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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

十二年趣味で楽器をやったが、音程の話はしない方がマネジメントにいいんじゃないかと考えた話

大学時代にコントラバスをはじめてもう十二年になりました。(まじかよ十二年て)

アマチュアで、現在も週末やコンサート前にしか触らないんですが、まぁとにかく続けたはつづけたで、触り始めたときよりかは多少なりとも弾けるようになったと思うんですよね。形態は吹奏楽です。

 

んで十年目くらいにして思ったのが、音程の話はしないほうがいいんじゃないかなってことなんです。

 

音の処理は人それぞれのようなので、とりあえず自分の話をしておくと、まず相対音感です。で、楽譜のオタマジャクシの位置と指の動きを連動させることで演奏を成立させてます。難しいフレーズは作業記憶を併用させてます。指が覚えるってやつ。

なので、初見で楽譜を見ながらの演奏はそこそこの密度まで対応できますが、♭や♯をよく落とします。あと、オクターブの移調に対応できません。もっというとドイツ語音階と楽譜と脳を対応させてないのでそこの反応も悪いです。

 

で、音程の話とは何か、と言いますと、「音程が悪い」「音程を合わせる」という話です。これは現場でしないほうがいいんじゃないか、というふうに思うようになりました。

 

もちろん、上記のフレーズにはたくさんのニュアンスが含まれているので、言葉狩りをせよ、というわけではないです。ですが集団のマネジメント上、音程についての話をするのは、吹奏楽くらいの規模の集団の現場ではあんまりよくないんじゃないか、と思うわけです。

 

なしてや。

 

自分と音程について考えたとき、「自分で音程がずれてると思ったとき」と、「自分はずれてると思っていなかったけれど相手はずれてると思ったとき」と、「自分も相手も特にずれてるとは思っていないとき」があると思うんですけど、この「自分はずれてると思っていなかったけれど相手はずれてるとおもったとき」というのは、ぜったいに消すことができないのではないかと思うのです。1Hzとずらさずにクリティカルヒットできないし。

 

消すことはできないけど、減らすことはできると思うんです。で、その減らすためには何をしたらいいのか? というと、これは完全に「練習する」つまり「試行回数を増やす」ことでしか埋めることができないと思うわけなのです。自分がそうだった。自分の耳は使うことでしか鍛えられなかった。使わないで鍛えられたかどうかを試してないので、反証のしようがないんですが。で、それが十二年アマチュアでやってもまだまだ残ってるんですよ。プロとアマの差に練習量が引き合いに出されることがありますが、その練習量を確保することは自分の生活上、無理なわけです。チューナー相手に練習を繰り返すことで、ヒット率はあがっていくけど、それは急に天啓があったとかじゃなくて楽器のための可処分時間がどのくらい確保できたか、と相関が高かった。

 

つまり「音程が悪い」というのは「練習回数が足りないよ」というのに換言されると思うんですが、これも合奏で言うのはやめたほうがいいと思うんですよね。なぜなら、それで練習回数が増える可能性がある一方、練習回数を確保できないなら出ていきなよというニュアンスを持たれる可能性もあるからです。発言者にそういうつもりがなくても、そういう委縮効果を現実として発生させる可能性があるのが、集団に対する発言です。これはマネジメント上よろしくない。

 

自分の経験なんですが、自分の母は、子どもの頃に僕に音楽をやらせたがりました。理由は恐らく、幼少期にしか音楽的な素養は獲得できないから、という意識があったからだと思います。そういう風なことを言っていた記憶がある。

それが真実かどうかは不明(というか、どうでもいいと思うの)ですが、日本の主要なメディアにおいて、音楽を「才能」「特殊能力」の分野に置いていることは、絶対音感という言葉の積極的な誤用をみても、明らかなんじゃないかと思うんです。

つまり、後発で音楽をはじめたひとほど、才能がないというコンプレックスを抱きやすい。委縮しやすい。「恥」の世界に、音楽はあるんじゃないでしょうか。

 

と、いう環境下で「音程が悪いよ」と埋めようのないことを言われると、恥を避けるための行動をすることになるわけです。なぜなら自分は音程が悪いというのがどういうことかわからない。かといってその環境を覆す才能もない。でも、集団の中にいて演奏しないわけにもいかない。そのためには「埋もれようとする」んじゃあないでしょうか。

 

