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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

本の話 20180612

漫画と小説の感想です。

 

ボールルームへようこそ

9巻まで。競技ダンス(社交ダンス)が題材。絵と物語と感情が合致している、なかなか見れない超画力の漫画なので絶対に読んで損はない。

ちなみに、話は荒唐無稽なところがたくさんあって、ご都合主義でかなりの量進むのだけれど、正直「どうでもいい」と投げ捨ててしまえるくらいにダンスシーンの描写がすごい。借りて読んだのにそのあと全巻買いに走ってしまった。

 

機動戦士ガンダム サンダーボルト

 11巻まで。

 機動戦士ガンダムのスピンオフ作品。たしかにニュータイプと宗教というのはよく合致する……というか、よく考えたらゲッターロボ號で宗教家が出ていたので、メカと宗教はなかなか面白い融和をするのかもしれない。

 ガンダムとゲッターを同列に扱うのが適当かどうかはさておき。

 テーマとともに描写はややえぐい。とにかく宿敵が殺し合うという運命の漫画なので、連載が長くなるほどキャラに愛着が沸き、辛くなっていく作品。続き気になる。

 

 

あげくの果てのカノン

 最終巻。4巻あたりではだいぶドラマが前に出ていたけれど、最終巻ではまたこの「あげくの果て」感が強くて、うぎゃーってなれた。最後の展開はとても速くて、ずごんと突き抜けるような感じ。やばいヤツに置いていかれた感じだけど、追いつかないほうがいい、こういうのには。

 

 

・もしもし、てるみです

 最終巻。一番最後の展開はとても良かった。独特の世界観の中できっちり笑わせてくれるのですごい。「にゃん天堂」が好きな人に向きそう。ズボラ飯よりかはにゃん天堂側に寄ってる。あっ、作者違いましたねてへへ

 

 

・図書館の大魔術師

  帯に「白浜鴎(とんがり帽子のアトリエの人)」の推薦コメントが載ってたので、流行りに乗ったのかな……と思ったけど、後半の画力とアヴァンタイトルの表示の映像表現は強い脳汁が出たので、評価を改め。これは面白くなりそう。

図書館の大魔術師(1) (アフタヌーンコミックス)

図書館の大魔術師(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

・宮廷画家のうるさい余白

  宮廷画家を描いた作品……だけど、今のところはどうしても「アルテ」の後追いの感想をうわまらない状態。ただ「余白」というテーマは描かれていたので、ここからの展開に期待。

 

 

死神坊ちゃんと黒メイド

 2巻まで。ラブコメ。触れると死を与えてしまう坊ちゃんと、坊ちゃんを忠実に愛する積極的なメイドの「触れない」ラブコメ。ラブコメが読みたい時は今はこれだ!

 

 

・レッド・クイーン ガラスの剣

 続きものの2巻。海外のファンタジー作品の和訳。中身としては特殊能力をもつ血筋で支配階級の「シルバー」と、対する労働階級「レッド」「レッド」の中に特殊能力をもつものが出たことによっておこる闘争、異能力バトル、という感じなのだけども、とにかく主人公の少女が情緒不安定でハラハラする。1巻は二人の王子との人間関係で情緒不安定でハラハラ、2巻は王子の一人と幼馴染との間で情緒不安定でハラハラ。「誰が裏切るかわからない」と書かれているのでその他の登場人物も裏切ったり戻ったり真意がわからなかったり、まぁ情緒不安定な作品。

 でも読めてしまうのはそういうのがドラマだからなのだと思う。

 

レッド・クイーン 2 ガラスの剣 (ハーパーBOOKS)

レッド・クイーン 2 ガラスの剣 (ハーパーBOOKS)

 

 

・綺麗にしてもらえますか。

  記憶喪失のポニーテールの麗しい温泉好きのお姉さんが熱海のクリーニング店で頑張るお仕事モノ、という属性でガッチリ固められた一分の隙も見当たらない作品。表紙を見てヒロインが好みだったら即買いでいいと思う。

 とはいえクリーニングの描写は丁寧で、新たに学ぶことも多かったし、お話には謎が隠されていそうなので、単純にヒロインが可愛いというだけの漫画ではなく、続きもとても気になる。

