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ksk@ぴよによるノンジャンルみだれ手記

夢と狂気のエンターテイメントビジネスの現在(シンデレラガールズ6thライブ名古屋day2感想)の話

アイドルマスターシンデレラガールズ6thライブ名古屋day2に行ってきました。

4thからライブも参加するようになったデレマスですが、今まではずっとライブビューイングで現地は初めてです。

現地でのライブ自体はもう十年くらい前にJAMProjectのライブに誘ってもらって行ってきた以来。もともとそういう文化圏に属してなかったためで、劇場でなにかを見る、っていうと、劇団四季だったり宝塚だったり、小劇場の演劇だったり寄席の落語だったり、あとはクラシックやゲーム音楽のコンサート系。

 

というわけで、現地でライブを見ていたんですが、ひとまず先に「今回の」ライブの感想を言っていきたいと思います。

 

■~開演

現地についたらもうドームの前は芋洗いだったので、チケットを用意してくれた友人と合流後は早々に中に入ってしまいました。けど、そこからはただ開演を待つばかりになってしまったので、もうすこし表の状態を見ていても良かったのかもしれないです。

名刺交換もしてみたかったのですが、担当アイドルが同じような人を見つけられずそれも断念。予習不足ですね。

中に入って最初にざっとステージを眺めて、今までライブビューイングで観ていたものの実物はこんなに大きかったのか……と溜息。ライブビューイングではこのお城を下から見上げるアングルにはまずならないので、下から見上げることができるというのがとても新鮮で有難かったです。吊りものの照明がいっぱいだった。

 

■イリュージョニスタ! ~

最初がSnow Wingsだったのはちょっとびっくり、もっと後ろでやるのかと思ってました。前半はソロの曲が多かったなという印象なのですが、中でも「追い風Running」は今まで見たより中島さんが可愛く見えました。なんでだろ、角が取れたのか、自分が慣れたのか。逆に「アツアツ♪マカロニグラタン」の種﨑さんは、色んな役の拡がりを知ってるせいか、五十嵐響子と種﨑さんをダブらせて観るのが困難になってきた印象。

で「楽園」の関ちゃん会沢さんは見たら落涙してました。居るじゃんあれ、なに……?

SS3Aでも見たはずなんですけど、SS3Aってキャラよりも曲にフォーカスしたイベントだったと感じていて、6thで観たときは個別衣装だったことも相まってか実在感がすさまじかったです。また寄せてくるんですよね。会沢さん本人は額を出さないほうが綺麗に見えるのに、そこを関ちゃんに寄せてくるわけですから有難い話です。この辺後述。

ここまでで座席からはステージは肉眼で観れないと達観。ゴンドラは見える。浮きたい。

 

■あんきら!?狂騒曲 ~

「きらりんロボのテーマ」は楽しい。「Treasure☆」もこういうコントができるとなると新しい楽しさですね。「おんなの道は星の道」がとても良かったんですが、曲がしっかり聴ける作りになっていたのがハマったんだと思います。

で「ラブレター」です。これ現地で良かった! というのは天井に映るラブレターの封が開く演出が見れたこと。お城にも映ってるんですが、それがドームの天井にもいくつか映っていて、これは面白いなーと思っていました。さらに三人揃ってあのアイドルアイドルしたキュートキュートした曲を演じられると、デレステ初登場したときのインパクトも思い出されて心にびしばし来ましたね。

 

■はにかみdays~

思ったより記憶ない。というのは落ち着いて聴く曲のほうが多かったからだと思う。

 

■Frozen Tears~

「Frozen Tears」は自分の中でやっぱり渕上さんは西住みほのイメージが強いので、これもキャラのイメージから遠いところで聞いていた曲だった。

モーレツ☆世直しギルティはSS3Aで一度聴けていたので、落ち着いて聴けたと思う。これも面白い曲だと思うので「Treasure☆」みたいにコントしてほしいと思うけど、歌詞にセクシーギルティーって入っちゃってるから難しいかなぁ……

 