埋もれようとするためには、ほかの音の出かたを見てからそっと参加していくということをするわけです。周りを見て行動するのは集団心理下ではよくあることです。集団心理はすげーです。集団心理下では人は間違った答えに同意することもします。

そうすると、結果としての集団の音が汚れる。そうなると指導者は音程が悪い、綺麗な音が出てない、と言う。それは事実だけども、事実に対するコンプレックスがもとでそういう行動になってるから、事実を述べても直ったりはしない。

 

音程が悪い、では直しようがないなと思うのが現在の自分の意識です。

 

じゃあどうすんだよ、という話になる。現行のカードで最善手を出すには。

 

無視して弾くしかない。

 

たとえば自分の出音はほかの人と平均してピッチが数ヘルツ揃っていなくて、出したことによって耳の良い人に「あーずれてんなー」と感じさせる可能性がある。

この環境下で思いっきり出すことによって耳の良い三割の人に「あーずれてんなー」と思われる。ではこの環境でそろっと出すと、こんどは音型が揃わないことによって耳の良い三割以上の人に「あーずれてんなー」を感じさせるということになるわけです。これなら前者のほうがよい。だってどんぴしゃのヘルツに飛び込ませる練習量は確保できないんだもの。

 

で、音楽経験が長い人ほど、音程が悪い=そろっと入っていくということだと理解している。

でも、一方で、音楽経験が長い人ほど「音程が悪い」が実はテクニカルタームで、初心者に対するマウンティングになっていることにも無頓着だったりする。まぁ自分も個人的にも合奏の場で全体に向けたことばとしてもたくさんたくさん言われました。そのたびにわかんねえなって思った。面の皮が厚くなければ生き残っていなかっただろう。

 

ということで、音程の話はしないほうがいいんじゃない? って思うようになったわけです。それは現実的に手持ちのカードで最善の結果を出すために、コンプレックスをひっぱりがちな「音程」についての言葉を選ぶよりも、どの人が聞いても誤解やコンプレックスを産まない言葉のほうがいいんじゃないんかな、マネジメント上。と思ったのでした。

 

演奏で指導をしたことはないので、そこら辺については実体と感覚がずれてるとは思うんですけど、説明の機会やマネジメントの機会は多く持って多少の自信もあるので、そんなことを思ったと書いておいたのでした。

ラーメンズを知らない人にラーメンズを薦めるための話

先日、ラーメンズのコントの多数がチャリティーyoutubeにアップロードされました。

 

kentarokobayashi.net

 

ラーメンズのコントは自分も高校生時代に目にして衝撃を受け、自分のモノづくりにも影響を与えまくっているので、多くの人にお勧めしたいです。

 

が、100本あるとどれ見たらいいのかなって悩むのが常だと思いますんで、いくつかお薦めを抜粋しておきたいと思うのです。

 

ラーメンズのコントは、時期によって方向性に大きな差があると感じてます。コントの方向性も一緒にできるだけ解説したいと思いますので「これ面白そう」と思ったものを拾っていただくのがよいと思います。

めんどくさいうんちくとかは最後のところにまとめて書きます。

 

・第五回公演「home」より「読書対決」

youtu.be

初期に多かった、日本語のことばをあるフィールドに落とし込んで絶妙な謎場面を作り出すタイプのコント。「なんとなく相手を翻弄する朗読が出来たら勝ち」な感じで日本語をいじり倒していく。キャラクターとしてのラーメンズを知らなくても楽しみやすい作品です。

 

・第五回公演「home」より「縄跳び部」

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概ね「読書対決」と同じような感覚。小道具を視覚的にうまく応用していく演出が楽しいです。

 

・第八回公演「椿」より「日本語学校アメリカン」

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2chFlashでも引用された「千葉滋賀佐賀」が有名な日本語学校シリーズ。日本語の音を、日本語外の文化から見直していじっていくのと、朗読して反復してテンポ感を作る。Flashで使用されたり、日本語学校だけでCDが発売されたりと、音だけでも楽しみやすい作品です。

 

・第九回公演「雀」より「ネイノーさん」

youtu.be

特殊なキャラクターを用意して、それを演じるラーメンズのメンバーを愉しむパターンの作品。演劇的。このあたりはラーメンズのそれぞれを知っておいた方がいいかも。お客さんがラーメンズ大好きな人が揃ってきてしまっているので、二人に親しみがないとどうしても距離感が生まれてしまいます。