 

 

 

とりあえずこんなもんでしょうか。前にまとめてブログに書いたのがずいぶん過去だったようなので、間がかなり空いてて取りこぼしてるのがかなりありそうですが、ご容赦。

感情込めて演奏することがよいかどうかの話

 普段見るTLに音楽仲間が多いせいか、たまに音楽関係のメソッドだったり心構えみたいなものがひゅっと入ってきます。

 今日はその中に「感情を込めて演奏するかどうか」みたいな話が入ってきたので、ちょうどいいのでそこら辺の観念をまとめておこうと思います。

 

 そもそもなんで演奏をしているのか。

 どうしてこんなことを書いてるのかというと、音楽関係のメソッドとか心構えみたいなことを書いてるのは結構な割合プロだったり、プロの人の伝聞だったりするからです。だからちゃんとここ分けておいた方がいい。

 

 この話では「アマチュアが」「余暇活動として」音楽をするのだ、ということに終始します。自分はアマチュアで余暇活動として音楽を嗜んでいるので、それ以上の話はできません。

 というわけで「なんで」演奏をしているのか。これは気持ちよくなるためです。ファジーな言葉を使いましたが、言い換えれば快楽、エクスタシーに属するものだったり、共同の愉しみだったり、とにかく日々のストレスを和らげ、明日への活力とし、自分を支えるものであるためにそう言うふうにしているのです。

 

 という前提を置いたうえで、じゃあ音楽には感情を込めて演奏することが良いかどうか、という話をしましょう。

 そんなの一般論にすべきじゃないよ、というのが自分の見解です。そんなことはどうでもいい、だから「なんで演奏をしているのか」を最大限濃く達成することができる手段を取りなよ、ということを主張したいと思うのです。

 

 なんでか。自分はちょいちょい音楽をはじめたり止めたりしてました。今主に奏者として活動している楽器、コントラバスは大学二年生の後半から始めたものです。それ以前もちょいちょい楽器は嗜んでましたが、コントラバスほど長く続いた楽器はありません。

 吹奏楽のジャンルで活動しているわけですが、そのあいだずっと言われていたことは「音程が悪い」ということです。これは持ち前の面の顔の厚さでその言葉を無視し、コントラバスをはじめてから十年以上たった今もなお無視し続けています。最近ではインベスターZというよいマンガがありまして「ぜんぜんわからない。俺たちは雰囲気でコントラバスを弾いている」と言えば大抵の場は流すことができます。効果には個人差があります。

 

 それでも昔は音程が悪いと言われて悩んだりもしたものですが、今では悩むことにあんまり意味はないなと思っています。なぜならそれを言ってくる人との経験の差を埋めるほどの時間を確保することは無理だと思うからです。

 音楽はよくよく才能という言葉で語られやすいですが、自分の経験で言えばどう見積もっても「どれだけ音楽に触れたか」でしか実力、感覚についての説明ができません。やっただけ伸びる、やらずに伸びることはない。何年かかけて自分のピッチのズレ数セントが違和感として認識できるようになる、そういうジャンルに置いて、自分より何年も多く音楽やってる人の感覚に追いつき、追い越すことは困難だと判断しました。

 じゃないと、最初に置いた「なんで演奏をしているのか」という目的に対し、必要な練習コストはあまりに大きくなりすぎます。それなら別の方法でMPを回復した方がマシというものです。

 

 さて、合奏に混じりたての頃の自分ですが、非常に楽しく合奏に参加しておりました。合奏というのはまず楽器を自分の身体の延長として扱うようになり、さらにその範囲を一緒に演奏する他者にまで拡張していく行為だと思ってます。これはめちゃくちゃ気持ちがいいものです。よくわからないですか? 『少女ファイト』『ボールルームへようこそ』『アオアシ』『スラムダンク』あたりを読むといいと思います。スラムダンクは読んでないけど。

 この段階ではおそらく自分はめちゃくちゃ感情を込めて演奏していたと思います。そしてそれがベストであったと認識しています。何に対してベストであったか、というと当然、自分が気持ち良くなるためにです。