■Nation Blue~

「Nation Blue」がサイバーグラスの二人だったとき思わず「やったー!」って叫んでた。「楽園」と相まってそれぞれ今回の感情の臨界点二カ所。でもこの時に思ったのは「あっ、春菜も比奈もかっこいい……」ってなことでして、ずっとこの二人のギャグキャラしか観ていなかったため、そこを掘り下げられたっていうのが驚きとともに可能性を感じた所です。後述。

「∀NSWER」もすごかったね。朝井さんの気迫が凄かった。

そこからはどんどこどんどこ情報量の嵐だったけど、alwaysについては語りつくされているので、何を書いても陳腐になってしまうような気がします。

 

■どこだったか忘れたけど

ライブビューイングではできない、現地で「後ろを向く」ができるのがほんとに楽しくて、何を見てるかってレーザー照明を見てるんですが、これが交差したり、会場に当たったり距離が遠くなると拡散していくのが本当にかっこよくて、ああこれいいなぁ使ってみたいなぁって思っていたのでした。

あとはやっぱり「高さ」です。高さのあるステージ。

 

■ということで

凄く楽しんだんですが、しかし全体を見ることはできない席だったので、次はアリーナじゃなくスタンドでみてみたい、と思ったんですが、それはそれで望んで手に入るものでもないので、機会があったら、ということで。

 

ライブの感想ここまで。

ここからはジャンルを超えた話をします。

 

いつだったかライブビューイングでアイドルマスターのライブを観に行って、この時は自分でも年に何回かのめちゃくちゃ機嫌が悪くなっている日だったので、必要以上にライブを冷静に見ていたんですが、ずっと「不気味の谷」を感じていたことを覚えています。

生身の人間がキャラクターを演じる、その声優が歌う、というのはどういう文脈で観ればいいのか? にその当時の自分はうまくフォーカスすることができなかった。ゲームの知識からだけではだめだった、と感じた。

それから何年か経って「ラブライブ!」で再びアイドル、かつ二次元のアイドルのライブを見たわけですが、これが昔見たものよりも数倍進化していて驚いてしまった。不気味の谷がかなり小さくなっている。そしてキャラクターと生身の人間を行ったり来たりしているコンテンツで、曲だけでもキャラだけでもなく、ライブ全体がひとつのコンテンツとして成立していて、どこから入っても自然に見ることができるように工夫されていた。

すごいな、と思ったわけです。

その後にシンデレラガールズの4thライブからスタートしてライブビューイングを観るようになったんですが、4th~5thくらいまではどちらかというと「声優」だったと思うんですね。間のトークもキャラじゃなくて声優としての会話だったし、ゲームの衣装を着て、キャラクターに寄せている人もいるけれど、でもそうでないひとはそうでなかったりして。

それが6thになったとき会沢さんを見て「関ちゃんだ……」とかNation Blueを見て「比奈と上条ちゃんかっこいい……」って思わず思ってしまって、あとから「あれ? 完全に声優を通してキャラそのものを観てるな自分」って思ってしまったんです。

驚きでした。間のMCも基本的にキャラクターとして喋っている構成になっていたのですから、これはもう「声優のライブ」でも「キャラクターソングのライブ」でもなく「キャラクターのライブ」なんですよね。

 

それが特異な事なのか、というのは判らないです。世の中の演劇台本は、同一の演目であれば人が変わっても同一のキャラクターを演じる、すなわち演じる人の個性というのはそこまで重要視されるわけではない、ともいえると思うんです。

けど、じゃあ忠臣蔵を見るときに「浅野内匠頭ー!」って言いながら見るかって言うとそうじゃなくて、ほう、この役者はこうやって浅野内匠頭を演じるのだな、みたいになると思うんです。

でもデレマスのライブ見てるときは完全に「関ちゃーん!」とか「比奈ー! 俺だー!」って言ってもいいような状態になってると思う。そしてそのキャラクターを演じる人というのに代替性がどのくらいあるかというと、ないコンテンツなんじゃないか、と思う。

ないってことは、役者も代替不可能なままそのキャラクターを演じなきゃいけないわけで。

 

で、その更に先にあるものとして「これはすさまじいなぁ」と思ってしまったのが少女歌劇レヴュースタァライトの舞台だったんです。あれはアニメと舞台、キャラクターと声優と、すべてを包めてひとつのエンターテイメントとして丸めていて、ほぼ谷がない。