 

・第十一回公園「CHERRY BLOSSOM FRONT 345」より「蒲田の行進曲」

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二けた台に入ると、おそらく小林賢太郎氏の興味の方向だと思うのだけど、演劇的作品が多くなっていきます。一けた台から追いかけていると、ラーメンズの二人にも親しみがわいてきて、演劇的な楽しさが大きく感じられていくようになります。シンプルな舞台づくりの中、ポイントで入る演出は、ギャップが大きいだけに効果が抜群です。

 

・第十一回公演「CHERRY BLOSSOM FRONT 345」より「怪傑ギリジン

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コントより歌のほうが知名度あるかもしれない作品。ラーメンズにはよくよく「片方がずっと喋りつづける」というパターンがあり、これもそのうちのひとつです。アドリブもちょいちょいあるらしい。ビデオだとどれがアドリブなのか伝わりづらいのが難点だが、漫談的舞台に一人「何もしないひと」を置いておくと、客席との距離感が絶妙にコントロールされていくのが面白いところです。

 

・第十二回公演「ATOM」より「採集」

youtu.be

これはほぼ演劇。大好きなんですよ、これ。この公演を通しで観たら二倍楽しいんですけど。

 

・第十六回公演「TEXT」より「同音異義の交錯」

youtu.be

このあたりの公演までいくと、今度は小林氏自身が別途で脚本業をやったりしているので、演劇的な演目から、言葉遊びの演目にまた戻っていくようなところが印象強く残ります。この後の小林氏の一人コント「ポツネン」に繋がっていくような、言葉や、固定観念を巧みに使っていくような作品が楽しいところです。

 

 

■総論

舞台芸術的側面から見ると、セットの超シンプルさに注目していただきたいです。基本的にはフラットな舞台と箱しかありません。衣装も特別なものは殆ど用意されません。その中で世界観を作ってくるし、用意されないからこそ、観客の想像を巧みに誘導することができる。

また、ポイントで小道具、演出が使用された時には異常に映えます。

 

公演が二けたに入った頃から、通しで観ることに意味が生まれてくるコントが増えていきます。お時間があればみていただきたい(特にCLASSICとかは連作なので)ですが、拾い拾いで観るなら自分は第五回~第八回あたりがいいんじゃないかなぁ、と思います。うしろの公演になるほど、一本当たりの時間が長いです。

 

ラーメンズを薦めたい理由

いわゆるコント、漫才、落語、あらゆるものに至るまで基本的には「定型」があって、そこからどこまで「型破り」できるか、っていうのはあると思うんですけど、その「型を破る」というのの一形態、オリジナリティかなと思うんです。これはコント、これは漫才、というのは分類ができるけれど、「ラーメンズっぽい」ものを見るためにはラーメンズを見るしかない。だから「ラーメンズを見てみなよ」となる。「漫才を見た」「落語をみた」「劇団四季をみた」「宝塚を見た」と同じ並列に「ラーメンズを見た」を置いていいと思う。「似たようなもの」がないから。

もちろんラーメンズのコントづくりの種として引っ張ってきているもの、引用元、色んなものがあると思うんですけど、舞台総合的な情報量の多さ、独自性は、セットがシンプルにもかかわらずずば抜けて多いと思うんですね。

 

ラーメンズを薦めたい理由2

ラーメンズをしきりに勧めてくる奴にはめんどくさい奴が多いと思うんですよ。そうなると、ラーメンズに触れる機会には間違いなくめんどくさい奴がセットでついてくる。めんどくさい奴がついてくるときに見るものは、面白さよりめんどくささが勝ちます。コントや漫才は基本的に一人で観るか、めんどくさくない人と見る、つまり「薦められないで」見ることが重要だと思うんです。

だからこそ、youtubeで観れるようになったからこそ、一人で適当に拾って観れるからこそ、薦めたいんですよ、こうして記事だけ書いて放置しておくわけで。そしたら見る人は勝手に見るし、その時に気負いなんてしなくていいし、自分だって誰が見たかなんてわからないから。あとあともし見て、そんでなにか楽しめたなら「あれ観たんだけど面白かった」って言ってもらったらいい。なんて幸せな関係だろう。

もういっぺん言いますよ。ラーメンズをしきりに勧めてくる奴にはめんどくさい奴が多い。積極的に自覚し反省していきたい。

 