 

 で、それから年数が立ち、経験が増してくると新しいことが起こりまして、自分の感覚が拡がっていくようになります。自分の音程のずれがわかるようになり、テンポのゆれがわかるようになり、合奏の良しあしがわかるようになり、とにかく「認識」が経験によって拡張されていくわけです。

 こうなると、単純に気持ちよくなるためには感情をただ込めるだけでは単純に「満足がいかなく」なっていきます。自分が納得いくためには高次の自己コントロールが必要になり、つまり練習と、冷静と情熱とを併せ持って演奏に取り組む必要が出ます。もっと言えば周りの人間関係とか、練習環境とか、そういう過去には気にしてなかったこともどんどん気になるようになります。

 そこがコントロールできないと「なんで演奏をしているのか」を満たせなくなる。

 

 つまり、ことは単純に「感情を込めることがよいのかどうか」というお話ではない。目的である「わたしが気持ち良くなるため」またはプロであれば「生活していくため」に必要であれば選択し、不要であれば選択されないのが「感情を込める」もしくはその他すべての演奏に付随することだと思うわけです。

 人によっては感情を込めることで最大の幸福を得るだろうし、人によっては最大の冷静さの先に求めるものがあるかもしれない。段階や認識やTPOで変化していくことであって、一般論にはできないと、思うわけです。

 

 ちなみに今の自分では、十分に練習し身体の動きが十分に身についた先に陶酔があるみたいです。自分の練習不足や自分が認識できる音程の悪さや周りとの足並みのズレに自覚的になれて、冷静、情熱どちらでもケースバイケースで盛り上がることができる。

 これはまたその後も変わっていくでしょう。それが習熟だったり、また別の要素だったりすると思うんですけど、自分はそもそも目的である「気持ち良くなるため」には最大限の努力をしたいと思うのです。

作品の感想にちょうどいい言葉なんてないんじゃないですかっていう話

突然ですが、あなたは海鮮丼を見た時点で一言感想を言ってください、と言われたときに頭の中から「うわ~ 宝石箱やぁ~!」という彦摩呂氏の名フレーズを頭から完全に消すことができるでしょうか。

 

きっかけはツイッターで見た小説作品の感想に対する「読みやすいです」は感想としてもやもやするだろうか、という話。

 

なるほど、と思いつつ、一方で思ったのは「感想なんてそんな饒舌に出るか?」っちゅう話です。

いや、世の中にはいる、なんかわかんないけどもさもさ感想が出せる人もいる、でも基本的に感想なんてのは「良かった」か「良くなかった」の二択であり、もっと言えば「良くなかった」はnot for meであり、つまるところ語彙なんてそんなにないはずなのです。

それをものすごく仔細に分解してここがよかった、ここはよくなかった、みたいに言うことができるってのは、たぶん最初からそういう「芸」でありまして。感想とはまた違うジャンルのものになっちゃってるんじゃないかと思うわけです。

 

じゃあ人はどうやって感想言ってんだ!

ってなったらたぶんだけど「リンク元」を引用してるんじゃないでしょうか。つまりその作品にたどり着くことになったきっかけの何かです。ツイッターだったり、ブログだったり、飲食店だったら食べログとか、本なら店頭のポップとか、そういう。そのリンク元で評されているときに使われている「言葉」が、たぶんそのまま引用されている率がすごく高いんじゃないかと思わけです。

 

数値はちゃんととってるわけでないので、これはたんなるヨタ話に過ぎないです。でも、だから最初に置いといたわけです。宝石箱という単語を完全に忘れることはできない。そうしたら変なこと言うより宝石箱のほうが妥当で、その妥当と思われる文脈が繰り返されることによって、それがそのまま妥当な感想になっていく。

 

だからケータイ小説における「リアル」だったり「尊い」だったり「バブみを感じてオギャる」みたいな、真面目に考えるとそれで評価としていいのかわからない感想が乱発されていたり「コシがある」「コクがある」みたいな、主観的な感覚ですら共有できるワードに収束ようになってしまうわけで、それは引用元があるわけです。オリジナルの言葉ではないと思うわけです。で、オリジナルの言葉なんてのは、出せるとするならばそれがそういう「芸」であって、普通は出てこないわけです。そもそも多くの人は造りてですらない。だから、リンク元の表現を引っ張ってそれで褒める。