 

ここ数年で、エンターテイメントってすごく、すごく進化してるなって思ったんです。で、どんどん資力、体力、質と量の競争になってきてる。それはすごく面白い、エキサイティングなんだけれど、そのスピードが速い。

 

この先はどうなるのか、楽しみやら怖いやら、ですが、それはものすごい人々の工夫と競争の上に成り立っていると思うと、感謝というか、尊敬というか畏敬というか、素直に言えば畏れみたいなものを感じてしまうのでした。

コンテンツツーリズムっぽいものを語る2018冬

名古屋でシンデレラガールズのライブに行くってんで、せっかくなのであちこち寄って現地に行くことにしました。

新幹線は移動距離が長くなると乗車券は複数日程使用でき、乗り降りが可能になります。折角なので東海道で旨いものを食べながら移動しよう! ということで

朝食:東京で駅弁

昼食:沼津港で魚

夕食:浜松で鰻

と贅の限りを尽くすことにしました。

 

で、コンテンツツーリズムの話を過去に何度かしていますが、今回はシンデレラガールズのライブに行くために途中で沼津というラブライブ!サンシャイン!!のコンテンツツーリズム現地に降り立ちました。都合沼津は三度目です。

今までと違うのは「淡島に行ってない」というのが大きいところです。沼津からそのまま沼津港、そのあとは浜松に向かっています。

そうして淡島を抜きにしてみてみると、沼津の駅前の街は、寂れて見えた。

いや、実際に、街としては商業施設はあまり大きくないし、商店街のキャラクターもなんだか色あせているみたいだし。

そしてラブライバーも見た所ほとんどいない。

 

コンテンツツーリズムを「常設する」ってのはすっごく難しいことなんだな、と感じました。特に沼津の駅前は特別、観光地ではない。だから「ラブライブ!」がなくなると、普通の商店街に戻るけど、特にラブライブ!サンシャイン!から戻す理由もない。

淡島マリンパークはそこ自体が観光地だし、淡島付近も三津シーパラダイスあたりまで観光地として成立する。

「町おこし」という文脈でコンテンツツーリズムを見ていくと、そこに観光資源がないものを、ただコンテンツだけで飾っても長続きしないのかもしれないですね。

 

一方、シンデレラガールズのライブ、ということで行った名古屋は、町中からシンデレラガールズのライブ参加者でいっぱいでした。たぶんこれは、名古屋ドームで大型のイベントがあるたびにこういうふうに人が集まり、そこに経済効果が発生するのだと思います。こっちはキャラクターをことさら前に出さなくても起こる現象で、イベントのための「ハコ」があるのが強いのだなと思います。

 

コンテンツツーリズム、というものは成立するけれども、その前提には観光資源として利用できるもの、食事、観光スポット、イベントのための施設、という条件があるのかもしれないな、と感じた旅行でした。

 

ライブの感想はまた別に。

ガジェット欲が盛り上がってきたのでChrome Bookを買ったらこれはPC物書きによいぞという話

たまにデジタルガジェットが欲しい欲がむくむくと盛り上がってしまうのですが、特に「出先でちょっと文章書いたり家で書いた文章をいじったりできたらいいのになぁ」と思っていて、今までいろんな方法で試してきていました。

たとえば、windows10タブレットにキーボード付きカバーを付けてみるとか。iPad minibluetoothキーボードを付けてみるとか。もうmac book air(別件で家にあった奴)にしちゃうとか。

しかし家にある母艦PCでwordで書いている自分ですが、これとうまく連携していくのにはどれも帯に短し襷に長しといった状況でした。

winタブは、電池の持ちが気になるのと、さすがにPCのwordを動かすとやや重たい。そしてbluetoothキーボードのちょっと反応が弱い感じも。充電すべきものが本体とキーボードと二つあるのも悩ましい。

mac bookはそこいくとキーボードもよくて、電池もそこそこ持つんだけれど、ふだんwordで書いているとどうしても文字の互換性が気になってしまう。あと持って出るにはさすがに重たかった。

iPadもやっぱりうまいこと届かない感じ。

 