ということで、ちょいちょい抜粋してみました。

youtubeにはないですが「零の箱式」も好きだし、はじめて見る人に薦めたい公演です。

五分でわかる宅呑みできる家の整え方の話

先日引っ越したお友達から、僕の家が理想的と言われまして、なるほどとおだてられた感じでそのメソッドを公開しておこうと思います。

とはいえ、家なんてそんなに日常的に借りたり返したり買ったり売ったりするもんじゃないでしょうから、これから引っ越したりする人がちょっとあたまの端っこにその思考を置けたらいいと思うなり。

 

そういうわけで、月に2、3度、多い時は週に2度は10人以上の大規模宅呑みを実施している我が家がどのように成り立っているかをお伝えしましょう。

 

・駅から近いこと(我が家:JR駅から徒歩10分以内)

 遠い家には行かない。これは真実です。断言しましょう。このインターネット時代においても、遠くに住んでいる人ほど現実でも疎遠になります。間違いありません。何故か。人は行ったら帰らなくてはなりません。よってこの時、遠ければ遠いほど「ちょっとめんどくさいな」が発生します。

 この「ちょっとめんどくさいな」が大きな大きなネックです。たとえば僕の家が駅からあと10分遠かったら、人は一気に集まりづらくなるでしょう。家主にとっては通勤に慣れている道は短く感じるかもしれませんが、たまに遊びに来る程度の友人にはまだまだストレスフルな土地です。

 友達が「こんど遊びに行くよー!」と言ってくれても全く信憑性はありません。これはあれです、小さいころに遠くでできた一日限りの友達、もしくは引っ越す前の学校の友達が言う「ずっと文通しようなー!」くらいの感覚でみておくのがよいでしょう。

 自分の感覚では、普段遊びに行かない土地は徒歩10分以上から徐々に疲れていきます。

 もちろん便利な駅でかつ駅から近くなるほど家賃は高くなります。しかし個人的には、これでえられるQOLのリターンは大きい、と断言できます。通勤も通学もそれだけ近くなるから。

 

 この距離の感覚をプラス方向に修正するのが次の項目です。

 

・最寄駅に商店ほかランドマークがあるか(我が家:駅ビルほか商業施設あり)

 地方勢は東京のイベントに行くのに、東京勢は地方のイベントに来ない、の原因がこれです。単一の目的だけのために動こうと思うと、人はとたんに面倒になります。一方、地方の方は東京のあるイベントに行けば、ついでにどんなところに遊びに行くこともできます。なにかほかの目的を達成することができる場所であれば、ちょっとだけ人を呼ぶのに有利になります。

 

 次は家の中の話です。

 

・デカい四角がとれる(我が家:1.3m×5.6m)

 その空間でとることができる一番大きな四角=その家の広さ感です。不動産サイトには専有面積として実際の面積が書かれていると思いますが、参考までに我が家は確か49㎡くらいだったと思います。

 実際の広さと、広く感じるのとには差があります。広さ感を保つことによって、多くの人を収容することが「できそうな」部屋にすることができます。このためには、もっとも大きな四角がどのくらいの広さかがそのまま指標になります。

 このとき、できるだけ間に遮るものがないことが望ましいです。経験上、いちばんその空間の広さ感を阻害しているアイテムは、ソファーです。いや魅力的なんですけどね、ソファー。たとえば、ダイニングテーブルと、前方のテレビの間にソファーを置くと、実質上そのソファーによって空間は分断されます。

 ソファーが部屋の端に移動したりできるなら、宴会モードではそうしてしまうほうが吉でしょう。広く感じます。

 ちなみに、部屋の最大の家具の高さを低くすることも圧迫感の軽減につながります。

 

 宴会時そんなにテーブルでかくできんの? について。通常は長辺に2人×2の四人掛けの長方形ダイニングテーブルを使用してますが、短辺に+1~2ずつ座れます。食器を考えると、6人以上からは追加で同じ高さの折り畳みテーブルを最大2追加し、椅子も折り畳みタイプのものを加えて最大10人まで同じテーブルにつくことができます。この他に絨毯のうえにテーブルを置いてさらに5~6人くらいまで飲食できます。この投資、意外と高くつくと思われるかもしれませんが、椅子はドンキやホームセンターで980円、折り畳みテーブルも一つ1980円程度です。全然ペイしますし、椅子はそのまま踏み台代わりにもなります。