 

と、なってしまえば「読みやすい」みたいな感想を貰ったとして、それは結局のところなにかっていうと「引用元情報がないから褒める語彙がなくて出る」か「引用元が『よく書けている』という表現を使ったか」のどちらかなんだと思うんですよ。

 

となればそれに対する解決方法は2点あり

・評価者との関係性の中で判断して自主的に一喜一憂する

・評価するためのワードを用意してアンケート形式で感想を求める

のどっちかではないでしょうか。

 

ってことで「読みやすい文章」はモヤっとするかもしれないけど、それは仕方のないことで読み手に解決を求められないな、と思ったのでした。

 

ちなみに、自分が小説文を読んだときには

・ドラマがあるかどうか

・読みやすいかどうか

の二軸で面白さを感じることが多いです。

 

・ドラマがある/読みやすい →面白い! と思います

・ドラマがない/読みやすい →読みやすい! と思います

・ドラマがある/読みづらい →読みづらい! と思います

・ドラマがない/読みづらい →読みづらい! と思います

 

こんな感じです。読みやすい、ならそれはかなりレベル高いと思いますです。喜んでいいと思います。でもそれ以上を引き出そうとしたら、そういう質問をするのが適当ではないでしょうか。

メインストーリー不足のシンデレラガールズ総選挙中間戦~二次元アイドルを支持するとはどういうことなのか~の話

 課金とかはしてない立場のライトユーザーなんですが、シンデレラガールズの総選挙中間発表が出てました。

 

 先に結論置いておきます。

 

・二次元アイドルを支持するというのは、二次元アイドルを支持していることを誰かに表明することでしか表現できないと思う

シンデレラガールズのこの一年には、決定的にキャラクターの人気を変動させるような要因はなかったと思う

ファンサブ二次創作の規模を大きくすることで、総選挙の場は引っ掻き回せると思う

大きな物語を作れ 

 

 最初の段は小難しい哲学っぽい話なので読み飛ばしてもよい。

 アイドルマスターシリーズでは、どのキャラを支持するかを「担当する」という特徴的な表現があるので、以降は「担当する」に合わせたいと思います。

 

「総選挙」というシステムは実際のアイドルでもみられたと思いますが、二次元と三次元とでは、大きく一点異なることがあり、これを文字にするのはちょっと辛いところがありますが、そのアイドル自体とのコミュニケーションが可能であるか、不可能であるか、というところがあります。

 つまり、アイドルを「担当する」という行為を実体化させる方法は、その行動自体を「第三者に」アピールすることでしか、社会的な意味を持たせることができない。いや、購買行動はありますが、あまりに弱く、一方向的である。

 

 なので「他の誰がなんと言おうと俺は〇〇を担当する!」という宣言は、それ自体が結局のところ、第三者に対するアピールであるし、第三者を意識するところからしかできないと思うんです。

 ブレークダウンすると、有形無形の”いいね”を稼ぐことが、二次元アイドルを担当する、という行為の中心であると思うんです。

 

 いや、そんなことはない、という反論はあると思います。しかし、単純に自分自身と、担当するアイドルの間で完結して、外にアピールされない好意は、そのアイドルが持っているストーリーが枯渇した時点で終了してしまうと思うんです。そこですぐ別のアイドルの消費を始めるという消費のやりかたもあるとは思うけれど、それは総選挙で発揮するにはコストパフォーマンスが悪すぎる。

 

 なので、それがストーリーの消費でなく、バーチャルなアイドルをリアルに感じるための「担当」なら、それが誰かとのコミュニケーションを伴うことは必至だと思うんですね。

 

 ここまで小難しい話だったので読み飛ばされてもいい。

 

 続きです。中間発表を見た今、実感を新たにしていることがあって、シンデレラガールズってこの二年くらい大きなお話が無かったなって思ってます。

 大きなお話ってのはいわゆる人文科学系に言うリオタールの「大きな物語」的なものを想定してますが、自分自身のシンデレラガールズの入り口はアニメでした。これは大きな物語だったんだろうと思います。