で、また軽量のノートみたいなのがあれば出先でも色々できるかなぁなんて思い立って調べていて、chrome bookなるものがあると知ったわけです。

 

色々調べて、結局買ったんですが、結果今のところとてもよい。

 

まず買ったのはchrome bookの最軽量のモデル(といっても10種ちょっとしかないんだけど)です。

 

 

1キロ行かないのでとても軽く、winタブ+キーボードケースよりも、最初から一体なので持った時のバランスが良いです。膝の上でも使える感じ。

chromebookは最初からchromeでできることしか使えないという超限定性能のために、各種動作は非常にスムーズです。スリープからの復帰も爆速、電池の持ちも良い。

そして何より良かったのが、オフライン状態でもwordが編集できることと、googleドライブとの同期が凄く早いこと。

具体的にはこういう風に運用します。

 

・自宅でgoogleドライブの中に編集中のwordファイルを保存しておく

chrome bookでwordファイルに対してオフラインでも使用する設定をしておく

・出先でchrome bookでオフラインでwordファイルを編集する

・オンラインになると自動的にwordファイルが同期される

 

こんな感じです。他の手段でもできそうですが、chromebookはこの各動作がほかの手段に対して非常にレスポンスがよろしい。

 

難があるとすると、google docsは自動保存なので、大ポカすると一発で作業が消える可能性があることでしょうか。

充電はUSB-Ctypeなので、ACアダプターも要らず、荷物も増えない。文字コードも衝突しない。

 

ということで、とっても気に入っています。

現在で1kg未満のノートを買おうとするとwindowsではかなりのお値段になってしまうので、ちょっと物書きたい&ネットがしたい、という用途にはぴったりはまると思います。chromebook

アニメ映画「GODZILLA」三部作を見た話

アニメのゴジラのネタバレをしてお話をします。

 

godzilla-anime.com

 

公開日にちょうど予定を作れたので観てきました。

 

正直なところを言いましょう。うおおーっ! これだよーっ! というエンタテイメントな映画では

 

ない

 

というのが最初の感想です。

この感想を詳しく書くってすごく難しい。なぜなら

 

シン・ゴジラがエンターテイメントとしてよく出来過ぎている

・自分に『ゴジラ』というジャンルに対する知識が少なすぎる(シン・ゴジラゴジラvsモスラ(たぶん1992年のやつ))

 

を意識してしまっているからです。

 

そのため、ここからは「ゴジラ知識が非常に薄いが『恐らくゴジラってこうなのでは?』という予測に基づいて感想を書く」という、知ったかをしていきます。

 

映画が終わって「この映画はどういう思考に基づいてここに着地したのか?」を考えていました。

その結果「ゴジラとは?」と「勝利とは?」を両方立てた、という話なんだな、と考えました。

 

ゴジラとは?」について。先述のとおり、自分はゴジラという映画をしっかりと観ていない。けど、ゴジラという映画はたぶん、ゴジラや様々な怪獣たち、そして人間たちの戦いの中で「どれかが勝ったり、負けたりする」「今回はなにが勝ったか?」という、様式を得たのだろう、と想像しました。

シン・ゴジラは「ゴジラと人間のガチンコ」「ギリギリで人間の勝ち」。

ゴジラvsモスラは「ゴジラモスラ&バトラタッグマッチ」で「モスラが勝ち、人間も結果、勝ち」みたいな感覚です。

 

そしてそういう枠組みの中で「いかに”かっこよい画”になるか?」が描かれていく。けれど、それが「アニメである」ことによって、強さの数値はどんどんインフレ化する、いや、しなくてはならない。少なくとも特撮でやれることを、アニメのゴジラでやっても意味がないわけで。

だからゴジラは「信じられないくらい強く、大きく」なるし、人間は「ありえないくらい高度化し、種族も増える」のが当然に描かれる。すごいインフレです。でも、アニメでは普通なわけで。それがアニメで「ゴジラを描く」ということになるんだと思います。

 

そんな中でアニメのゴジラに与えられた世界観の中で「勝利とは?」を描いていくわけですが――

人間流石に勝てない。ゴジラ強すぎる。そして「ゴジラを勝たせ」「人間もまた勝たせる」にはどうすればいいのか?

