。

 

・舞台は舞台だけで落ちを作る

 →ゲームがプレイされない、もしくは電波状況などでプレイできない場合、印象の全体は舞台とその劇伴音楽となります。そのため、舞台は舞台で落ちをつける必要がありました。そのため、ソビーは原案よりも五割増しのワガママキャラとなり「棚上げのソビー」という二つ名になりました。最後、二人はこれからの冒険に旅立つところで終わりますが、あれだけ引っ張ったソビーがほんのすこしだけデレてくれるところがオチです。

 この本編は完全にソビーの演技力頼みでした。とはいえここまで色々高度なことをお願いしてきたので、きっとやってくれるだろうと思ってやり逃げ的に原稿を書きました。棚上げのソビーの手前には二人の恐ろしい二つ名をもつ人間がおり、それが丸投げの委員長、やり逃げのぴよ。そして棚上げのソビーなのです。

 でも「棚上げ力」というワードがお客様の反応のそこここ見れたので、うまく回せた、と思ってます。ここは自分を褒めるコーナーだ。

 

・せっかくなので美味しいところはもらうことにした

 →途中の鏡からの「パッとしません」コントのところは、最後に伏線となるアイテムの解説のために必要だったんですが、影MCが足りんというところで自分で書いておいてここは美味しいぞと思っていたので美味しくいただくことにしました。

 

 

 結果として試みはどうだったか。今のところ、概ね好評な感想しか見ていません。が、演奏会、の体裁を犠牲にした、拍手や礼がない、というところはありますし、見えていないだけで、これはだめだろう、本来の作品の雰囲気を損なっている、成立していない、と感じたお客様もいなくてはおかしい。そのくらいの挑戦だった。

 これは我々GAMEバンドの人間が自分たちのお金と時間をかけて作っているものだから、挑戦するかどうかに対してなにか停止をかけられるいわれは全くない。けれど、舞台は壇上の人間と、客席のお客様の両方があって成り立つから、ここのコミュニケーションをおろそかにしてはいけない。もちろん、その形式が存在するのであれば形式をおろそかにしてはいけない。

 だから「挑戦したこと」は大いに誇っていいが、そこに己惚れてはいけない。次の挑戦もすべきだけれど、挑戦に百パーセント成功したとは思ってはいけない、しかし百パーセントを目指し続ける。

 

 と、いうことを考えた演奏会でした。全体としては成功といっていいのだと思います。演奏は横から聞いていましたが、ゲネプロを台風に潰され、その後も通しでの練習をするのが難しい日程があり、そして本番当日は二時間で舞台上のことしか確認できないスケジュール下では(それもお客さんに伝わったり、配慮していただくべきことではないと自覚しつつ)とてもよかったのではないでしょうか。時間配分も含めて、こういう「新しいこと」ができたのは、とてもよかったのではないかと思います。

 

 最後になりますが、ご来場いただいたお客様、誠にありがとうございました。

 団員の皆、お疲れ様でした。次もまた挑戦をしましょう。