 で、それ以前のことは知りません。が、隆盛はその隆盛自体が物語だと思いますので、たぶん、コンテンツの成長自体が盛り上がりだったのだろう、と思っています。

 アニメ以後。アニメが面白かったので、4thライブ、5thライブと参加していったんですが、思ってたことは「お話、尽きちゃってない?」ってなことだったんです。

 いや、そんなことはないだろう、というのはもちろんあると思います。(プレイはしてないけど)モバマスもどんどんイベント打ってるし、デレステもイベントどんどん出てるし、シンデレラガールズ劇場は出てるし、U149もafter20もあるし。

 

 でも、キャラにとっての大きな困難がないんですよね。もっと言うと、ちょっと「ドラマに欠ける」っていう感覚なんです。

 ドラマをドラマとして成り立たせるためには、やっぱりそれなりの長さのお話が必要で、短編で描けるドラマと、長編で描けるドラマは違う。長編のほうが(お客さんが振り落とされる率も当然高いけど)壮大なドラマは描ける。

 アニメのシンデレラガールズで描かれたドラマを三十分で表現しきって同じ感動を生むことはちょっと不可能だろうと思うわけです。

 で、たぶんアニメが無ければ、島村卯月の第五回の一位はなかったんじゃないかと思うんですよね。

 

 で、ようやくそろそろ第七回の中間発表に話を移します。第七回の中間発表はこんな感じでした。ウェブだと公式がないので攻略サイトになってしまいますがご容赦。

 

xn--cckea5a6cidcbh6ce7ghug17a2ge3aht3nwigef51658aw7kd.com

 

 これに対する感想は悲喜こもごもだったんですが、中でちょっと目立ったのは、デレステが総選挙対称となったことで、声つきが有利になったというご意見でして。

 それはぱっと見ると確かにそうなんですけど、でも一方で、こんなツイートも見かけました。

https://twitter.com/mightydoro/status/988413797919436803

コレ前回のランキング見てハッとなったんだけど、実はそこまで変わってなかったって言う…。 ただ、前回でボイスが実装された子が今回抜けただけなんだ…。 デレステの票数ってそこまで大きくは関係してないんだ…。いうなれば、前回の結果を見て頑張ったアイドルのPがそのまま残ってるだけなんだ…。

 

 なるほど確かにと。

 ってことは、要因はいろいろあると思うんですが、ざっくり言うと第六回から第七回までの一年で何があったかって考えたときに「何もなかった」ってことになっちゃうんじゃないでしょうか?

 少なくとも、総選挙の場を動かすほどの「何か」は。

 

 実は、5thライブでの様々な発表の中では、てっきり劇場版アニメあたりが来るんじゃないかと思ってました。それは願望じゃないのって言われたらそうなんですけど、でも何より、お話が枯渇しちゃってると思ってたからです。

 新しいアイドルを心から好きになるようなボリュームの物語は提供されてなかった。そうなったら、どうしたってこれまで好きだったアイドルが中心になっちゃう。シンデレラガールズだってそれなりに長くやってるコンテンツなんだから、中でもだいぶすみわけができちゃってる。

 

 そしたら、場がそんなに動かないのは当然だと思うんですよね。どうにか徒党を組めたところが動くんだと思うんですけど、それも中間発表を見ていると、そこまで大きな規模では起こっていないっぽい。

 

 で、これは悲観ではなくて、つまるところ「大きな物語を作ってしまえば、場を掻きまわすことはできる」という解釈になるべきだと思うんです。第五回で島村卯月が見せてくれたように。

 今、それぞれのプロデューサーたちが個々にやっている活動を、繋げて、ボリュームを大きくして、アニメで島村卯月が見せたようなドラマまで大きくすると。

 壮大な話ですけど、逆に言えばこの一年間、公式がその規模の供給はしなかったってことなんですから。やってしまえばいい。それだけの数のクリエイターがシンデレラガールズを愛していると思うし、土壌は整えられていると思います。ただ、モデルとなるような活動がない。