となると「勝ち」とは? を哲学しないといけないわけで。

そこで単体であるゴジラと、群体である人間の「勝ち」は区別されていくわけです。

単体であるゴジラは、地球上で最強の生命として君臨することで勝ちに至った。

ゴジラに滅ぼされ、なお種としては生き続けている人間は、生存することで勝ちに至った。死=負け、生き残っていれば勝ち、というニュアンスでフツアの民が言うのは、この映画の勝利の定義を説明するセリフなのだと思いました。

その勝ちに寄り添うためには、ハルオは、死につながるゴジラとの戦いの芽を摘まなくてはいけない。そのために必要なのは、何よりもゴジラとの戦いに執着しているハルオ自身が闘いのためのテクノロジーとともに消えることである。

と、同時に、ハルオ自身は、結末はどうあれ、ゴジラと戦って終わるという、本懐を遂げるわけで。

思い出してみれば2作目からずっと「勝ちってなに?」が提示されてた。個を棄ててもゴジラを倒せば勝ちなのか。次元の異なる存在とコンタクトすることによって、約束されし宇宙の終焉と異なるところに行ければ勝ちなのか。

ということで、ゴジラも、人類も、(人類に属しているハルオも言うたら)勝った。と。

 

いうわけですが、一方でずっと「ハルオ」の視点を通して観ている観客としては、そうそう簡単に価値観の転換ができないのが難しいところで、これはバッドエンドである、と考えられても仕方のないところだと思いますし「虚淵脚本だし」という言葉にまとめられてしまいそうな気もする。

 

 

けど「ゴジラ」をアニメで描くんだよ、ってなったら、あのインフレになったら、それは仕方がないような気がしたのでした。

「バキ」シリーズみたいだなぁ。って思ったのでした。

 

感想でございました。

欲を言えばモスラとかコスモスっぽい感じもっと見たかったなぁ。っていう。例の歌を歌ってくれれば(そのくらいしかゴジラシリーズ知らないからだけど)嬉しかった。

 

そんな感じです。

沼に堕とすレコメンのしかたの話

例のドラゴンボールでマウンティングされたどうこうの話で思い出したことの話を書きます。

ドラゴンボールの話はリンクはしません。

 

自分の話をしますです。

人から勧められたものはできるだけ触れるようにしております。もちろん、時間は有限なのでどうしても手が付けられないことはあるんですが、ジャンルや媒体に関わらず「これはいいよ」と言われたものはできるだけ触れるようにしております。

 

で、身の回りでなにかが盛り上がっているときに、それに対するお薦めを受けることがあるんですが、そのときの勧め方(以下レコメンと書く)は工夫してもらえればしてもらえるほど有難いです。

 

盛り上がっている方と盛り上がっていない方の間には圧倒的な情報量の差が既にあるので、それをいっぺんに渡されても「いやいやいや」となるわけです。

 

悪友の話をしましょう。

自分はAKBというムーブメントに乗れなかった人間です。アイドルとかようわからなかったですし、すでにテレビもあまりみない時期だったので、よくわかっていませんでした。友人からはAKBについていろいろレコメンを聞きましたが、なにせ48人を超えて大量に居るので、自分としては「その友人が語るコンテンツ」として受取るのが精いっぱい。後追いではちょっと追いつききれない。

ちなみに、このときの入り口として「マジすか学園」1期はDVDは観ました。これは入口としては良かったんですが、同時期に系列のバラエティを見なくてはならなかったのでしょう。当時は確か指原さんが「いいとも」に出るとか地方にいくとかなんとかという時期。日々変わりゆくアイドルの現場にはなかなかついていけなかった。

さらに何事も経験、ということで、CDを頂いてだったかな、総選挙にも投票をしてみました。何も知らなかったので、顔写真だけが並んでいる中で、プロフィールも読み込めない状態で「この子かなぁ」と第一印象で決めました。で、その結果を悪友に報告したら「小学生! ロリコン!」となじってくれました。