 

・掃除する。(我が家:掃除してる)

 汚い家に人は来たがりません。掃除をせよ。細かな掃除をすることによって快適に呑めます。

 最も掃除すべき箇所はトイレでしょう。トイレが綺麗であることが観光地で重要だって有川浩先生が『県庁おもてなし課』の中で書いてました。

 ここまで挙げたものすべてにわたるんですが「ちょっとだけ面倒に思う」というのが、試行回数を重ねると結構な差になってきます。部屋が汚いことによって「あの家ちょっとだけ汚いしな、今回はどうしようかな」って思われると、その回数分だけ来てもらえる可能性が下がるということです。この時、掃除した部屋を見せておけば、そもそも「今回はどうしようかな」が発生しないということです。

 

・そんなに呑みたいのかよ(我が家:呑みたい)

 呑み会である必要は必ずしもないんですけど、人が集まるということは家に空気が通るということです。「住む」用の家はふだん、住むための人しかそこに出入りしません。家族以外が殆ど訪れないということです。

 ちょっとファジーなこと言いますけど、人が来ればそれだけ、ちょっと家の中に刺激が生まれると思うんです。僕の父も家に人を呼んで宴会をするような人間でした。子供の頃はそうして家に知らない(けども父に友好的な)人が来るのが楽しみだったものです。

 宅のみで飲み物や料理を用意したとしてもせいぜい一人1500円です。一人2000円なら高級なお肉やおさかなが食べられます。

 そんで色んな人が家に来ると、いろんな交流が生まれるわけです。サロン的に。飲み屋でそれをやってもいいけど、時間や料金のこともあるし、やっぱり回数重ねるのは辛い。

 ってなると、プロの料理を食べる! とかでなければ宅呑みサイコーって思うわけです。モンテローザとかワタミとかでやるくらいなら、家のほうが満足度が高い。

 

 ということで、これから家を借りようかな、買おうかな、住み替えようかなって人はご参考いただけるとよいと思います。あとは個々人の趣味と資金に応じて! ですね。

音楽というかジャズのCDの話「Tre farger」

このブログを定期的に読むユーザーが果たして何人いるのか。

いや「ドロップフレーム」で検索して読んだついでにこっちも読むかもしれない、というほっそい希望をもとにこの記事を書いておきましょう。 

 

Tre farger

Tre farger

 

 

初見でトラファルガーって読んだよね。マンガ脳だからね。しかたない。でも同じこと絶対言われてると思うんですよ。トレファーゲルですって。

さてこのブログにたどり着いたなかに普段ジャズとか聴く人が果たして何人いるのか。

自分もそんな聴きません。コントラバス弾いててもよくわかりません。書けるのかジャズのCDでブログとか。

 

このジャケットの右上に写っているのが僕の学友でマイコントラバスの前主、小美濃くんです。この写真だとシュッとしてるけど前に合ったらもうちょいふっくらしてました。斜めから撮ったトリックだよ。自分のほうが増えたと思うからこの話はこの辺にしておこう。ジャズの話をしろよ。

 

せっかく会ったのでCDを買わせろよー! と言って本人から直接CDを買わせてもらいました。同じ機会でさまざまな方向性の談議に華を咲かせつつ。

 

ジャズが聞かれるにはどうしたらいいんだろうね? というお話。Blue Giantとかで聴く人増えてないの? とか思ったんですけども、そうでもないらしい。確かにジャズには入口がない。人はふらっとお店で知らんCDを買うようにはできていない。普段聴くテレビとラジオと、動画のBGMに出てこないものは判らない。そういうもんなのです。でも物語とくっつけるしかないと思うな。ジャズに限った話じゃないけどね。

 

だからここで書いてちょっとでも聴いてもらえるといいかもしれないよね。俺って私ってジャズ聴いてるんだって言いたい少し背伸びしたい感じのボーイズエンドガールズにね。そこまでの影響力はこのブログにはないけどね。CDの話をしろよ。

 

大丈夫、小美濃くんとは付き合い長いから。

 

CDの話します。CDを聞いた率直な感想は全体的に「おお? 思ったより前に出てこない」でした。ここまでジャズわかんねーって書き倒しましたけど、それでも十年ちょい前(十年ちょい前かもう……)くらいには小美濃くんの出てた路上ライブとかを聴いてたりしてたんですよ。逆に言うとそのくらいの感覚しかないけど。