 面白かったのは、TLがその中間発表の直後に公開されたアイドル紹介の2018年版に一気に移って行ったことで。それだけ、物語やキャラクターの関係性に対する希求があるっていうことじゃないですか。

 

 なので、すべきことは「大きな物語」を作っていくことだと思うんですよね。そりゃもちろんエネルギーの要ることだとは思いますけど。でも要因は分析しきれないにしても今までと同じ「選挙活動」では、結果は変わらないわけですから。

 総選挙のときだけまわりに支持を求めるんじゃなくて、日常的にまわりのプロデューサーと巻き込みながら、担当アイドルの世界を意識的に拡げていくことが必要になるんじゃないかなぁ、と思うんです。

 それをするには自分の担当アイドルだけじゃなくて、他の人の担当アイドルと絡むという戦略だって戦術だって必要になるし、もっと巧みに動かないといけないし、人と人を繋げないといけないし。

 つまるところ本当に「プロデュース」しないと、世界の広がりの限界を突破できないと思うんですよ。

 

 でもそれはそれで、すごく面白いことだと思うんですよね。色んなものが生まれるし、アイドルの可能性はどんどん掘られていく。

 それやったほうが楽しいし、総選挙とかしたときも成果につながるんじゃないの?

 

 と、今回の総選挙の中間発表を見て思っていたのでした。もっと、誰かのために二次創作をしたらいいと思うし、誰かの二次創作に乗っかった二次創作をしたらいいと思うし、誰かと誰かの二次創作を繋げたらいいと思う。たぶん楽しいです。

 

 長々書きましたけど、現実に存在するアイドルならそのアイドル自体が生きることが物語になるから、そのアイドルがアイドルでありたいと願う限り物語は造られ続けるけれど。

 二次元のアイドルは、そのアイドルがアイドルで居てほしいと思うには、それを願う人が物語を作ることでしか、アイドルがアイドルであり続けることはできないと。

 それは公式が供給してなんぼだという考えもあると思いますが、ユーザーには二次創作という手段が慣習的に用意されている。

 じゃあそれをしたほうが、アイドルの物語の一端である「総選挙」にもプラスに働くんじゃないの? ということです。

 

 面白いですよ、物語を作るのは。

パシフィック・リム アップライジングの話(ネタバレなし)

パシフィックリムアップライジングを観てきました!

 

pacificrim.jp

 

 ネタバレなし感想を入れていきたいと思います。監督が変更になったということで表現がどうなるかなというところが不安ではありましたが、いい意味で吹っ切れていたと思います。

 前作は「怪獣大好き監督のロボットウルトラマン」みたいなものだと思っているのですが、では今作はどうだったか、というと「日本向けスーパーロボット洋画」といった感覚で、明らかに日本のロボット好きに向けて作られていたと思います。怪獣の強大さ、というよりは、ロボットのカッコいい動き、そしてキャラクターたちの日本的お約束描写に力が入っていました。

 

 映像でカッコいい場面を作るためにはいろいろとめんどくさいところは無視しまくっていて、潔いです。エネルギーのために頭が悪いところを見せてくれます。ちょっと明らかに日本向けに作ってるのが気になるけど、友好的だってことにしておけばいい。

 じゃあそれが日本のアニメよりもすごいのか!? というところがなかなか悩ましいところで、正直、洋画でここまで日本のアニメっぽいワクワク感を出せるようになってしまったら、それこそ日本がヤバいんじゃないの、それを洋画マネーでやられてしまう時代なんだなぁ……という感じです。それ自体は前作と特撮映画との関係でもみられたものではありますが。

 

 とはいえ、エネルギーのあるものが増えていくことについては、ネガティブな想いはないものなので、今後の展開にも注目したいと思います。

Doki Doki Literature Clubの話(ネタバレあり)

面白いとお薦めいただいてSteam版でDoki Doki Literature Club! をプレイしました!

無料で遊ぶことができるノベルゲームです。いわゆるギャルゲーですね。

 

ddlc.moe

以降ネタバレ沢山含みますのでこれから遊ぶ人はご注意してくださいませ!

 

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