知らんがな。で、そこで再び入り口には至れないまま、AKBを深く知ることなく過ぎ去ったのでした。

ま、悪友の軽口は関係性によるものです。だから多少なじられたところでいいんです。が「AKBを楽しんでもらおう」というときに、その入り口に立とうという人間に「小学生! ロリコン!」となじるのが適切ではないことは伝わるかと思います。

 

何が言いたいかっていうと、既に大量に情報持っている「あなた」からその大きな情報量のレコメンを受けてもどうすりゃいいかわからんのが受け手だと思います。冒頭に述べたように自分はどちらかといえば広く作品やエンタメを受け入れるほう、入口をさがす方だと思ってますので、他の人はもっとどうすりゃいいかわからんと思うんじゃないか、自然に避けるんじゃないかと思うんです。

 

なので「入り口」だけ教えてほしいのです。

この商店街には256のあらゆる店があり、それらは全て複雑に関係している。前回商店街総選挙で惜しくも神8店舗をはずしたこの店のラーメンはあっちの店の小麦を使っており、そこの親父さんは三軒隣の酒屋の娘と不倫している。この酒屋の娘と娘の彼氏である文房具やのせがれが(以下略)

なるほどそりゃ確かに壮大な物語だ!

けど「ラーメン食ってみ」だけ教えてくれっ! あとは自分で沼にはまるから!

 

と。

 

なんでこれが起こってしまうのか。

「喋りたい」からなんだと思うんです。

「レコメンしたい」「この作品は素晴らしいから知ってもらいたい」というのは、その想いをうらっ返したとこに「その作品について喋りたい」を持っていると思うんです。

まだ早い。まだこっちは知らないんだって。それはレコメンのような形を持っているかもしれないけれど、実は、喋りたい欲求の方が前に出ていやしないかい。

 

 

と。

 

なんでドラゴンボールのマウンティングの話でそれを想ったかっていうと、人気作品を読んでいないことをなじるっていうのは「私が相手の知らない作品を知っていることで、安全な位置から優越感に浸る」という意味で「喋りたい欲求が前に出た」の極致だと思うからです。

てことは、その延長線上、濃淡の中に、レコメンする行為はあると思うのです。

 

じゃあどういうことかい「勧めるな」ってことかいっていうと、そうではなく。

「勧める」と「喋って楽しむ」のバランスで「勧める」に機能特化するなら、情報はむしろ絞っていくべきだと。

「ここが入口だ」だけレコメンする方が「勧める」としては正着手なのではないかと。

 

と、いうことを考えていたのでした。

「入り口」として適切なものを吟味しレコメンするのは、それはそれでかなり難しいことでもありますが。

 

これが漫画や映画、そこまで広がりの大きくないものごとであれば「読む!」「見る!」だけで済むんですが、メディアミックスされていたり、スポーツみたいにチームやドラマが広く広がっているものだと、やっぱりそういう「入り口」が欲しいなと思うのです。

フェミニズムとか、女性の身体性に関することのメモ

いろいろと話題になりやすいので、覚えていることと考えていることをメモ。

 

フェミニズムというと現在のネット上では「フェミ」と略されラベリングの対象となってしまうけれど、”そこそこ”男女同権(以降はそこそこを省略)を達成している現代において、歴史的な観点で見ることも難しいので「アファーマティブアクション」はそもそも難しいんですよ、という考えを自分は持ってる。

 

例えば昭和初期とか、さらにそれ以前であれば、男尊女卑だったり、もしくは女性蔑視、もっと過去になれば女性は取引の対象、モノ扱いに近かったりする、ということはちょっと歴史を勉強するだけでもそこそこわかる。

 

なので、現代に生きる人も多かれ少なかれ「男尊女卑の価値観下に居た人」はいるはず。今での旅館で出されるご飯はおひつを女性の前に置きわざわざ「女性の方がよそってください」と説明するようで、これはそうしないと客からクレームが来る場合があるそうだ。と、twitterで読んだ。つまり、普段目にしないだけで、男尊女卑の価値観の人はまだいる。

 