そこで聴いて感じてた自分のなかのジャズ感って、主題とかがあって、それからソロ回しがあって、で主題とかにもどって終わる、っていう構成のなかでの、ソロが「俺を聴けー!」と言ってる感覚だったんですね。そりゃソロってそういうもんだものね。

このCDにももちろんそれはあるんだけども、三人の奏者がそんなに前に出過ぎることなく、ちょうどいい塩梅で主張します。ちょうどいい塩梅ってどんくらいかっていうと、すっと聞き流せるくらい。ま、これは視覚情報がないからかもしれないです。ふつうソロとかするときはほかの奏者の目線とかでそれを感じられるからね。でも音とかも柔らかめの印象なんだな、全体に。

そんなわけで、このCDはBGM寄りだなって思いました。部屋で作業中に流しとけるやつ。その主張のちょっと薄い感じが、小美濃くんらしいなぁ、と思ったけど、果たしてそれが本人に受け入れられるのかはわからない。

 

というわけで、ちょうどいいシャレオツ感のあるBGMが欲しい人とかで、新しいの聴いてみるかーって人はこちらのCDをお買い求めいただければいいと思います。もっぺん貼っとくね。

 

Tre farger

Tre farger

 

 

これです。モノトーンのジャケットなのでどちらさまのお宅にもすっと馴染むと思います。フラップラックなどに面出して置いて、見飽きたらしまってください。ジャズ界隈のジャケットってしばしば単色の処理されるような気がするね? なんかお作法なんですかね、最初のCDのジャケットを単色で作らないと覆面の男たちが夜中に家にやってきて楽器に油を流し込んだりするんでしょうか。今度尋ねてみたいと思います。曲ごとの感想? そんなのボロが出るから書かないよ!

 

マーケティングのお時間でした。

しきフレは死の匂いがする話

けっこういろんな作品のネタバレをします。ご注意。

アカギ、天~天和通りの怪男児幽遊白書戯言シリーズ、すべてがFになる、など。

 

■解説と用語の定義

しきフレとは「アイドルマスターシンデレラガールズ」に登場するアイドル「一ノ瀬志希」と「宮本フレデリカ」のカップリングのことを指します。GLの場合もあれば、単純に二人が揃っている状況を指す場合もあります。このお話では一定以上のストーリーがある場合ということで、どちらかと言うとGL、百合っぽいお話だと思っていただいて構いません

LiPPSについて。LiPPSは上記二名に加えて速水奏城ヶ崎美嘉塩見周子を加えた5人のメンバーのユニットです。2016年に「スターライトステージ」で披露となり、以降高い人気があります。

 

■LiPPS小説を書いたのと、しきフレでいくつか二次創作小説を読んだ

志希がなんか心に刺さったことから、前回の冬コミでは志希を中心とした小説本を出しました。(サンプルこちら)(お買い上げいただいた方、ありがとうございます)

paperview.hateblo.jp

んで、そこですっごく書きづらいな一ノ瀬志希というやつは! と思った、ということがあったのですが、せっかく自分が書くんだしということでいくつかの志希関連作品を読みまして、長編で有名なのはこちらのようです。

blog.livedoor.jp

それと、先日のコミケではこれも話題になった模様。買おうと思っているうちに完売してしまったので、DL版で読みました。

www.melonbooks.com

 

前者はフレデリカが鬱になって死にたいと発言する話で、後者は志希が自殺する話です。(この程度ではネタバレにならない導入だと思う)ここから先の論考はそれに対する批判的な論調を含んでしまいそうですが、先に述べておきます、この二つはとても面白かったです。

 

さて、この辺を読んでいてなんとなく合点が行ったんですよね。「あ、しきフレには死の匂いが付き纏っているんだな」と。

 

■そもそも天才には死の匂いが寄り添いやすいんだよ

これは物語における天才論です。一ノ瀬志希の特徴は「ギフテッド」、さまざまな作中では特に天才として発揮されることが多いです。(ちなみに、厳密には天才という意味ではない。万能選手ではないため取扱には注意が必要)物語創作において、人殺しを描くために人殺しの経験がある必要はないと言えますが、思考をトレースする必要はあると言えるでしょう。よって「天才とは?」を書くときに、天才ではない凡人の作者たち、もしくはその天才を描くのに対して同じ種類の天才ではない書き手は、どうにかしてその天才を描く必要があります。