過去から現在に渡って男女同権を獲得してきたのは誰かというと、その中にフェミニスト(だけで分類できないことはわかっているけど、ややこしいので省く)、活動家が居たわけで、この人達からすれば「過去に受けた性差別はどこで”チャラ”になるか?」「いま活動をゆるめたら、また男性優位社会に戻るのではないか?」という実体験に基づく不安があるのではないか。

 

同じことは様々なジャンルで言える。被差別部落、身体障碍、黒人などなど。同権にするための活動は、同権に近づくほど歴史について意識されなくなるし、その活動が目について煩わしいと思う人が増えるだろう。

 

それについてどうせよ、こうせよ、というつもりもアイデアもないけれど、だから埋めがたいなぁ、と思うし、たとえば女尊男卑に傾いたとき、同じ方法でバランスを取るしかないのだろうか、という懸念はある。

 

ちょっと話はずれるけれど、こういう「社会運動」はそれ自体もサークル活動的な側面を持つわけで「私たちの目標が達成された!」となると、サークル解散になっちゃうから、これはこれで問題を叫び続けるきっかけになっちゃうな、というのが難しいところ。

 

で、ここから(女性の)身体性に関するメモ。記事タイトルとは別に括弧をつけたのはきっかけはいま話題になってる件が女性の身体性に関わるものだけど、別に女性に限って考えるつもりはないため。あとタイトルをキャッチーにするため。

 

前段でフェミニズムについて書いたのは、この話をフェミニズムにしてしまうと本質を見誤るような気がする、と考えたから。

 

自分はそこそこジェンダーフェミニズム周りの歴史に触れてきたほうだと思うけれど、あんまり女性の身体性を消費すること=人間やキャラクターの女性像をその見た目で一方的に評価したり楽しんだりすること、に違和感はない。これは自分が男性であるからかもしれないけど、究極わかんないよ、という前置きを入れておく。

 

「社会的性別」と「生物学的性別」はここ数年で別でもいいよ、というスタンダードになってきたな、という感覚がある。で、最近よく言われる、キャラクターとして描かれている女性像がどうの、という議論にはこれに加えて「所有する社会/生物学的性別」と「消費する社会/生物学的性別」を加えて分析してみるといいんじゃないか、と思う。

 

例えば「自分」が所有している社会的性別と生物学的性別はともに男性。(これも多様に広がりがあることは理解してるけど、ややこしいのでここは男女二項にさせて)だけれど、男性の人間やキャラクターの身体が消費されていてもそんなに嫌だとは思わない。たとえばゲイはここ十数年ニコニコ動画のネタとして消費されつづけている。

同時に、女性についても目の前の女性が巨乳だ貧乳だとやいやい騒ぐことはしないが、タイムラインに女性や女性キャラが現れると反応したりおっぱいおっぱいと騒いだりはする。

 

似たようなことは男女にかかわらず身の回りにも観られると思っていて、周りには腐女子腐男子もいるし、女性キャラクターの描かれ方で盛り上がる女性も当然いる。コスプレイヤーの方々なんかは、自分の身体で表現しているにも関わらず、その身体の表現結果は自分自信の身体と切り離しているようにも見える。

 

おそらく現代の主流、もしくは穏便な考え方っていうのは「実際に自分が持っている社会/生物学的性別」と「存在する者として消費や利用される社会/生物学的性別」は別である、というものだと思う。つまり女性の前で「この女性キャラクターの胸の表現は美しいよね」とか喋ってもセクハラにはあたりにくい(表現方法や文脈や声色や色々あるので曖昧な表現にとどめる)ということ。もしくは、ライトノベルの表紙や、多少肌色の多い衣装、アスリートのユニフォームや半裸姿などが問題なく陳列されるなど。

 

先に言っておくと、それが男女平等に消費されているかはわからない(計測のしようがない)し、そういう風に消費することが都合がいいから、現代の主流になっているだけなのかもしれない。それは主観から逃れられないので、ジャッジはできない。

 

さて、自分ではない人物、キャラクターの身体表現が我慢できない、という人の中には「自分」の持っている性別と消費、利用される性別が分離できていない人が居る、ということは考えられないだろうか。つまり、ある男性の主観から見たすべての男性、男性キャラクターの肉体は自分の肉体と同じである、という考え方。

 

もしこの考えによって「気持ち悪い」という感覚を抱いているのだとしたら、そこから先はたとえそれがフェミニズムっぽい文脈を持って語られたとしても、実際には「自己と他者が精神的に未分化」ということになったりしないだろうか。そうだとしたら、このお話を表面に出ているものだけで「フェミ」という略語で断じても、お話は空中戦から脱しようがない。たぶん、フェミニズムのようでフェミニズムの問題ではない。

 

現状として女性、女性キャラクターに多くこの話が見られるように思うのは、前段で触れたフェミニズムジェンダーに関する歴史があってのことかもしれない。論法や政治の戦略としてフェミニズムを持ちだすのは、主張する側には強い材料なのかもしれない。

 

「相手がなんか自分たちには実感できないことを主張している」ということは、どうにもフェミニズム批判だけでの反論では弱いように思う。

社会学者とタレントが共演してるときのメモ

以前に爆笑学問だったかで、爆笑問題上野千鶴子さんが出てた時に「ぜんぜん話噛み合ってないな……」と思ったことがあって、最近調べたら古市憲寿さんという社会学者もテレビでコメンテーターと意見がぶつかったりしてるのをネットのニュースで見た。

 

社会学者とタレント(とくに芸人に分類される出演者)は根本的に、話が合わない。と、思っているので、その簡単な整理をここにメモしておく所存。

 

ただちょっとめんどくさいのは「社会学者」として挙がってくる人は「社会学者」だけではないことが多い。政治学者を兼ねてたり、フェミニストを兼ねてたり、まぁ色々肩書があって、で、その時その時で仮面を付け替える。だから「社会学者」としての上野千鶴子さんと「フェミニスト」としての上野千鶴子さんを「同じ人物」として見る視点と「違う人物」として見る視点を両方持っていないといけない。「違う人物」として見るだけではうまくいかないのが面倒なところだ。でも両方持ってないといけない。

 

ここでは「社会学者」としての部分にフォーカスして書く。

社会学者」は「人が複数以上いると現れる、個人を離れた性質に着目し、社会を読み解き、提案する立場」とここでは書き表しておく。社会には偏差で表せば標準的な人と偏っている人が存在しているが、その存在全体の山そのものを観察するのが社会学者。

前に「喪男(モダン)の社会学入門」で千田有紀さんが行っていた「自明性を疑う」を日常的にやっているのが社会学者。

 

ふつうの人は自明性を疑わない。自明性を疑うのは、自らの社会性から距離を置くことで、それなりに訓練が必要だし、やりすぎると社会生活が辛くなる。だから「社会」は自明性をそんなに疑わない。

 

いっぽう、タレントを書き表すには「社会を理解したうえで、その中で突出することで成立する職業」としておきたい。社会で言えば、偏差の偏りのはしっこに居るのがタレント。はしっこにいるために、突出するためには、その集団を何より理解し読み込み、内面化してないといけない。自明性を疑わない。

 

こんな感じで完全に逆なので、そもそも話が噛み合うわけがない。どちらかに合わせるとアイデンティティを失う。

社会学者は集団を見てその全体を説明し、気づきを与えられるような発言をしないと社会学者っぽくなれない。

世の中の人はそんな気づきが欲しいわけではないが、社会学者、という権威「だけ」が存在しているか、優位ならば「なるほどなぁ」と思うかもしれない。

タレントは集団とその性質を内面化しているが、その中で理想像となるように必要な言葉を発することでタレントたりえる。

 

社会学者は「この集団はだいたい9割くらいの人がこういうふうに考えてます。しかし、気づいてないこういう考え方があるのではないですか?」と言う。

タレントは「私は(みんながなりたい、したいと思っている)こういう考えだ」と言う。

耳障りがいいのはどっちかといえば後者。そういうふうに演出されていることが多い。

 

ので、社会学者を一人出しておくと、コメンテーターとわかりやすくぶつかったりしてショー的にはいいんだろうけど、結局のところ社会学のことは理解もとくべつされないし、相性が悪い、と思う。

 

メモでした。