 

この時一番わかりやすく、天才であることを表現するツールのひとつが「死生観に関すること」なんだと思うんです。

 

例としては「アカギ」を考えてみたいと思います。現在も連載中の麻雀漫画「アカギ」の初出は「天」なわけですが、この「天」のラストは麻雀ではなく、アルツハイマーの症状を前に、自死を選ぼうとするアカギをみんなで説得する展開となります。それまで登場したキャラクターがアカギを止めようとしますが、アカギは逝きます。

 

アカギが言う印象的なセリフに「人間は死んで完成する」というのがあります。これから考えると、完成した人間には死が寄り添っているということになるのではないでしょうか。

 

天才は天才ゆえにもう完成しているので、ドラマにしにくい。その天才からどうやってドラマを作るのか、というと、その筆頭が「天才を殺す(天才性を殺す)」だと思うんです。殺してしまえば、天才は天才のまま保存することができる。

「すべてがFになる」では、天才が天才たる自分(の、社会的存在)を殺すということをしています。「幽遊白書」では仙水忍は最期、樹(この二人もカップリングですよね)と誰にも邪魔されない世界へ消えていきます。

天才性を殺す、は、天才が凡人に降りてくるというもので「戯言シリーズ」の玖渚友がこれに該当するかと思います。この時は「天才として死ぬか凡人として生きるか」の二択でした。

 

ということで、天才はドラマにすると結構、死とセットになっちゃうんです。

 

■でも「フレうつ」で死の匂いするのは志希じゃないじゃん

そう。でも「しきフレ」という関係性は、天才志希と、天才を阻害しない/許容するフレデリカという関係性から成り立っているわけです。

この関係を崩してドラマを開始するには、志希にとって志希の能力を超えた何らかの出来事が必要になる。志希(二次創作的志希)は天才で大抵のことできます。一方でフレデリカは阻害しない、許容するキャラなので、能動的に何か事件を起こすとは思えない。ならば、フレデリカが死に瀕するのはどうか。これなら志希の能力を超えてドラマを作り出すことができるぞ。と。

天才の相方が死に瀕するのもまた、物語的には常套手段だと思うのですね。

 

ということで、しきフレは結構、死の匂いがすぐそばにあるカップリング、もしくは物語だなということを考えたのでした。

 

■アイドルって生命力に満ちててほしいよね

自分は志希もフレデリカも好きだけど担当だけど、でもしきフレが好きかというとそこまでそうでもありませんでして。そういう意味では死の匂いのする作品は、なんだかデレマスっぽくないな、というか二次元アイドルっぽくないな、と思ったりはします。それは二次創作だから野暮いいっこなしなのは判ってるんですけども。

ただ、意識せずしきフレの組み合わせを考えていると、すっとこの「死の匂い」が寄り添ってくる感じがするし、そのことを考えていたときにしきフレというカップリングの特性がストンと落ちたような感じがしたので、それを理解したうえで生命力のある物語つくりをしたいなと思ったのでした。

いまのところ志希やフレデリカでなにかするつもりはあまりないんですが、考察文感想文として。

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

今年もpaper-viewとkskをどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

……と、毎年できるだけ書くようにしているのですが、ここ数年はpaper-view、およびkskのお名前での活動が少ない。

paper-viewよりも「GAMEバンド」だったり「ととΘωθ」だったり「ラブライブイズ!研究会」だったり「Teamくもがみちゃん」だったりこの前新たに発足した「Hexdrunk」だったり。

kskは大抵ついてますが、どちらかっつと「ぴよ」の名のほうがずっと通りがいいですよね。kskってつけてるのは「ぴよ」だけだとお初の方に女性名と思われる場合があることと、単純に昔から使っていることとなんですが、kskってつけてると「加速なの?」って言われることも多い。

 

ま、名義はともかくとしまして、今年もいろいろ頑張っていきたいと思います。「ksk@ぴよ」で名前が通るように頑張るぞー!

2016年を振り返る話 その3 観たもの読んだもの編

もう30日のうえ明日コミケで早起きであんまりしっかり書いてる時間ないんですけどー!

 

でもちゃんと〆ておきたいので書いておきたいと思います。

 

■映画編

www.shin-godzilla.jp

今年は「シン・ゴジラ」がやっぱり一番良かったな! と思います。そのあとに「君の名は」とか「この世界の片隅に」とかいろいろ名作が重なりましたけども、そっちの印象が強くなっていくからこそもう一度「シン・ゴジラ」が良かったよね! という話をしたい。

シン・ゴジラでなにが楽しいかって言ったら自分はやっぱりシーンごとの画面情報量の多さだと思います。これはほか二作を大きく引き離して一位だと思うし、たぶんその情報量が多いっていうことに気づくためにはそれなりの素養というか、映像を見まくってないと、そこが印象だけで終わってしまう人も多いんじゃないかと思う。

ストーリーでいったら、それこそ「君の名は」とか「この世界の片隅に」のほうが楽しい。人間模様がちゃんとあるから。それはそっちに軍配挙げちゃっていいと思う。でも映像の楽しさはシン・ゴジラが一番だった。映画あんまり繰り返さない自分が二度目を見に行った。

じゃあシン・ゴジラの映像がどこが楽しいのか、っていったら全部楽しい。特に刺さったのは、ツインタワービルの間を通っていくヘリの編隊と、会議室にコピー機が配置されるシーン。

「そこにあるもの」がカッコイイものなんだ、ってことに気づかせるのってすごく大変なんだと思うんですよ。普段使いのボールペンだって、よく見れば美しい形をしている。普段使っている組織や仕組み、サービスのシステムだって、優れているものは美しい。でもこの「機能美」は、美しければ美しいほど当たり前に手に取られるんです。

でもその美しさを映像に出力することができてるから「シン・ゴジラ」はすごい。

 

と、思います。よって今年一番面白かった映画は「シン・ゴジラ」にします。

 

■小説編

弾丸スタントヒーローズ (集英社文庫)

弾丸スタントヒーローズ (集英社文庫)

 

最近、小説関係はいろいろと厳しい実情があるのか、帯に「最後の文を読んだとき、あなたは涙する!」とか「大どんでん返し!」とか、そういうのがついてて、どんなもんじゃい、と思って読むとそうでもなかったりするのが残念です。経験的に、今までそういう帯がついててそう思わされたことがないので、これからさきは避ける理由になっちゃう。

 さて。小説もそれなりに読んだけど、美奈川護さんはもっと有名になってほしいと思うので美奈川護さんを推す。

「ギンカムロ」のドラマはちょっと物足りなかったなと思うけど「弾丸スタントヒーローズ」は結末を早く読みたくて、最終的に電車を降りたホームの上で読み終えた。

小説を読んでいて止めることができなくなるような作品に出合えればうれしいと思うけど、今年はこれがそうでした。「僕が愛したすべての君へ/君を愛したひとりの僕へ」も仕掛けやバックグラウンドが面白かったけど、熱量的にはこちらをとにかくオススメしたいです。

 

■マンガ編

本当は「ドロップフレーム」を全力で推したかった。アレは絶対に化けることができる漫画だったと思うのに。そこら辺の話はいつか書きますよ。打ち切られてもドロップフレームは面白かった。それもそれでお薦めです。

「ドロップフレーム」が打ち切られてしまったので「かぐや様」を推したいと思います。これ、表紙だけだとどういう漫画かわかりづらいよね。一瞬ヴァンパイアものかなって思うくらい。でもギャグです。

「お可愛いこと」っていう声に出したいセリフがあるのが一番強いと思う。

 

ではほかの漫画はどうだったか? っていうと、平均して面白かったけど、熱量が爆発したものもそこまで見つけられなかったな、という印象。この漫画がすごいの一位にトネガワが入っているというのは、そのまま不作の印象を強めたと言っていいと思う。オンナ編は「金の国水の国」も「春の呪い」も面白かったけど、どちらかというと漫画好きでよく買ってる人向けだと思う。普段マンガ読まない人にも進められるのは「かぐや様」ではないでしょうか、ってことで今年はこれが一番としたいと思います。

 

ちなみにこれからに期待しているのは「あげくの果てのカノン」です。今年から来年にかけては八十八良先生がプッシュされていくのかなと思いますが、作品の面白さ以上にプッシュされすぎてうーん、ってなってしまう未来も見えなくはない。でも好きな作家さんなのでとても期待しています。

 

■アニメ

後日「ぴよんち」にて語りたいと思われます。

 

 

そんなわけで、2016年はこれが最後のブログになるでしょう。今年も一年間大変お世話になりました。皆様、よいお年をお迎えください。